八、逆鱗を探してはいけない

 刀の前で感情の制御を失ったのは初めてだった。泣き喚き本音をぶつけるなんて審神者だった頃には考えられない無礼な振る舞いだ。自分の感情をコントロールすることは得意だったはずなのに、彼の前だと醜態ばかり晒してしまう。
 だけど髭切はそんな私の暴走をさらりと受け止めて笑った。嬉しくてたまらないと言わんばかりに頬を染めて。かなわない、と思った。いくら魂を差し出したって、この神様には。


「泣かせてしまったねぇ」

 頬に残る涙のあとを見て、髭切が眉を下げる。しかし眼差しには隠しきれない愉悦が滲んでいた。そんな心情を読み取れるくらいにはこの刀の存在が馴染んでしまった。

「……目が笑ってますけど」
「ありゃ?」

 半目でねめつけると、髭切は犬歯を見せて笑った。人の泣き顔を見て喜ぶなんてとんでもないやつだ。そう思うのに、髭切が醸し出す空気の甘さに毒気を抜かれてしまう。
 ふいに髭切の視線がそらされた。その眼差しは目に見えない何かを捉えようとするように虚空をさまよっている。何を見ているのだろうと視線の先を追うが、そこには何もなかった。

「何を見てるの?」
「うん、もう大丈夫かな」
「……何が?」
「うんうん、不安に思うことはないよ」
「いや、だから……」

 まったく話が噛み合っていない。つくづくマイペースな男だと思う。
 髭切がじいっと見つめてくる。琥珀色の瞳が硝子玉みたいに澄んでいて、懲りもせず目を奪われてしまう。そうして気をとられているうちにゆっくりと距離をつめられる。そして、すらりと長い腕を伸ばして、私の身体を攫うように抱きしめた。

「えっ……」

 唐突な髭切の行動に面食らい唖然としていると、さらにぎゅっと抱きすくめられて悲鳴がもれた。

「なっ、なにを」
「じっとして」

 逃れようともがくが、髭切の吐息が耳にかかって一瞬で硬直してしまう。さらに首筋から髪の毛を掌で包まれ、もう片方の手で優しく背中を叩かれてカッと全身に熱がこもった。

「よしよし、いいこ」

 ささやきが鼓膜を震わせる。ゆったりと甘いその声は耳の生毛までもを撫でるようで。どくどくと、早くなった鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。何これ。いったい何が起きているんだ。

「怖くない怖くない」

 どうしようもない羞恥と混乱が湧き上がるが、すべて包み込むように深く腕の中に囲われる。私を襲う不幸から守るかのように深く、強く。ふいに喉の奥がツンとするのを感じた。こんなに安心できる腕の中を私は他に知らない。

(こんなのずるい……)

 求めているものは何ももらえていない。なのに、ふれる温度が私の心を溶かして、抵抗する力を奪ってしまう。抱きしめられたくらいで大人しくなってしまうのが悔しくて、腕の中でくぐもった声を出した。

「これで絆されると思ったら大間違いだからね……」
「ありゃ、絆されてくれないのかい?」
「髭切、私のこと舐めすぎだよ」
「そうかもしれないねぇ」

 からかうような響きを含んだ声にムッとする。腕を突っ張って胸を押しやると、髭切はあっさりと腕の中から解放してくれた。その代わり頭を撫でられる。完全に子供扱いだ。髭切からしたら私なんて子供でしかないんだろうけど、何だか無性に気に食わなかった。

「勝手だよ、髭切は。ここに連れてくる前に私の気持ちを聞いてくれたってよかったじゃない」

 ふてくされた物言いをする自分が嫌になる。こんなの余計に子供扱いされるだけだ。
 髭切は顔を覗き込んで、困ったように微笑んだ。

「聞いたら、君は頷いてくれたかい?」
「たぶん、頷かないけど……」
「それなら、黙って連れてくるしかないよねぇ」

 ははは、と髭切は軽やかな笑い声をあげた。その笑顔に全身の力が抜ける。これ以上の問答は無意味に思えてきて私は口を噤んだ。なんかもう、いいや。何だかやたらと疲れた。今は一刻も早く横になって休みたい。
 脱力して黙りこくる私を見下ろして、髭切が口の端を持ち上げる。その目がいたずらを思いついた子供みたいに輝いていて、嫌な予感がした。

「さあて、今度は僕が質問する番だ」
「私の質問はまともに答えてくれないくせに……」

 こちらの抗議は、優美な笑顔に跳ね除けられる。

「君はどうして此処に連れてこられた理由にこだわるんだい?」
「え、どうしてって……」

 なぜ今さらそんなことを聞かれるのか、思いがけない質問に困惑しながら私は答えを探した。
 ――はじめは違和感だった。髭切という刀が神隠しすることへの強い違和感。神隠しとは神が人間に懸想し、その魂を己の神域に連れ去ることだ。とてもじゃないけどこの刀が私の魂を欲しがっているとは思えなかった。むしろ嫌われているという思っていたくらいだし。だから、何か別の魂胆があるのかと気になったのだ。
 でもそのことをはっきりと口に出すのは憚られて、私は歯切れの悪い返答をした。

「その、髭切がこういうことするの意外だったから特別な理由があるのか気になって……」
「ふぅん?そんなに意外かなぁ」

 髭切はじっとこっちを見てくる。まるで心の奥底まで見透かされているようで落ち着かない。早くこの話題を終わらせようと私は口早に答えた。

「そうだよ。まだ加州とか長谷部なら分からなくもないけど……」

 主に対する執着心が強い刀たちの名を挙げる。ただそういう性質というだけで、私が特別に好かれていたとも思わない。特に深い意味はなかったが、髭切の顔から笑みが消えた。

「それは」

 ざあ、と風が強くなる。木々の枝を震わせながら吹き荒ぶ木枯の音。それは人の呻き声のようでもあったし、怒りの咆哮のようにも聞こえた。

「他の刀なら許していたってことかな?」

 真顔で問われる。整った容貌だけに無表情になるとひどく作り物めいて見えた。
 これまでの気安い雰囲気から一変して緊張感を孕んだ空気に全身が総毛立つ。髭切はただまっすぐ私を見ていた。その目つきが妙にすわっていて、ひどくおっかない。まるで鎖のついていない猛獣の檻に放り込まれたような気分だった。
 微動だにできない時間が流れる。髭切の問いかけに答えなければ。でも、これ以上下手なことを口走ったらひどくまずいことになる気がして、なかなか口をひらけなかった。
 幾らかの沈黙の後に、なけなしの勇気を奮い立たせて声を絞り出した。

「誰であっても許さないよ。私の魂は、私だけの物だ」

 それは心のままの答えだった。
 固唾を飲んで沙汰を待っていると、不意に張りつめていた空気が緩んだ。髭切が口角を持ち上げたのだ。

「君らしいね」

 そよ風が髭切のつぶやきを攫うようにしてすっと吹き込んで、そして消えた。どうやら危機は回避できたらしい。そこでようやく私は息を吸い込むことできた。
 
『他人に嫉妬とかよくないよ。鬼になっちゃうからね』

 かつて髭切が言っていた言葉を思い出す。もしかしたら、私が知りたがっている答えはもっと単純なものかもしれない。そう思うと胸が高鳴ると同時に物悲しさも覚えた。もうすぐ消えてしまうのに、恋心なんて未練にしかならないのだから。
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