「さあ、庭を見にいこう」
すっかり萎縮してしまった私に、髭切は場違いなほど明るい声でそう言った。そんな気分じゃないと突っぱねる気力も残っておらず、手を引かれるまま縁側に出た。
あたたかな日の光が差し込む縁側からは、屋敷の庭が一望できた。手前には御影石が敷き詰められ、奥にいくにつれて青々とした芝生が潤みを帯びて広がっている。庭の中央にある池を埋めつくすようにして、緋色のつつじが今が盛りと咲き誇っていた。本丸よりはこじんまりとしていたが、手入れの行き届いた美しい庭だった。
「おお、風が気持ちいいねぇ」
そよ風に吹かれ、髭切が目を細める。さっきは酷薄に映った微笑みが、今は優しく見えるのだから不思議だった。
「ありゃ、気に入らないかい?」
こちらを見た髭切は一瞬だけ逡巡する様子を見せると、ふたたび庭を見遣った。すると、目の前の景色がまるで魔法にかけられたかのように変化していった。燃え立つような色味のつつじは消え、代わりに見事な紫陽花が咲いている。春を思わせる穏やかな陽気も、初夏の燦々とした日差しに変わっていた。
「これはどうかな」
本丸でも景趣を変えることはできた。だけど、こうして目の前で変化を目の当たりにしてしまうと、ここが現実の空間ではないと改めて突きつけられているようで余計に困惑が強まった。
「今は、そんな気分じゃないよ……」
正直な気持ちを吐露する。不興を買うだろうかと思ったけど、髭切は穏やかな笑みを崩さなかった。
「うーん、君に楽しんでほしいんだけどなぁ」
無理だ。楽しめるわけがない。知らぬ間に命を落とし、これから魂さえも消え失せてしまうかもしれないというのに。そんな状態で庭の景色を楽しめる人間がどこにいるっていうんだ。
だけど、きっと彼なりに私の気持ちを和ませようとしてくれているのだろう。よく分からないところはあるが、基本的には優しくておおらかな刀なのだ。でも今はその思い遣りに応えられる余裕はなかった。どうしても、胸の内に燻る違和感を拭うことができない。
胸に薄く息を吸い込んで、先ほどと同じ質問を繰り返した。
「私をここに連れてきた理由を教えて欲しい」
髭切の目が遠くを見るように細く歪む。そして、形の良い唇が開かれた。
「君はもう連れてこられちゃったんだ。知ったところで、どうすることもできないよ?」
柔らかい物言いではあるが、それは突き放す言葉だった。知ってどうする、お前に出来ることなど何もない、と。
(そんなことはわかってる。けど……)
このまま何も知らずに魂が消滅するのを待つなんて、ぜったいに嫌だ。
「それでも知りたい」
髭切はやれやれと肩を竦めた。そして「そうだなぁ」と前置きしてから、じらすようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「君は、どうして毎日ご飯を食べるんだい?」
「……へっ?」
思いも寄らない問いに思わず間の抜けた声をあげてしまう。なんだそれは。真意を測りかねて目を合わせたまま首をかしげるが、邪気のない笑顔を向けられるだけだった。
「それは……お腹が空くから……?」
戸惑いつつ答えると、髭切は満足そうに「うんうん」と頷いた。こんな捻りのない回答でよかったのだろうか。
「そうだね。僕が君を連れてきた理由も、同じようなものだよ」
私はますます混乱した。全くもって意味がわからない。思考が停頓し、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「髭切は、私を食べたいの?」
言ったあと、すぐに後悔した。なんて馬鹿なことを聞いてしまったのだろう。
目の前の瞳が虚を衝かれたように丸くなる。沈黙が数秒。やがて、髭切は弾かれたように笑い出した。
「あっはっは!」
目の前で腹を抱えている相手を睨みつける。私の顔は茹で蛸みたいに真っ赤になっていることだろう。ひとしきり笑ってみせたあと、髭切は満足気に息を吐き出した。
「はー……君は面白いねぇ」
顔を近づけてくる髭切の瞳が弓なりに細くなる。ふいに、既視感を覚えた。愚かで可愛い人間を慈しむような透徹とした眼差し。あれはたしか、満月の夜の――。
「本当に食べる気なら、とっくに食べちゃってるよ。ペロリとね」
その言葉に思考が遮られる。髭切の声色が、なんだか不穏な気配を孕んでいる気がして、私はそれ以上聞くのをやめた。
結局のところ、髭切の目的はよく分からないまま。煙に巻かれてしまった。
(こんなにも分かり合えないものなのか……)
人間と付喪神。真に分かり合うことは難しくても、共に戦ってきた彼らとは少なからず心を通わせていると思っていた。絆と呼べるものが存在していると。だけど、今はこんなにも遠い。それがなんだか無性に悲しかった。