三、道理を説いてはいけない

※刀剣破壊描写有り


 思い起こせば、髭切との関わりの中でたったひとつだけ印象に残る出来事があった。それは、金色の満月が見下ろす夜のこと。歳月を経ても尚、あの日の記憶が鮮明に思い出せるのは、審神者になって初めて大切なものを失った日だからだろう。



 その日、出陣した一振りが折れた。

 進軍の最中だった。隊のしんがりを務めていた彼は、敵からの不意打ちの突きで重傷を負った。一瞬の出来事だった。その一部始終を本丸から遠視していた私は、ただちに撤退を命じた。
 心臓が嫌な音を立てる。他の刀に支えられた彼の体から夥しい血が流れ落ち、足元に赤い水溜りを作っている。だらりと垂れ下がった腕の先から墨が滲むように黒ずんでいくのが見えて、ぞっと身を竦ませた。たまらなく嫌な予感がする。

 ――予感は的中した。本丸に帰ってきたのは、かつて彼であったものだった。手入れを施す間も無く、彼は折れたのだ。
 帰還した彼らのもとへ駆け寄ると、隊長の山姥切国広が一歩前に出た。折れた刀身を差し出し、たった一言こう言った。

「すまない」

 悲傷に満ちた声だった。とっさに目の前の肩を掴んだ。

「あなたのせいじゃない」

 強い語調で告げるが、山姥切は力なく項垂れるだけだった。己が率いる戦場で仲間を失ったばかりの彼に、それ以上かける言葉は見つからなかった。
 山姥切の手から刀身を受け取る。手の内にあるものを見下ろして、グッと歯を食い縛った。そうしていないと、必死に抑え込んでいるものが溢れてきてしまいそうだった。

「供養します」

 声が震えるのを懸命に抑え、彼らに向けて宣言した。
 折れた刀はお焚き上げをしなければならない。物として残しておくと悪霊が依り憑き、禍をもたらしかねないからだ。本体を細長い桐箱の中に収め、箱の外側を白布に包む。その包みを両手で抱え、轟々と燃え上がる炎の前に立った。石切丸と数珠丸の読経に混じって短刀たちがすすり泣く声が聞こえてくる。声に出さずとも、彼らの悲しみはひしひしと伝わってきた。
 桐箱を掲げ、馴染みの呼び名で呼びかける。そして感謝と別れの言葉で締め括り、火の中へと投じた。
 立ち昇る黒煙を見上げる。奥歯を食いしばり、涙を圧し殺しながら、この光景を決して忘れまいと目に焼き付けた。


 弔いを終え、向かった先は本丸の裏庭にある蔵だった。蔵の中はわずかに黴臭いような淀んだ空気に満ちていた。埃っぽい木板の床に頽れ、顔を覆う。一人になった途端、せきが切れたように涙が溢れた。

「っ、ぅ……」

 掌に残る刀身の感触に、悲しく遣る瀬ない思いがこみ上げる。ぼとぼと涙を滴らせ、声を殺して泣き続けた。

 ――どれくらいそうしていただろうか。ふいに、入り口の扉がきしんだ音を立てた。無意識に呼吸を止め、鈍い音を立てて開かれる扉を見つめる。

「おや。こんなところで一人でいるのかい?」

 月明かりを背に、やってきたのは髭切だった。とっさに顔を伏せるが、泣き顔はしっかり見られてしまっただろう。ゆっくりと近づいてくる気配を感じて体が強張る。

「風邪を引いてしまうよ?」

 いくらか呑気な言い方だったが声に張りがない。おそるおそる顔を上げれば、こちらを見下ろす気遣わしげな瞳とぶつかった。

「……ずっと堪えていると思ってたけど、こんなところで泣いてるなんてね」

 その言葉に、私は些か狼狽えた。まさか髭切に気付かれていたなんて。
 髭切が手を伸ばし、濡れた頬をやさしく拭う。そして、すっと手を差し出した。

「さあ、戻ろう」

 無言で微かに首を振る。こんな子供みたいに泣きじゃくる姿をみんなに見せるわけにはいかない。くぐもった声でそのことを伝えれば、髭切はこてんと首をかしげた。

「どうして?気丈に振る舞う必要はないよ」
「……」

 涙ぐみながら、今度は強く首を振った。
 悲しみを分かち合うのは、同じ命運を背負う者同士であるべきだ。安全な場所から戦う姿を眺めているだけの人間が、彼らと肩を並べていいはずがない。私が出陣するように命じた戦場で、彼は折れたのだから。
 深い自責の念と後悔が腹の底から一気に込み上げ、口を衝いて出た。

「私が、死なせてしまった……」

 髭切が痛ましげに眉を寄せ、傍らにしゃがみ込んだ。

「それは違うよ。君のせいじゃない」
「でも、」

 続く否定の言葉は、唇を噛んで呑み込んだ。こんなこと言うべきじゃなかったのに。未熟な自分が嫌になる。自然と俯いてしまう私の顔を、髭切の手がすくいあげた。

「僕たちは刀だ。戦で死ぬことができたなら刀としては本望だよ」

 ゆっくりと諭すように告げられた言葉は、これまで幾度となく思い知らされたことだった。
 人にとって死とは、すべてのものの終わりを意味する終末に他ならない。だからこそ人は死を恐れ、生をあがき続ける。しかし彼らにとってはそうではない。与えられた命運をこなし、自らの存在を疑うことなく戦場で生を激しく燃焼させる。彼らにとって死とは、燃焼の果ての結果に過ぎないのだ。

「僕たちは人の形をしているけど、所詮は物でしかない。いちいち心を砕いていたら身が持たないんじゃないかなぁ」

 髭切の声はどこまでも優しい。あたかも手を差し伸べようとするかのように。しかしその言葉は、今の私にとって鋭利な刃と同じだった。切りつけられた心が悲鳴をあげて、ふたたび涙がこみあげる。

「それでも、私に、とっては……かけがえのない仲間、だった」

 しゃくりあげながら切れ切れに言葉をつなげる。
 目を瞑れば、彼の姿がはっきりと浮かぶ。何気ない仕草までもが私の中で生きている。でも、もう二度とこの目に映すことはできない。そのことが、ただただ悲しかった。

「ただの物だなんて、割り切れるわけがない」

 それは私の心に降り積もった思いの燃焼であった。
 虚を衝かれたように一瞬、髭切は瞬いたけれど、やがて黄金色の目を細めた。憐れむような、慈しむような眼差しは月明かりに似ていた。決して手の届かない透き通った優しい光。

「……そうか。それが人というものなんだねぇ」

 しみじみとそう言われて、少しだけ腹立たしくなった。彼らとはどうしても分かり合えない部分があることは分かっていた。だから、せめて今日ぐらいは一人で彼の死を悼みたかったのに……。私の内心のぼやきを知ってか知らずか、髭切がめずらしく罰が悪そうに目を伏せた。

「いま君のそばにいる刀としては、僕はふさわしくなかったみたいだね」

 途方に暮れたようなつぶやきに目を瞠った。いつもは華やかな印象を与える彼の微笑みが、今はしおれた花みたいに寂しそうに映る。

(そっか……私を慰めようとしてくれてたんだ……)

 髭切は、人である孤独に寄り添おうとしてくれている。その優しさが、心に巣食う闇に一筋の光をもたらしたような気がした。
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