六、我欲を殺してはいけない

 審神者という役目を与えられた日から、堅く心に決めたことが二つある。一つ、付喪神への畏敬の念を絶やさないこと。二つ、自らの立場を弁えること。
 刀剣男士の多くは審神者を主と呼び慕う。しかし審神者とは神に仕えるただの人間に他ならない。間違っても審神者が神を従えているなんて思い上がった考えを持ってはいけない。傲り高ぶった思考は身の破滅を招くことになるからだ。
 彼らが神であること。私が人であること。神と人の道は交わらないこと。それだけは決して忘れないよう胸に刻み込んだ。それが審神者として正しい在り方だと信じていたから。
 しかし、理由も分からぬまま現世から締め出され、魂の消滅を待つだけの身になって、もはや何が正しかったのか分からなくなっていた。
 それでも、いつか果てる命だとしても、こんな風に終わりたかったわけではない。それだけは確かだった。



 甘い花の香りが鼻先をかすめて、私は目を覚ました。横たわったまま、開かれた障子の向こう、中庭に視線を向ける。太陽はもう塀の向こう側に落ち、濃紺の夜空が広がっていた。いったいどれほどの間眠っていたのだろう。はっきりと分かるのは、日に日に眠っている時間が長くなっていることだ。
 中庭の木は、黄色い梅のかたちによく似た花をつけている。花弁の質感がまるでロウソクの蝋のようだから蝋梅という名がつけられたと教えてくれたのは誰だっただろうか。いくら考えても思い出すことができなくて、頭を切り替えようと寝床から起き上がった。

(よかった、まだ動く)

 ほっとして、板張りの床に素足をつけた。目を覚ますたびに何かが少しずつ失われている。おそらく歩けなくなる日も遠くないだろう。魂の期限は刻一刻と迫っている。
 重い足を引きずりながら庭へ出る。転ばないよう慎重に歩を進め、庭の中央にある池の前で腰をおろした。夜露にぬれた水仙に目をやりながら、溜息をもらす。景色は冬を模っているが寒さは微塵も感じなかった。この空間は季節関係なく常に一定の気温が保たれている。私が過ごしやすいようにしてくれているのだろうけど、景色とちぐはぐな温度を肌で感じるたびに現実の世界ではないことを思い知らされるようであまり好きではなかった。
 空を仰ぎ見る。瞬く星を眺めながら、心に浮かぶのは髭切のことだった。

『まあ、少しの間だ。よろしく頼むよ』

 ここに連れてこられた日に髭切から言われたことだ。
 最初から分かっていたことだ。髭切が、すべてを知った上で私を神域に連れてきたことは。それなのに私の辛苦に無関心なそぶりを見せられたぐらいで落ち込むなんて今更な話だろう。そもそも悠久の時に身を委ねる彼らに人の観念を押しつけること自体が間違っている。古来より神という存在は身勝手で、人はその絶対的な力に平伏す事しかできないのだから。
 そう頭では分かっていても、どうにもできない悲しみがあった。髭切の温度のない眼差しを思い出すだけで胸がひきつれるように痛む。いつから私はこんな思い上がった人間になってしまったのだろう。本丸にいた頃には知らなかった髭切の本音に触れて、勘違いをしてしまった。髭切から大切にされている、なんて。あまりにも愚かな思い上がりだ。
 あたりは時折風が吹き付ける音が聞こえる程度で、あとはしんと静まり返っていた。とてつもなくひとりぼっちだと思わせた。深い深い井戸の底に、ひとりぼっちで座っているような。
 立てた膝に顔を埋めて、きつく目を閉じる。泣くのはいやだ。泣いたって、何も解決しない。誰も助けてなんてくれない。自分でどうにかするしかないんだ。

(やっぱりこのまま消えるなんて嫌だ)

 髭切が隠そうとしているものを知りたい。知ったところで何も変えられないにしても、何もしないまま消えたくない。
 神と人との間には絶対的な隔たりがある。でもその距離を近づけられるものが私たちの間には存在する。それが言葉だ。言葉がある限り思いを伝えることはできる。彼の思いを知ることも。だから私は諦めたくなかった。
 奥歯をぐっと噛み締めて、顔を上げる。髭切、と頭の中で名を呼べば、遠くから近づいてくる足音が耳に届いた。
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