幼馴染 02

2話
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「おばさん、こっち」
「えー、猫触りたい」
「だめ」
 好奇心旺盛で、元気がいっぱい。じっとなんて、していられない。幼稚園に通っていた頃の彼女は、子どもを体現する言葉を総嘗めする、それはもう“子ども“らしい子どもだった。
 少しでも目を離せば、繋いでいる手を緩めれば、次の瞬間にはいない。佐久早は、そんな彼女に大層手を焼いたと記憶している。勝手に行って、勝手に戻ってくるならいい。しかし、彼女は行ったままで、戻ってこない。
 佐久早が探しに行けば、大抵ロクなことがなかった。自分で登ったくせに、木から降りれなくなっていたり。小型犬と睨み合って、動けなくなっていたり。彼女が窮地に陥るたびに、佐久早は彼女の腕を引っ張って、母親のところへ連れて行ってやった。
 特に一番酷かったのは、彼女が溝にハマったときだった。
 ◇
 佐久早は彼女と、彼女宅の庭で遊んでいた。彼女は泥団子作りに励み、佐久早はチューリップのスケッチをしていた。先日、父と出かけた展示会で見た写真のような絵が忘れられなくて、最近の佐久早は模写がブームだった。
「……いない」
 ふと佐久早が顔を上げて振り返ると、そこにはポツン、と立派な泥団子が鎮座していた。小石を取り除き、味がでたバケツ(使い古した表面がガサガサのバケツ)で砂ふるいにかけ、柔らかく細やかな白い砂を作り、その砂で丁寧に表面をコーディングすると、綺麗な泥団子の出来上がりだ。泥団子製作に使用されたスコップや、バケツは散らかったまま。
「はぁ」
 ため息をひとつ。佐久早は膝に抱えていたスケッチブックを脇に抱えて、ピンクのクレパスをケースにしまい、一旦彼女の家の中へ戻る。一応、彼女がいなくなったことは彼女の母親に報告しなければならない。佐久早がいつものように捜索に行こうとすると、彼女の母から慌ててキッズケータイを首にかけられる。
「何かあったら、すぐに連絡してね」
「はい」
 彼女の家から出て、佐久早は住宅街をきょろきょろと見渡す。少し首を捻って、右へ曲がる道へいくことにした。根拠も当ても無い。ただの直感だ。でも、その佐久早の直感は当たる。だから、佐久早は自分の直感を信じて、彼女を探しにいく。
 その直感は、今日も当たっていたらしい。
「ーんえーん……」
 公園へ行く途中にある、住宅街を外れた道。その先から、啜り泣く声が聞こえてきた。佐久早が角を曲がると、座り込んでいる彼女の背中を見つけて、ギョッとする。
「おっぽ!どうし……」
「きよおみくん足いたい」
「……」
 どうやら彼女は道の端にある溝に、片足を落としてしまったらしい。しかも、泥にハマっているらしく、抜けないと彼女はさらに泣く。佐久早はこれ以上ないほど、顔を顰めた。彼女の救出、彼女を泣き止ます、彼女のケガの確認……彼女をおばさんの元へ連れて行くまでにやることが多い。多すぎる。そんな憂鬱さが小さな身体から、深いため息として吐き出される。
 彼女と一緒に自分も泣きたいと思うが、一緒に泣いても解決しない。佐久早は胸元のキッズケータイの存在をすっかり忘れて、溝の中に手を突っ込んだ。
◇     
「おっぽ、下すぞ」
「ん」
「ゆっくり」
「足ついた……」
 佐久早は彼女が背中から離れたことを確認すると、少しフラつきながら膝を伸ばした。右足を浮かせて、不恰好に立つ彼女に、「ここに足出して」と蛇口に目を向ける。
「ズボン濡れないように、持ってて」
「ん、こう?」
「そう」
 彼女がズボンを捲り上げたことを確認して、佐久早はゆっくりと蛇口を捻った。泥だらけの足に、ちょろちょろと水がかかる。佐久早は彼女が痛がる様子がないので、蛇口を右に回した。水の勢いが少し増して、やっと彼女の肌が顔を見せた。
 赤い擦り傷と、青く変化した肌を見つけて、佐久早は眉を寄せる。
「泥おちた」
「うん、今拭くから」
 佐久早はポケットから、ハンドタオルを取り出して、濡れた彼女の足を拭いてやる。ふくらはぎは擦り傷だらけ、足首辺りは青く打撲のような跡。佐久早はいつも持ち歩いている絆創膏では、太刀打ちできないなとムッとした。今度から消毒液と、ガーゼと、湿布、他にも……と佐久早が考え込んでいると、唐突に大きな音が鳴り響く。
「……もしもし?」
「聖臣くん?結構時間経ったけど、大丈夫?おばさん迎えに行っても良い?」
「……いつもの公園」
「わかった!すぐ行くね!」
 佐久早はキッズケータイを切ると、彼女の腕を引っ張った。彼女は自分に引っ付いてくる幼馴染に目を白黒とさせて、痛い痛いと泣いていた涙も引っ込んでしまった。鼻を啜る音が聞こえて、彼女は我に帰る。この幼馴染は他の友達よりも、喜怒哀楽が少ない。いや、喜哀楽が極端に少なく、怒がやけに目立つ。ゆえに、忘れがちになってしまうが、決して「何も感じない」訳ではない。
 彼女は自分のために頑張ってくれた幼馴染を労わるように、ふわふわの癖っ毛を撫でた。
「聖臣くんごめんね……」
「あんまり勝手にどっか行くなよ」
「うん」

 佐久早とって、彼女と同い年という感覚はなかった。彼女は、従兄弟の妹とそっくりだったのだ。目に写ったものに興味をもち、手で何でも触れ、そのまま口に含んでしまう。何が危険か分からずに、何でも試そうとする。自ら、命を捨てにいく。そんな危うさが、赤ん坊と全く同じだった。
 佐久早が彼女を心配する様子を、放って置けないのねかわいいと見守る声もあった。「俺がいないと、コイツはだめだ」なんて甘い感情は、ない。母親が赤ん坊を心配する気持ちと全く一緒だ。最初は彼女の母親への恩返しだった。次第に、佐久早はこの危なっかしい生き物の尾を握り、危険から遠ざけれなければ、と思うようになった。そして、今まで通り、無事親元に届けることも任務内容だ。
 佐久早は彼女にどうやって、この世界を危険を伝えようか。そもそも、あんな無鉄砲に突っ込んでいく癖に、すぐ痛い痛いと泣いたり、怖がったりする生き物が生きていけるのだろうか。佐久早がそんなことを考えていると、いつもと違った格好をさせられた。
「結婚式に行くからね」
 佐久早は父親に結ばれているネクタイを見下ろしながら、頷いた。いつもより、窮屈な首元に顔を顰めてしまう。そんな佐久早に、父親は眉を下げる。佐久早は七五三の撮影のときも、同じような顔をしていたのだ。
「結婚式、長い?」
 この質問は、「長時間じっとしなければ、いけない?」という意味である。
「そうだね。長い間座ってるかなぁ」
「……」
 佐久早は顰めた顔のまま、ネクタイを指先で触れる。父親は佐久早の頭を撫でると、目尻を下げた。
「行ってみたら、楽しいかも」
「かも、でしょ」
「うーん。将来の参考になるかも?」
「さんこう?」
「もし将来、聖臣が結婚式を挙げるんだったら、きっと参考になるよ」
「……」
「うわ、どうしたの」
 父親は顔をグシャリ、と歪めて、自分に抱きついて来る佐久早に首を捻る。この小さな息子で、子どもは三人目だが、我が子といっても、やはり別の人間だ。父親はどうして泣きそうになっているか分からず、とりあえず息子を抱きしめることしかできなかった。ボソリ、と高く可愛いらしい声が耳元でくすぐったい。
「結婚やだ。父さんたち、ずっと一緒がいい」
 まさかの言葉に、父親は目を丸くする。表情が豊かとは言わない息子が、まさかこんなこと言うとは。父親はまた佐久早の頭を撫でて、穏やかに甘やす。
「そっかぁ。じゃあ、家に居ればいいよ」
「ずっと居ていい?」
「もちろん」
 父親が頷けば、佐久早はゆっくりと顔を上げる。ホッとしたように、表情を柔らかくする佐久早に、父親は後で母さんに教えてやろうとニマニマと頬を緩めた。
 ◇
 父親の言う通り、結婚式はちょっと楽しかった。初めて食べる料理も、美味しかった。ナイフとフォークを使うのは難しかったけれど。色んな発見と、体験をした。それでも、佐久早の中で一番印象に残っていたことがあった。
 佐久早は新郎の背中を見ながら、父親の袖を引っ張る。
「お祈りする?」
「今日はお祈りじゃなくて、新郎と新婦の誓いを見守るんだよ」
「誓い……」
「そう、誓い」
 チャペルの高い天井を見上げて、ちょこんと座って、佐久早はキョロキョロと辺りを見渡した。知らない大人たちがたくさん居て、少し居心地が悪かった。佐久早は父親の腕を掴んで、またコッソリと辺りを伺う。年に二回ほど、顔を合わせるイトコたちも普段と違う格好でなんだか見慣れない。
「聖臣、お姉さん来るよ」
 きょろきょろしている佐久早の背中を撫でて、父親がそっと囁く。佐久早は動きを止めて、静かになる周りに合わせるように息を潜めた。あ、みんな扉の方見てる。大きな扉。自分が入ってきたときは、開いていたのに。今は閉じている。身を乗り出そうとすると、父親は佐久早を膝に抱き上げる。
「やっ」
 恥ずかしいから、いいと反抗しようとした。そのとき、扉が開いた。
真っ白なウェンディングドレスに身を包んだ、イトコのお姉さんが少し恥ずかしそうに、はにかんでいた。自分の父親と腕を組みながら、綺麗な絨毯の上を歩いていく。そして、周りの親族や友人たちはおめでとうおめでとう、と声をかけていた。嬉しそうな声と、笑顔が溢れる空間で、佐久早はひたすらお姉さんの姿を目で追っていた。お姉さんは新郎のもとへ行くと、今度は新郎の腕に手を添える。父親から新郎へ。その姿がやけに印象的だった。
 結婚式の帰り道、佐久早は姉と兄に挟まれて先を歩く母を見ながら、父親を見上げる。
「ん?どうした、聖臣」
「どうしてー」
 佐久早はずっと不思議に思っていたことを父親に尋ねる。
「ああ、バージンロードの事かぁ」
「なにそれ」
「バージンロードは花嫁の人生を表してるんだって」
「人生?」
「お姉さんが今まで過ごしてきた時間、今の時間、これから過ごす時間のことだよ」
「……うん」
「新郎さんまでの道のりは、生まれてから今までの人生で、父親から新郎へバトンタッチするんだよ。新郎は、お姉さんがこれから人生を歩くことを決めた相手だから」
「お母さんじゃ、ダメなの」
「あー……どうだろう。父親が一般的な気がするけど、家帰ったら調べてみようか」
「うん」
 佐久早はどんな些細な疑問も、気にかける父親が好きだった。
 ◇
 調べた結果、佐久早はなるほどと納得した。ただやっぱり、自分の中の不快感にも似た不満が拭えなかった。佐久早の目には、父親から新郎へバトンタッチしてるようにしか見えなかった。何をバトンタッチしているのだ、と尋ねられたら、困るけれども。でも、何方かと言えば、佐久早は彼女がひとりで、あの絨毯を歩く姿が見たいと思った。
 一人でどっかに行っては、一人で泣いている。弱く無知な生き物。それが、佐久早にとっての幼馴染だった。佐久早の小さな胸に、さらなる炎が燃え上がる。
 俺が、おっぽが一人でも、ちゃんと歩いていけるようにしてやらないといけない。

「……」
 佐久早は見慣れた天井を見上げて、ああ、夢だったのかと身体を起こす。いつもより、頭がぼんやりする。意識が過去の自分に引っ張られている所為だろうか。昔の俺は、どうしてあんなにおっぽのこと気にかけていたのか。あんなに燃えていた使命感も自然とどこかへ行ってしまっていた。
 佐久早は寝癖を撫でつけながら、自室を後にする。今から顔を洗って、歯を磨かないといけない。おっぽが結婚……?時代の流れで、結婚するしないが自由になっていく雰囲気がある。あの幼馴染もひとりで生きていくことを選ぶかもしれない。
「……おっぽ一人でも生きてるしな」
 確かに、彼女とは今でも細々と交流がある。彼女は佐久早に頼らなくても、夏休みの宿題は終わらすし、夏休み前の最後の登校日でも、従兄弟のようにアサガオや道具箱を抱えて大変なことにはなっていなかった。中学でも、普通だったし。ああ、でも一度、鍵を忘れて家の前に座り込んでいたことはあったか。ぶちゅ、と嫌な音がして視線を下げる。しまった。歯磨き粉出しすぎた。
 アイツの人生だから、アイツの好きに生きればいいけど。関係性は良好な部類に入る親しい人間だ。なるべく幸せにはなってほしいと思う。佐久早はしゃこしゃこと歯を磨きながら、ぐるぐると考える。やっぱ、心配が拭えなかった。彼女に口を出したいとは思わないが、彼女が選ぶ相手を一目見たいと思っても許されるだろうか。

「……」
 佐久早は朝家を出て、ゲッと眉を寄せてしまった。丁度、佐久早家の前を歩いていた彼女は佐久早に気づくと、聖臣くんおはよう、と掠れた声で挨拶してきた。どうやら寝起きのまま登校しているらしい。
「おはよ……珍しいな、こんな早くに」
「うん、ちょっと今回のテストやばいから友達と勉強するんだ」
「朝から?」
「放課後は友達が部活あるから」
「おっぽ、帰宅部だっけ」
「うん、万年帰宅部」
 二人は自然に並んで、歩き出す。佐久早はなんでもない、いつも通りの通学路を見つめて、脳内に思い描いてしまうのは綺麗なバージンロードだった、あんな夢を見たせいだ。佐久早は忘れていた使命感を思い出してしまったのだろうか。気になって、つい口が滑った。
「結婚とかしたい?」
「え、唐突なに」
「何となく」
「まあ、いい人が居ればしたいくらいかなぁ」
「ふぅーん」
 ふんわりとした回答に、色々挟みたくなる口を閉じる。マスクの下で、無意識のうちに唇が尖った。精一杯の強がりに同い年の従兄弟は気付くが、同い年の幼馴染は気付かない。だから、そのまま質問を返してくる。
「聖臣くんは結婚したいの?」
「……俺は別に」
「そっかぁ。でも、聖臣くんって結婚遅そうだよねぇ。独身貴族似合うし」
「……」
 あはは、と勝手なことを言っている彼女を、佐久早は黙って見下ろした。
 気遣いも、忖度も、無鉄砲が無謀だと知った彼女は急に黙る幼馴染に冷や汗をかく。あれ、ヤバかった?聖臣くん怒ってる?あ、そもそも、結婚の話題出してきたの聖臣くんだし。なんか、あったのかな。彼女が深く聴いた方がいいか悩んでいる間に、佐久早は先に歩き出してしまった。
 佐久早は唇をぎゅう、とつぐむ
「おっぽは俺がこれから誰と生きていくか……ましてや、どう生きていくかなんて、全然興味ないんだな」
 そんな言葉が飛び出しそうになった。飛び出す前に、我に帰ってよかった。どうして、そんなことを思ったのか。懐かしい夢を見て、過去の感情を思い出したせいだろうか。佐久早は消化不良な感情を持て余して、自然と顔を顰めていた。
「聖臣くん待って、怒った?」
「?……別に、怒ってない」
「ほんと?」
「うん」
 佐久早が頷けば、彼女はホッとしたように頬を緩めて、「聖臣くんあのね」と別の話題を話し出す。佐久早はうん、相槌を打ちながら、また自分に戸惑っていた。眉を下げて自分を心配する彼女、気にする彼女、そんな彼女を見て心が満たされて、何とも言えない歓喜を感じた気がする。
「聖臣くん?」
 彼女が佐久早を見上げる。不思議そうに首を傾げて、髪が流れ落ちた。幼い頃と違う、シャンプーの香り。昨日まで嗅いでも、何とも思わなかった香り。
「聖臣くん、もしかして熱あ……」
「俺先に、学校いく」
「エッ」
 彼女はすっかり差が出てしまったコンパスを活かして、スタスタと遠ざかる幼馴染の背中を見送ることしか出来なかった。

あとがき

- ナノ -