空室に春が残る 2
――ピンポーン
寝っ転がって携帯をいじっていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。夜も更け、そろそろ日付が変わろうかというところだ。こんな夜中に誰だろうと訝しみつつドアを開くと、思いがけない人物が立っていた。
「え、クロロ?」
外廊下の裸電球の光に照らされたクロロが無表情でこちらを見下ろしている。二人で暮らしていたあの家を出てから、実に半年ぶりの再会だった。
「えっと……立ち話もなんだし、とりあえず入る?」
「ああ」
クロロはなんの躊躇もなく入ってきた。そして部屋をぐるりと見回し「まるで犬小屋だな」とどこぞの貴族だと突っ込みたくなる台詞を吐いた。喧嘩売りに来たのかこいつ。
シングルベッドが部屋の半分を占領する狭いワンルームで、卓袱台を挟んでクロロと向かい合わせに座る。ソファーや座椅子なんてものはなくお互い床に直座りだ。生活感溢れる部屋にクロロの存在は完全に浮いていた。今日は白シャツに黒いパンツというシンプルな出で立ちだけど、あのゴテゴテしたコートだったらもっと浮いてただろうな、と場違いなことを思う。現実逃避とも言う。
(まさか訪ねてくるとは思わなかったな)
この半年間音沙汰なかったから油断していた。驚きすぎて普通に招き入れてしまった。
クロロは何も言わずじっとこちらを見ている。沈黙が、蜘蛛の巣のようにねっとりつまとわりつく。耐えきれずに口を開いたのは私だった。
「久しぶりだね」
「そうだな。ナマエが何も言わずに出て行ったから居場所を突き止めるのに手間取った」
すかさず嫌味を返され閉口する。あれ、もしかして怒ってる?
「どうして出て行ったんだ?」
一瞬返事に窮して、それから答えた。
「あー……勝手なことしてごめん」
「オレが求めてるのは謝罪ではなく理由だ」
すげなく跳ね除けられる。どうやら本当にご機嫌斜めのようだ。
クロロの不貞腐れたような態度に、私は内心とても驚いていた。そりゃあ何を告げずに出て行った私が悪いんだけど、正直クロロは何も気にしないと思っていたからこの展開はあまりに予想外だった。頭がついていかない。
「理由はまぁ色々あるけど……気分変えたかったっていうか、前に進みたかったといいますか」
「なんだそれは」
眉を顰めクロロは私の顔を見た。この答えじゃご納得いただけないようだ。目の前の難解極まりない男をどう納得させたものかと考え、もっともらしい理由を口に出した。
「だからー、私もそろそろ結婚したいし、そうなると男と同居してたら体裁悪いでしょ?」
「結婚?」
まるで異国の言葉を聞いたかのようにクロロが首を傾げる。クロロの口から結婚ってワードが出てくるのちょっと面白いなとか内心思いつつ、私は大真面目に頷いた。
どうやらその答えは彼の中の何かに引っかかったらしく、ブツブツ呟きながら自分の世界に入り込んでしまった。こうなったらしばらく戻ってこない。そこでようやく私は一息つけた。
(私が思ってたよりは気にかけられてたってことか)
そのことは素直に嬉しい。ただ一方で、どうにも腑に落ちないというか、なんだか変な感じがした。クロロってそんなことするタイプだったっけ……と不思議に思う。
こうしていても暇なので、立ち上がって冷蔵庫から缶コーヒーを二つ取り出した。一つはクロロの前に置き、足を投げ出して横向きに座り直す。
「ならオレとすればいい」
プルタブを開けた時、クロロがぽつんと言った。私は黙ってコーヒーを飲む。無視したわけではなく、クロロの独り言だと思ったからだ。
「オレとすればいい」
「……ん?」
クロロが同じことを繰り返す。その言葉が私に向けられたものだとようやく気づいて、ゆっくりとクロロの方を見る。黒々とした目がこちらをじっと見据えていた。
「すればいいって、なにを?」
「結婚したいならオレとすればいいって言ったんだ。三度も言わせるな」
思わず手に持っていた缶を落としそうになった。あやうく買ったばかりのラグがコーヒーまみれになるところだった。
私はぽかんとクロロを見た。あまりに予想外のことを言われて返す言葉を見つけられなかった。
「なんで?」
やっと出てきた台詞はそれだった。
「ナマエとならしても構わないと思ったからだ」
「はあ?」
「結婚したら一緒に暮らしていても問題ないだろう」
――こいつ、薬でもやってんのか?
クロロのあまりに突飛な発言に本気で正気を疑う。しかしこちらを見据える目に理性を失った様子はない。余計に怖くなった。
(何か変なものにでも憑依されたか?)
思考が混乱を極める中で、あらためてクロロの顔をまじまじと見つめる。
――そこで、ふと気がついた。
空虚な、それでいて黒々とした目の奥に、かつて見たことのない感情の揺らぎがあることに。
(こんなクロロ、初めて見た……)
いつでも彼は泰然としていて、達観した風情すらあったのに。会っていなかった半年の間に何かあったのかもしれない。この男を揺らがせるような大きな何かが――。
私は軽い目眩を覚えた。ずるい。こんな弱った姿を見せられたら、ぐらっとくるに決まっている。今のクロロを見ていると、彼に恋い焦がれていた過去の自分に引き戻されていく気がした。
(せっかく断ち切ることができたのに)
惰性で続けていたクロロとの関係を清算したくてあの家を出たのに、裏目に出てしまった。
「何か不都合なことでもあるのか?」
クロロのその一言で私は我に返った。薄情なことに今の今まで忘れていた存在を思い出し、私は気を取り直して答えた。
「あるよ。私今付き合ってる人いるし」
「…………は?」
クロロがうろたえて絶句するのを初めて見た。
「恋人、できたのか」
「うん」
信じられないという顔で見られて、頭の芯が冷えていくのを感じた。私がクロロ以外の男に目を向けるわけがないとでも思っていたのだろうか。とんだ自惚れだ。
ふたたび気まずい沈黙が流れる。なんだか何も言う気になれなくて私は黙々と缶コーヒーを啜る。クロロも随分長い間黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「――分かった。」
それだけ言うと、クロロは立ち上がって部屋を出て行った。
「なにあれ」
一人きりになった部屋で、ぼうぜんと呟く。
まるで狐につままれたような気分だった。もしかしたら本当に化かされたのかもしれない。あれは本物のクロロじゃなくて、クロロの形をした別の何かだったのではないだろうか。そんなばかげたことを考えながら、テーブルに残された未開封の缶コーヒーをいつまでも眺めていた。
――それから数日経って、クロロから郵便が届いた。
薄っぺらい封筒を開けてぎょっと目を剥いた。中身はなんと婚約届だった。『どうせろくな男じゃないんだから俺にしておけ』と書かれたメモ付き。今の彼との関係を見透かしたような一文に苛立って、思わずぐしゃりと握った。
どうやらあの日の馬鹿馬鹿しい提案は本気だったらしい。
惑わされるな、と自分に言い聞かせる。こんなものは一時的な執着に過ぎない。クロロにとって私は床に散らばるガラクタたちと同じだ。飽きて捨て置いていたガラクタが思いがけず逃げ出したから少し惜しくなっているだけ。そこはちゃんと分かっている。
今ここで手を伸ばしたら、それで終わりだ。手に入れてしまえば、あの男は満足して背を向ける。生きてゆく上で何よりつらいことは、嫌われることより興味を失われることだ。私はもう二度とあんな虚しさを味わいたくない。
(だいたいこの紙切れ一枚が何してくれるっていうのよ)
皺が寄ってよれたそれをひらりと放って、ベッドに身を投げ出す。
惑わされるな、ともう一度心の中で呟く。何度も繰り返し言い聞かせる。クロロと結婚なんてありえない。破綻するしか未来しか見えない。
絶対にありえないと思いながらも床に落ちた紙を破り捨てることもできず、それどころか頭の中で印鑑の在り処を探している自分がいた。そんなことを考えている時点でもうすでに負けているような気がする。
私は仰向けになって天井を見上げたまま、いつまでも途方に暮れていた。