一、菊花を贈ってはいけない

 目を覚ました瞬間、悟った。自分がただならぬ場所にいることを。

「ここ、どこ……」

 寝床から起き上がり、あたりを見回す。六畳ほどの和室は奇妙な緊張感に満ちていた。誰もいないはずなのにじっと見られているような気がして、ゴクリと唾を飲み込む。おそらく、ここは人の領域ではない。それは霊力を持つ者の直感だった。

(神隠し――)

 脳裏に不吉な三文字が浮かぶ。そんなもの都市伝説だと思っていたのに、まさか自分の身に起きるなんて。刀剣たちに真名を伝えた覚えはない。つまりなんらかの方法で私の真名を知り、強制的に神域に連れてきたということだろう。

(一体、誰がこんなことを……)

 我が本丸の刀剣たちを順番に思い浮かべる。そして、首をかしげた。そんな強引な手段を用いてまで私の魂を欲するような奇特な刀がいただろうか。しばし思案に耽り、いない、という結論に至った。他者からの感情には敏感な方だ。度を超えた執着を向けられていたならばすぐに気が付いていただろう。もしかして、付喪神たちとは別の存在の仕業だろうか……。
 そこまで考えが及んだところで、ギシ、と床が軋む音を拾った。はっとして、唯一の出入り口を見る。障子越しに浮かぶ人影が目に入って、心臓が跳ね上がった。

(あなたは誰なの?)

 ゆっくりと障子戸が横に滑るのを固唾を呑んで見守る。縁側からの日差しを背に立っていたのは、髭切だった。

「え……」

 思いがけない人物の登場に唖然とする。じゃあ、ここは髭切の神域?……うっそだあ。

「やあ、起きたみたいだね」

 髭切は柔和な笑みを浮かべていた。信じられない思いでその顔を凝視する。他の刀剣ならば意外だと思うくらいだったかもしれない。ただ、この刀に関しては意外を超えてもはや不可解だった。何か決定的な出来事があったかと記憶を遡ってみるが、特別なことは何もなかったはず。うん、やっぱりおかしい。
 髭切という刀は、掴み所のない男だった。無闇に踏み込まず、踏み込ませず、どことなく一線を引かれていたように思う。一応私のことを主と呼んでくれてはいたけど、おそらくそれは形式的なもので本心で仕えているという感覚はなかったはずだ。力を貸している、という感じだろうか。琥珀の瞳の奥には常に厳かな光があった。それは、人の子に向けられる泰然とした眼差しだった。
 この神様然とした刀が、人間ごときに執着するはずがない。それが私の見解だった。

「そんな怖い顔をしてどうしたんだい?」

 髭切が顔を覗き込んでくる。いつもと変わらない微笑みが、今はやけにおそろしく映った。

「ここは髭切の神域?」
「おお、よくわかったね。感心感心〜」

 悪びれもせずにこにこ笑う髭切に、一瞬だけ肩の力が抜ける。いや、気を抜いてる場合じゃない。一番聞きたいことが聞けていない。ぎゅっと拳を握り、気力を振り絞って聞いた。

「私は、死んだの」

 髭切の瞳はほんの一瞬ざわめいた。しかし凪ぐのも早かった。

「おや、どうしてそう思うんだい?」
「神域に連れてくるということは、そういうことでしょう」

 私の言葉に、髭切は鷹揚に微笑むだけだった。それ以上答える気は無いのだろう。食い下がりたかったが、まだ聞きたいことが山ほどあったのでやめておいた。しつこく聞いてこの気まぐれな神の機嫌を損ねるのは得策じゃない。ここは彼の領域だ。本丸でかろうじて存在していた仮初の主従関係は通用しない。慎重にいかなくては。
 それに、きっと彼の笑顔は肯定の意だろう。

「どうして私を連れてきたの」
「どうしてだろうねぇ」

 これも答える気は無い、と……なんだか腹が立ってきた。人の魂を強奪しておいて理由も説明しないなんて、身勝手にもほどがある。

「ここから出して」

 そう訴えると、髭切はこてん、と首を傾げた。

「ここが気に入らないかい?確かにこの部屋はちょっと狭かったかもしれないね。それなら屋敷の中を見て回ろう。きっと君も気に入るよ」
「そういう問題じゃない。ここは、人が居ていい場所じゃない」

 声がうわずるのを必死に抑えて言った。さっきからずっと、得体の知れない不吉な塊が私の心をおさえつけている。おそらくこの場にとどまる限り、いずれ私の魂は消滅するだろう。そうなればもう二度と現世に生まれ変わることはできない。死んだ後のことなどどうでもいいと思っていたが、それは嫌だった。

「ここから出して、魂を解放して」
「それは聞けない頼みだ」

 穏やかだがはっきりとした口調で言い切られ、言葉を失う。全身の血液がすぅと足元に落ちていくような気がした。青ざめる私を見て、琥珀の瞳に哀れむような色が浮かんだ気がした。

「まあ、少しの間さ。よろしく頼むよ」

 少しの間とは、私の魂が消滅するまでの間のことだろうか。いつもと変わらない微笑みが、今はひどく酷薄に映った。
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