四、恐れを忘れてはいけない

「はぁ」

 無意識にこぼれた溜息は幾度目になるだろうか。神隠しをされてから早三日。この三日間、現世と常世のあわいから抜け出そうとあらゆる手を試みたが、すべて徒労に終わっていた。

(やっぱり無理なのか……)

 はじめから分かっていた。私の力でどうにかできる問題じゃないってことくらい。それでも無駄な足掻きを続けた理由は、じわじわと魂を蝕まれる感覚に苛まれ、居ても立っても居られなかったからだ。

「はぁー……」

 どうにもできないもどかしさと無力感が深いため息に変わる。
 正直、もうほとんど諦めてしまっている。こうなってしまったら仕方がない。地獄に送られるよりはよっぽどマシだろうと、そんな風に考え始めていた。負の感情を持続させるには、この空間はあまりにも居心地が良すぎるのだ。ひだまりの中にいるような穏やかな暖かさは、髭切の持つ雰囲気とよく似ていた。
 しかし、諦めきれないこともある。私は知りたかった。此処に連れてこられた本当の理由を。満月の夜、人の孤独に寄り添おうとしてくれた優しい神さまの本心を。それだけは、どうしても諦められなかった。



「お月見をしよう」

 縁側に足を下ろし、夜空に煌々と浮かぶ満月を見上げていた時だった。声がした方を振り仰げば、微笑を湛えた髭切が立っていた。その手に持たれた盤の上には、団子が山型に積まれている。
 返事をする間も無く髭切が隣に腰をおろす。人ひとり分もないほどの近さだったが、私はもう怯まなかった。
 一緒に過ごしているうちに、初日に感じていた恐怖心は薄れていた。髭切からまったく敵意を感じないからだろう。それどころか髭切はずっと上機嫌だった。本丸にいた頃から穏やかではあったけど、ここにきてからはそれがより顕著な気がする。その気安い態度が、私の警戒心を解く要因だった。

「いい月だねぇ」

 夜風が吹き込み、髭切の淡い色合いの髪を優しく撫でていく。月を見上げる横顔の美しさに、感嘆の息を漏らしそうになった。本丸にいた頃は四六時中美形に囲まれていたから感覚が麻痺していたけど、こうして近くで見ると鳥肌が立つほど美しい顔だった。
 思わずまじまじと観察していると、澄んだ黄金色の瞳とぶつかった。そのまま柔らかく微笑まれ、ふと、胸の内に疑問が湧き立った。

(あれ。髭切って、こんな感じだったっけ……?)

 目の前の髭切と、記憶の中の髭切の姿を照らし合わせる。そして、首を傾げた。

 ――本丸にいた頃、ふとした折に髭切から鋭い目線を送られることがあった。それは、注意していなければ気づかないほど些細なものだった。私がその目線に気づいたのは、あの満月の日から髭切のことをこっそり観察するようになっていたからだ。
 視線の理由はなんとなく分かっていた。おそらく蔵での出来事が原因だろう。髭切だって、自分の主のあんな情けない姿を見たくなかったはずだ。幻滅されても仕方がない。そう思うようにはしていたけど、やっぱり悲しかった。髭切の視線は、棘のように私の心に突き刺さったままだった。
 でも、今はその険しさが微塵も感じられない。どれだけ注意深く観察しても、まったく。
 一体どちらの顔が、本当の髭切なのだろう。

(そもそもここにいる髭切が別物とか……?)

 ふとわいた疑問だった。本気で疑ったわけじゃない。でも、気づいたら口から滑り落ちていた。

「あなた、本当に私の本丸にいた髭切?」

 瞬時に馬鹿なことを言ってしまったと後悔したがもう遅い。髭切は金色の目をぱちぱち瞬いて、こちらを見ていた。

「どうしてそう思うのかな?」

 いたずらっぽく瞳をくるりとさせ、髭切が身を乗り出す。どうやら興味を持たれてしまったらしい。

「……ごめん、何でもない。今の忘れて」
「うんうん、それで?」
「いや、だから……」

 髭切がにこにこと笑っている。その笑顔に気圧され、ついつい言葉を続けてしまう。

「なんだか本丸にいた時とは、髭切の雰囲気が少し違う気がして……」
「へえ、いったいどう違うんだい?」

 期待に目を輝かせる髭切をみて、私はいささか呆気にとられた。本物か疑われたというのに何故そんなにも嬉しそうなんだ。

「君に僕がどう見えてたか、教えて欲しいなぁ」

 嬉々として畳み掛けられる。おまけに顔まで近づけてきた。その意外なまでのしつこさに、私はようやく焦り始めていた。いつもは何も気にしないくせに、こんな時ばかり容赦がない。
 本丸ならば適当な用事をでっちあげて逃げることができただろうが、ここは彼の神域だ。逃げ場などない。誤魔化そうにもうまい言葉が見つからず、観念した私は、心の奥底にしまいこんでいた本心を突きつけた。

「本丸にいたときは、私のこと見定めてたでしょう。主としてふさわしいかどうか」

 虚を衝かれたように髭切が目を丸くさせる。私にはそれが図星をつかれたように見えて、慌てて言い添えた。

「別に責めてるわけじゃないよ。自分の命をあずける主の力量ぐらい、はかりたくなって当然だと思うし……」

 髭切には情けないところ見られてるしね。続く言葉はぐっと呑み込んだ。彼の前だと、つい余計なことまで喋ってしまう。
 やがて硬直から解けた髭切は、こてん、と首を傾けた。

「んん〜? 君が主としてふさわしいかどうかなんて、気にしたことないよ?」

 その言葉にむっとする。とぼけるつもりだろうか。こっちは正直に打ち明けたのに……。思わずジロリと髭切を睨んでいた。

「たまに怖い顔でこっちを見てたこと、気づいてたんだからね」
「……へえ」

 今はじめて気づきましたとばかりに髭切がきょとんとまばたいた。
 もしかして、髭切は自覚していなかったのだろうか。うわ、だったら言うんじゃなかった!思わず頭を抱えたくなるが、なけなしの矜持を振り絞って平然を装った。これ以上情けない姿は見せられない。
 私の顔をまじまじと見ていた髭切は、頷くように軽く目を瞑ると、ふっと表情をやわらげた。

「そっかそっか。君はそんな風に思ってたんだね。いやぁ、悪いことをしてしまったなぁ」

 ちっとも悪いなんて思ってない口調で髭切は言った。まるで違うとでも言いたげじゃないか。真意を測りかねて、視線で先を促した。

「見極めようなんて気持ちはないよ。持ち主の力量なんて僕には大した問題じゃないからね。ただ……」

 髭切は意味ありげにくちびるをつりあげた。

「君があまりにも僕に興味がないものだから、拗ねてしまったのかもしれないねぇ」
「………へ?」

 すべての感情を置き去りにして、驚きがいちばんはじめにやってきた。半開きの口のまま髭切をポカンと見上げる。予想外の切り返しに絶句する私をよそに、髭切は犬歯を見せて笑った。

「でも、君はちゃんと僕のことを見てたんだねぇ。これは嬉しいなぁ」

 あまりにも嬉しそうに言うものだから、もう信じるしかなかった。
 まさか、あの険しい目線にそんな意味があったなんて。……髭切が、そんな思いを抱いていたなんて。そう思うと、わけがわからず込み上げてくるものがあった。このままでは表情筋がゆるゆるに溶けてしまいそうで、必死に顔に力を込めて髭切に向き直った。

「……自分の刀のことだもの。ちゃんと見てるよ」
「ふふ、僕たち両思いだったんだねぇ」
「りょっ……!?」

 感電したように立ち上がる私を、髭切の視線が追いかける。う、と言葉に詰まった。まるで蜂蜜を垂らしたような甘い眼差しが、私から言葉を奪ってしまう。どくどくと、早くなった鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。

 ふりそそぐ月明かりが、私たちの間にある暗がりをやさしく照らしていた。
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