main | ナノ

空室に春が残る


「他人と暮らす上で大事なことはなんだと思う?」
「……相手への気遣いと思いやり」
「違うな。妥協と諦めだ」

 リビングのソファにふんぞりかえったクロロがもっともらしい顔でのたまう。ただ共有スペースに私物を置くなと言っただけなのに、なぜ同居の心得を説かれているのだろう。相変わらず回りくどい男だな、とうんざりしながら私は問いかけた。

「何が言いたいわけ?」
「つまり、気にした方が負けってことだ」

 屁理屈でしかない理論を振りかざすと、用は済んだとばかりに手元の本に視線を戻される。勝手に話を終わらせるなと言いたいところだけど、本を読んでいるときのクロロに何を言ってもまともに取り合ってもらえないことは過去の経験からよく分かっている。
 沈黙が落ち、これはもうダメだな、と結局私が折れる羽目になった。
 溜め息を吐いて、足の踏み場もないほど物で溢れた床に視線を落とす。そこには埃をかぶった装飾品や傷の入ったキセル、表紙の端が千切れた本など、一見ガラクタにしか見えない物たちが無造作に置かれている。
 過去に一度、リビングを荒らされた腹いせに床に転がっていたガラクタの一つを質屋に持っていったことがある。文字盤にヒビが入った懐中時計だ。どうせ二束三文にもならないだろうと高を括っていたら目を剥くほどの買値が付いてしまい、慌てて持ち帰ったのは苦い思い出だ。その日から万が一傷でもつけたらと思うと指一本触れられなくなった。そのことをクロロに話したら「小心者だな」と鼻で笑われた。私から言わせればそっちがどうかしている。

 何もかも噛み合わない私たちが同居を始めたのはもう随分と昔のことだ。どうしてそんな流れになったのかいまいち覚えていないけど、両者の利害が一致していたからだと記憶している。
 クロロは思い立ったその日そのときに都合よく立ち寄れる清潔に整頓された住処が欲しい。私は利便性がよくて職場に近いところに住みたい。お互いの動機は大体そんな感じだったと思う。
 この小綺麗な家を買い上げたのはクロロだ。同居を提案してきたのも。タダで広い部屋に住めるなんて私には願ってもないことだったから、二つ返事で受け入れた。
 同居と言ってもクロロが帰ってくることは稀だった。彼からしたらこの家も仮宿の一つにしか過ぎないのだろう。実質、私の一人暮らしのようなものだった。
 しかし二週間ほど前、何の前触れもなくクロロが帰ってきた。平穏が保たれていた私の城は瞬く間に侵略され、今や見るも無残な散らかりようだ。いくら片付けろと言ったところでクロロは聞く耳を持たない。毎度のことながらよくもまあこんなに散らかせるものだと呆れを通り越して感心する。
 ガラクタに埋め尽くされた部屋を眺めていると、なんだか無性にコーヒーが飲みたくなってきて私はキッチンに向かった。ケトルに水を汲み火にかけていると「オレの分も頼む」という声が飛んでくる。あまりの遠慮のなさに少し笑ってしまった。

(そういえば、コーヒーの好みだけは合ってたっけ)

 そんなことを思い出しながら、結局クロロの分も淹れてしまう。

「蜘蛛の頭が聞いて呆れるわね。そんなんじゃ下に示しがつかないんじゃない」

 ソファの前のローテーブルにマグカップを置きながら嫌味をこぼせば、クロロは「問題ない」とだけ答えた。それで話は終わるかと思いきや、ふとこちらを見上げて薄い笑みを浮かべた。

「こんな姿を見せるのはナマエだけだ」
「いや、そういうのいいから」

 甘さを孕んだクロロの言葉を、間髪入れずに切り捨てる。
 昔の私ならその一言で丸め込まれたかもしれないけど、あいにくとそんな時期はとっくに過ぎている。クロロは軽く首を竦めて「これじゃもう絆されないか」と言った。その目が笑っている。こちらの睨む視線を軽くかわして、クロロはふたたび本の世界に戻った。
 その顔を眺めながら、コーヒーを呷る。つくづく好みの顔だと改めて思った。
 どうしようもなく焦がれていた時期もあった。いつも彼の帰りを待ちわび、ろくに視線をくれないことを恨んだことも。しかし時の経過と共にそんな情熱は薄れ、諦めが私の心を覆うようになった。
 クロロのような男が私のものになることはないし、万が一そうなったとしても私の手に負えるはずがない。分不相応なものを追い続けられるような体力も傲慢さも私は持ち合わせていない。もっと平凡な私に相応わしい相手がいるはずだと、いつしかそう思うようになっていた。
 ――そこで、はたと思い至る。
 妥協と諦め。まさにさっきクロロが言った通りじゃないか。

(なんか癪だな)

 すべてクロロの掌の上で転がされているような気がして、嫌気がさす。きっと彼にも扱いやすい女だと思われているんだろう。
 唐突に、そんな自分を変えたいと思った。過去を捨てるつもりはないけれど、そろそろ区切って進んでみてもいいかもしれない。その思いつきは軽やかで、部屋の模様替えをしたくなる感覚とよく似ていた。
 手始めに、環境を変えてみようか。クロロが居なくなったら、荷物をまとめて出て行こう。次にクロロが帰ってきたとき部屋がもぬけの殻になっていたら彼はどんな顔をするだろうか。きっと表情一つ変えないんだろうけど、それでもいい。こういうのは想像することが楽しいのだから。
 緩みそうになる口元を隠すため、コーヒーに口をつける。

 クロロが居なくなることを待ち遠しいと思えたのは、この日が初めてのことだった。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -