七、妄念を宿してはいけない

「おや、怖い顔してどうしたんだい?」

 現れた彼が物柔らかに問いかける。髭切は優しく微笑んでいたけれど、その笑みは迂闊に冒してはならない威厳のようなものがあった。空気に呑まれそうになるのをぐっと堪えて、私は立ち上がった。

「聞きたいことがあるの」
「ん?」
「どうやって私の真名を知ったの」

 ざあ、と夜風が吹き抜ける。触れる空気に冷たさはないのに、不思議と肌寒く感じた。

「さあ、なんのことだか」

 うそぶく髭切の笑顔は崩れない。

「とぼけないで。真名を知らなければ神域になんか連れてこれないでしょう。どうやって手に入れたの」
「ははは、まるで泥棒扱いだ」

 のらりくらりとした口調で髭切が言う。ちっとも取り合う気のない態度に腹が立った。なりふり構っていられるか。こっちはもう後がないんだ。

「どうして教えてくれないの?ここに連れてきた理由も、何も……どうせ消えるんだから、一つくらい教えてくれたっていいでしょう」
「知る必要がないからね。知ってしまったら、もう戻れなくなってしまうよ?」

 言葉に詰まる。それは警告だった。人でありたいのならば、おとなしく人の領分にとどまっておけ、と。

(怯むな)

 こんなことで諦めてしまったらこの神の本心なんて知れるはずがない。己を叱咤して食い下がった。

「それでも私は知りたい。知って後悔したとしても、知らないまま消えるよりはずっといい」
「うーん、困ったなぁ。君は色々と考えてしまうんだねぇ」

 髭切が眉を下げる。手のかかる妹の我が儘を聞くような他愛のなさを感じて、無力感がじわじわと胸を襲ってくる。
 髭切はやんわりと、だが頑に答えをくれない。どれほど切実に望んでも、決して。そのことを思い知らされて、さっきまでの意気込みがどんどん萎んでいくのが分かった。同時に、視界が滲んでいく。醜態を晒したくなくて俯いた。
 沈黙が落ちる。やがて、心の奥底まで滲み入るような優しい声が耳殻を撫でた。

「恐ろしいことはほんの一瞬だ。それよりも想像している時間の方がずっと長くて苦しいものだよ。君には穏やかな時を過ごしてもらいたいんだ」

 ゆっくりと諭すように言われる。髭切はきっと私のことを思って言ってくれているのだろう。でも、今の私にはひどく残酷な言葉に聞こえた。余計なことは考えず、ただただ消える運命を受け入れろと言われているようで……。まばたきで何度も散らそうとした涙が、とうとう目じりからこぼれ落ちた。

「怖がらなくていいよ。もっと大らかに、ゆったり過ごそう」

 そよ風が吹き込んで頬を撫でる。まるで慰めるかのように。
 ――これ以上、踏み込むべきではない。このような振る舞いは不遜だ。神に楯突き、問い質し、対等に渡り合おうとするなんて。審神者だった時の私ならばそう考えるだろう。
 でも、今の私は審神者じゃない。ちっぽけで、傲慢な、ただの人間なんだ。

「そんなの嫌だ」

 きっぱりと言い切る。顔を上げて強い視線で見れば、髭切は面食らったように目を瞠った。

「髭切さ、ここにきてから一度も私のこと主って呼んでないよね」

 私の勢いに髭切がわずかに気圧される。

「私も今の自分を審神者とは思ってないよ。名字名前っていうただの人間。私はもう本丸にいた頃の聞き分けの良い審神者じゃない。」

 髭切の目がさらに見開かれる。生意気な態度を自覚しながら私はさらに続けた。

「付喪神とか審神者とか、そんなの知らない。そんなことで知りたいって思う気持ちを諦めたくない」

 荒々しい感情が、心の奥底にしまいこんでいた思いを押し流す。それは誰にも伝えていなかった、生涯伝えるつもりもなかった本心だった。

「言っとくけど、私かなりしつこいからね。髭切からいい加減にしろってうんざりされてもやめないから覚悟しといて!」

 最後はもはや喧嘩腰だった。
 髭切は珍しくぽかんとした顔でこちらを見ていた。興奮の余韻と、やってしまったという後悔が入り混じる。神に啖呵を切るなんて不敬にもほどがある。今度こそ間違いなく不興を買っただろう。
 髭切の顔を見る勇気が出なくてさっと俯ける。まるで審判を下されるのを待つ罪人のような心持ちだった。
 しかし、数秒の沈黙のあと、聞こえてきたのは吐息がもれる音だった。

「……なんで、笑ってるの」
「ありゃ、バレたかい?」

 髭切がパッと口を片手で覆う。しかし口元を隠しても笑んだ眼差しが私を射抜いた。てっきり怒りを買うかと思ったのに、この神様は笑っていた。私ごときが無礼を働いたところでまったく響かないということだろうか。悔しさがこみあげて唇を噛みしめる。じっとりとした視線を向けるが、髭切はそれすらも愉快そうに受け止めた。

「いやぁ、嬉しいものだね」
「うれしい?」

 理解不能な単語を鸚鵡返しする。怪訝な顔をする私を見て、髭切はさらに目尻を下げた。

「うん。君が僕のことを知りたがってくれてるのが嬉しいんだ」

 笑い声に混じって告げられた真剣な言葉は、まっすぐ私の心に突き刺さった。

「なにそれ…………」

 まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
 髭切がまた笑みを深める。その顔が、これまで見たことがないほどの慈しみと深い愛情に溢れているように見えて、さらなる混乱に打ちのめされた。お願いだから、そんな愛おしいものを見るような目で見ないでほしい。そんな顔をされたら、また錯覚してしまいそうになる。もうすぐ魂が消えるものが抱くべきではない、愚かな妄執を。
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