愚直(後編)


 彼女は古森に告白されてから、どんな風に日常が変わってしまうんだと秘かに怯えていた。怯えていたが、あんまり変わらなかった。確かに、日常の中で古森との接触は増えたが、心臓がドキドキしたり、振り回されるようなことはほぼなかった。本当に些細やなことばかりだった。そして、少しずつ古森は彼女の日常へ溶け込んでいった。



 彼女はあくびをかみ殺して、のろのろと教室へと向かう。複雑な気持ちだが、早く三年生なりたいなぁと朝だけいつも思うのだ。一年生は三階の教室、二年生は二階の教室、三年生は一階の教室という順になっている。中学と高校が偶々かもしれないが、なぜか一年生は三階からスタートなのだ。三年生になれば、朝からこんな階段登らなくてもいいのに。彼女はやっと二階へ到着して、スクールバックを持ち直した。そのとき、後ろから爽やかな声がした。

「あ、名字さんおはよう」
「おはよう」

 彼女は古森の爽やかさに目を細めながら、挨拶を返した。古森は彼女の眠たそうな表情に、にこっと笑う。ふふ、名字さんかわいい。実際古森は朝練があるため、彼女よりもとても早く起きている。朝起きてから時間が経っているので、爽やかなだけで、古森も実は寝起きはぼーっとしがちだったりする。

「今日寝坊した?」
「え、なんで分かるの」
「やっぱり、ここ跳ねてる」

 古森は自分の頭を差して、彼女に寝癖の場所を教えてやった。彼女は恥ずかしそうに、頭を押さえるが古森は優しく笑うだけだった。ずっと前から、古森はよく挨拶をしてくれた。「古森おはよー」「おう、おはよ」ほら、私と話してる途中でも、声を掛けられたら、返してる。でも、あの告白から私に挨拶するときは、絶対足を止めるんだ。古森くん。彼女は自分の前にある、自分よりも大きい靴に胸がじんわり、と温かくなった気がした。

「名字さん教室行こっか」
「うん」

 彼女が頷いて、古森の隣へ並ぶ。ああ、ほら、また。古森は彼女を見下ろすと、とても嬉しそうに、にぱっと笑った。その笑顔の可愛らしさと言ったら……!彼女が思わず目元に手を掲げれば、古森はおかしそうに首を傾げる。

「名字さん?今日曇りだよ?」
「いや、うん、古森くんが」
「俺?」
「眩しくて……」

 古森は彼女の言葉にギクリッと肩を揺らして、目を点にする。

「え、俺そんなにギラギラしてた?ごめんね、もうちょっと抑える努力する」

 いや、そういう意味じゃない。彼女が否定する前に、困ったように古森が微笑むから、彼女は弁解できなかった。古森くんはギラギラじゃなくてぽかぽかの、太陽みたいだよって。



 彼女はうーん、と背伸びして、首を回す。この先生宿題出し過ぎなんだよね。ノートに並んだ数式には、途中から意味不明な線が混じっていた。学習机に突っ伏して、スマホへ手を伸ばした。SNSを覗いてみるが真新しい情報は特になかった。完全に集中力は途切れてしまっている。ああ、明日提出なのに、やりたくないなぁ。彼女はLINEのアプリをタップして、比較的トークが新しいアイコンに伸ばしかけていた指を慌てて止める。

 丁度ピコン、と新しいメッセージが来たからだ。ピコピコ、と続けてメッセージが来て、3と表示される。彼女は既読を付けるかどうか、一瞬迷った。

【豆柴の動画】
【佐久早が古森二号って言うんだけど(笑)】
【安直過ぎない?】

 黒い体毛に、白いちょこん、としたマロ眉がかわいいかわいい豆柴に、彼女はほにゃほにゃと頬を緩ませる。やばい、かわいい。なにこの子、ちょーかわいい。しかも、古森の送ってくる動画も可愛らしい。どうやら散歩中の豆柴が古森たちの足元にじゃれついてる、ようだった。仔犬からすれば、佐久早も古森も、足が大きいのだろう。大きい靴に圧し掛かって、紐をちょいちょいと遊んでいる動画だった。あ、古森くんたちの声入ってる。

「古森二号、靴紐は危ないぞ」
「いや、俺じゃねぇから」

 あ、この大きい靴は佐久早くんのか。古森くんがカメラ向けてるみたいだし、そりゃそうか。画面越しでも、ふんふんと仔犬の鼻息が聞こえてきそうだった。仔犬の標的が佐久早の靴紐から、古森のスマホのレンズに変わったらしい。べちゃ、と小さな鼻が押し付けられたと思ったら、ふんふんとレンズを嗅いで、ぺろぺろと舐めだした。

「うわ、近い近い」
「後でちゃんと消毒しとけよ」
「分かってるって。
 にしても、本当可愛いですねぇ。名前なんて言うんですか?」
「ふふ、可愛がってくれてありがとう。
 この子ね、モトヤって言うの」
「ぶっは」
「え、マジで、俺二号じゃん」

 動画は、佐久早に吹き出す音と、素で驚いてる古森の声で締められていた。そして、彼女も佐久早と同じように、吹き出していた。マジで、俺二号じゃん、だって。もう、古森くん天才でしょ。こんなに面白くて、可愛い動画撮れるとか。彼女はさっきまでの憂鬱な気分を忘れて、早速古森に返信を打った。

【モトヤくん可愛過ぎだね】
【マジで、俺二号はずるい。】
【佐久早くんナイスセンス】



 その日は体育で長距離走があった。死ぬかと、思った。彼女は帰宅して、いつもより早めにお風呂に入ると、早々に寝に入った。いつもより酷使した筋肉たちが休ませろ、そう言っている。うん、寝よう。彼女はなんとか髪を乾かして、ベッドにもぞもぞと潜った。身体の力を抜いて目を瞑れば、おやすみ三秒だった。


「え、なに……?」

 彼女の意識の半分は、まどろみの中だった。ただスマホがうるさい。早く電話に出ろと主張してくる。こんな疲れてるときに、電話をしてくる不届き者は誰た。彼女は枕元を手繰りで探って、スマホを引き寄せる。うんしょ、と身体を仰向けに直して、閉じかける目でなんとか誰かを確認する。古森元也、と表示されていた。こもりくん……?なに?彼女はぼやけた意識のまま、ぽち、と通話ボタンに触れる。

「もしもし?」
「えっ」
「?」

 スマホの向こうで、戸惑う古森の声がした。彼女はまさか間違い電話か?と眉を寄せる。この野郎、古森くん。いくら古森くんでも、これは許さないぞ。まだまだ覚醒しない彼女は理不尽に叩き起こされて、寝ぼけていた。「えっと、名字さん?」「そうです」「もしかして、寝てた?」「寝てた」「うわ、ごめん。タイミング悪かったか」「うん」寝惚けている彼女は事実をそのまま伝えることしか出来なかった。言った後に、やべぇと気付いた。ただのヤな奴じゃん。

 でも、スマホの向こうの古森はぶはっ、と吹き出していた。

「いきなり電話してごめん。今テレビでバレー特集やっててさ」
「えっ!?ほんと?何番?」
「切り替え早いなぁ。えっとね」

 彼女はベッドから飛び起きて、部屋のテレビを付ける。リモコンを探す暇も勿体なくて、そのまま直接付けるほど急いでいた。リモコンがローテーブルの上に置いてあったことを発見した彼女は、古森に言われたチャンネルに慌てて変えた。彼女は目をきらきらとさせて、テレビの前に座り込んだ。なんと自分が好きな選手も、出演していたのだ。しかも、今からリベロ特集をやると言うではないか。

「え、やばい、これ絶対見逃してたら後悔してた」
「うん、名字さん絶対見たいだろうなぁって思って」
「えー、教えてくれてありがとう、古森くん」
「どういたしまして。でさ、今出てる選手なんだけど」
「うんうん」

 このときの彼女は気付いていなかった。古森の目的は達成されたはずなのに、ナチュラルに引き続き電話をすることになった流れに気付いていなかった。

 あっと言う間だった。古森と電話をしながら、テレビを見ていたら、もう番組はエンディングテーマが流れていた。彼女は次回予告のCMが流れて、やっと気付いた。うわ、私電話しっぱなしだった。通話時間は三十分を超えていた。彼女はテレビの音を小さくして、どれほど自分が古森との時間に夢中になっていたかを自覚して、どうしようもない照れ臭さを感じた。

「めっちゃ面白かったね」
「う、うん、そうだね」
「ごめん。俺いっぱい喋っちゃった」
「ううん、古森くんの話すごく面白かった。
 高校bPリベロのご意見はめっちゃ貴重ですよ」
「そう言われると嬉しいな。
 まあ、悲しいことに名字さんのbPリベロにはなれてないんですけど」
「ええ」
「もっと精進して、名字さんに見て貰えるよう頑張ないとなぁ」
「もう、古森くんからかってるでしょ」
「はは。バレた?」

 古森はでも本音だよ、と言いそうになったが、言葉を飲み込んだ。さっきまで盛り上がっていた空気も、ゆっくりと落ち着いて、そろそろ切ろうかと彼女が探っている様子は電話越しでも、古森に伝わってきた。古森は胡坐をかいていた足を正して、静かに名字さんと彼女の名前を呼んだ。

「ん?」
「また今日みたいに電話してもいい?」
「え!もちろん!また古森くんとバレーの話したい!」
「うわーうれしいー」
「え、全然嬉しくなさそう」
「んっと、バレー以外でも電話したいって言ったつもりだった」
「ひえ」

 理不尽に落とされたスマホが可哀想だった。幸いなことに、彼女の抱いていたクッションの上に着地したので、大きな音を立てることも、ご自慢の綺麗なボディにも傷が付くこともなかった。彼女は耳に残る。男の子にしては少しだけ高く、甘い声に顔が熱かった。

「名字さん?」
「ご、ごめん。スマホ落としちゃって」
「……そこまで嫌だった?」
「違うよ!びっくりしただけ」
「そっか」

 古森の少しだけ沈んだ声に、彼女の胸がチクリ、と痛む。彼女がなんて言えばいいのか、と言葉を探してる間に、古森が先に口を開いた。

「じゃあ、バレー以外でも話してて楽しいって思って貰えるよう頑張る!」
「え」
「またあし」
「待って」

 古森はやっちまった!と顔が見えないの良いことに、思い切り顔を顰めていた。距離感はかり間違えた。彼女のかたい声に、古森は覚悟を決めるしかないか、と目を強く瞑る。

「がんばらなくていい、から」
「……名字さん」

 やっぱり、ダメだった。失敗した。こないだもギラギラしてるの、バレたし。俺思ったよりも、自分の気持ち隠すの下手だったのか。それはそれでショックだ。コミュ力おばけと言われても、好きな子には何の役も立たない。古森が絶望のどん底に落ちて、自暴自棄になっていると、柔らかな声が届いた。

「今でも楽しいよ」
「え」
「えっと、だから、
 今でも古森くんと話すの楽しいから、がんばらなくていいって言ったの」
「名字さん」

 彼女は少し早口で、ぶっきらぼうな口調だった。どうやら彼女は照れているらしい。絶望していた古森の心に、一筋の光が差し込む。大袈裟ではない。古森にはそれくらいの衝撃だった。逆転サヨナラホームラン並みだった。古森は自分の心臓が早くなっていくのが、分かる。この次の一発で決めたい、とラリーを繰り返しているときの、ような気持ちだった。古森はパーカーをぐしゃぐしゃになるほど掴んで、一気に力を抜いた。

「ありがとう、また電話してもいい?」
「うん。あ、でも、電話の前にLINE欲しいな。いきなりだと出れないかもだし」
「りょーかい。名字さんのお昼寝タイム邪魔したら悪いもんね」

 すっかり古森の声の調子は戻っていた。彼女はそのことに安心して、からかってきた古森に慌てて言い返すのだった。



 彼女は授業が終わっても、SHRが終わっても、大人しく席についていた。いつもよりゆっくりと、無駄に教科書とノートの角を丁寧に揃えてスクールバックへ仕舞っていた。彼女は机の中に手を突っ込んでみるが、もう何も入っていない。どうしよう。あからさまにスマホ触ってたら、待ってます感出ちゃうよね。彼女はうーん、とスクールバックに額を押し付けて、悩んだ。彼女の悩みの種は、クラスメイトとにこやかに談笑していた。

「で、絶対これ面白いと思って」
「えーほんと?」
「古森も読んだらハマるって」
「こないだの絵可愛かったけどさー」

 放課後になると、古森は基本的にすぐ部活へ向かうが、今日みたいに早めにSHRが終わると、クラスメイトとよく談笑している。以前の彼女はSHRが終われば、すぐに教室から出て帰宅していた。帰宅部である彼女は寄り道せずに、いかに早く家に帰ることができるのかが大事なのである。でも、彼女は帰る前に一つだけ完了させなければならないミッションがあるのだ。そのミッションを終えないと帰らないと、決めた。勝手に彼女が自分の中で、決めた。

「え、今?珍しい」

 その日も、彼女はクラスで一番に教室を出て、いつもと変わらない通学路を歩いていた。学校が終わったので、マナーモードを解除したスマホから、早速通知音が鳴り響く。スマホの画面を見ると、古森からLINEが一件届いたようだった。歩きスマホは良くない。彼女は歩道の隅によって、立ち止まって、再びスマホの画面に触れて内容を確認する。

【名字さんもう帰った?】
【うん!帰ったよ〜】
【なんかあった?】
【何もないんだけど】
【バイバイ言おうと思ったら居なかったから】
【バボちゃんがバイバイしてるスタンプ】

 彼女はスマホの画面を見つめて、動けなかった。そうだ。古森がちゃんとしてる挨拶は朝だけじゃ、なかった。いつも帰りも、ばいばいって言ってくれる。彼女は比較的教室の扉に近い席だった。だから、ついでにだとばかり思っていた。違う。古森くんわざと私の席まで、挨拶しに来てくれたんだ。だって、よく考えたら体育館に向かうなら、私の席と反対側の扉から出た方が近いのに。古森くんわざわざ遠回りしてたんだ。気付きたくなかった。彼女は胸が締め付けられて、苦しかった。

「え、もしもし?名字さん?」
「……こもりくん」
「どうしたの?あ、ごめん、一々LINEして」
「いや、それ、じゃなくて」
「うん?」
「……バイバイって、ちゃんと言いたくて」

 古森が送った文字じゃなくて、古森の声で聞きたかった。柔らかくて、ほっとするような声が聞きたかった。彼女の言葉に、電話越しの古森が声を呑んだ。彼女は迫ってくる羞恥心を見ないフリして、じっと古森の返事を待った。

「すっげぇ嬉しい」
「!」
「本当はね、俺も、ちゃんと言いたかった。
 名字さんバイバイって」
「うん、私も、古森くんのバイバイ聞きたかった」

 そう。こんな思い出すだけで、背中を掻き毟りたくなるようなやり取りが以前あったのだ。それから、彼女は古森にばいばいを言われるまで、大人しく席で待っているのだ。

「名字さん」
「……」

 すっかり癖になっていた。甘くて、自分を呼ぶ、とてもかわいい声が、癖になっていた。彼女がそぉっと顔を上げると、にこっと笑っている古森の姿があった。もう、なんだよ、その笑顔。彼女は古森に悟られたくなくて、でも、古森ほど器用じゃないから、唇がふにゃり、と変な形になった。古森は彼女の不思議な表情に、こてん、と首を傾げる。何故か、彼女の表情は余計に変な感じになった。

「名字さん、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ」
「そっか。なら、いいんだけど……今日さ」
「?」

 少し迷ったように、古森は視線を彷徨わせてから、彼女を見下ろした。それから、古森はわざわざ彼女の前の席の椅子に座り始めた。うん!?古森くん時間大丈夫なの!?古森は椅子に跨るように座って、改めて彼女を見つめる。彼女は古森に目線が近くなったなぁ、と古森を見つめ返した。またまた不思議なことに、古森の頬に赤みがさして、古森は椅子の背に腕を乗せて、その腕に顔を埋めてしまった。

「え、古森くん、どうしたの」
「今から、ちょっとだけ調子乗ってもいい?」
「え?うん?」

 彼女は古森が何を言いたいのか分からず、戸惑いながら頷いた。すると、古森は顔を上げたが、目元しか見せてくれなかった。

「もしかして、今日俺のバイバイ待ちだった?」
「エッ」

 彼女のリアクションに古森の眉が不安そうに寄せられる。心なしか瞳まで揺れているように見える。まるで、最近古森が送ってくれた豆柴の仔犬とそっくりだった。たしか、あの仔犬は初めてのお留守番で、ひらすらくぅんと寂しそうに、悲しそうに鳴いていた。

 目の前の古森も、今にもくぅん、と鳴きそうだった。彼女は庇護欲とそうじゃない感情がごちゃ混ぜになった状態で、ウン、と大きく頷いた。途端に、古森はぱぁと瞳を輝かせて、ふにゃりと微笑んだ。

「ありがとう、名字さん。
 俺めっちゃ今日部活頑張れそう」
「そ、そっか、なら良かった」
「へへ、じゃあ、名字さんバイバイ」
「ば、ばいばい」

 古森はニコニコと満足げに颯爽と教室から出て行った。一名の負傷者を残したまま、出て行ってしまった。彼女は制服の上から、心臓を押さえる。気付きたくなかった。古森の真っ直ぐな想いにも、胸を締め付ける痛みの正体の変化にも、気付きたくなかった。



 パタリ、と古森からの連絡が止まった。電話も、LINEも来ない。おかしい。学校に行っても、教室に行っても、古森の姿形もない。え、なんで……?彼女は自分の席について、とても好きだった選手が引退してしまったときのような気持ちだった。ずぅん、と嫌でも自分の雰囲気が暗くなる。
 
 彼女の手は勝手に、ポケットからスマホを取り出して、LINEアプリをタップしていた。もちろん、彼女が開くトーク画面の相手は古森元也だ。最近の内容を読み返して、変なことは言ってはいないだろうかと確認中に、彼女は机に突っ伏した。

 古森はちゃんと連絡をくれていた。彼女は顔を上げて、古森のメッセージをまじまじと見つめる。

【来週から1週間合宿なんだ〜】
【そうなんだ!】
【気を付けて行ってらっしゃい!】
【ありがと〜】
【行ってきます!】
【あ、合宿終わったら、授業のノート見せてほしいな(笑)】
【もちろん!】

 行ってらっしゃいって、言ってるじゃん私!彼女は頭を抱えて、自分の頭の容量の小ささを嘆いた。古森は必ず一日に一回連絡をくれたわけじゃない。二、三日に一回くらいで、土日は必ず連絡してきた。主に部活に行くまでに見つけた犬や猫の写真や動画を送ってくるのだ。あとは、部活中の様子とか。バレー好きの彼女がテンションが上がりそうな動画を送ってくれていた。

 最初は古森から連絡が来ることに、ドギマギしていたが、今ではすっかり楽しみの一つになっていた。今日は水曜日。だから、古森から連絡が来なくなって、三日目になる。



「おっ、名前が体育館来るなんて、珍しいな」

 飯綱は唐突な訪問でも、嫌な顔せずに彼女の頭を撫でて、どうした?と気にしてくれた。彼女は自分の頭を撫でる手が、古森だったらいいのに、と思ってしまう自分を必死に脳内から追い出した。

「つかさくん、一緒に帰ろう」
「え、いいけど。
 部活終わるまで暇だろ?名前」
「図書室で勉強してる」
「ん、じゃあ、俺図書室まで迎えに行くな」
「うん、分かった」

 結局、彼女は木曜日も、金曜日も飯綱と一緒に帰った。



 彼女は土曜日なのに、スマホのアラームを止めて、ベッドの中でもぞもぞと動いていた。ぬくぬくとした布団の中に居たい。彼女はなんとか気合で、ベッドからの脱出に成功した。

 フローリングがとても冷たくて、彼女は跳ねるように歩いて、洗面台へと向かう。前までは水洗いだけだったが、最近はちゃんと朝も洗顔をしている。朝ネットを使って泡立てるのは正直、めちゃくちゃめんどくさい。でも、美容に詳しい友達が、夜寝ている間にも皮脂とか出てるから、ちゃんと綺麗にしてからスキンケアしないとダメと教えてくれた。

「……はぁ」

 泡をちゃんと流し終えて、ぽんぽん、とタオルで優しく顔を拭く。友達におすすめされたスキンケアはしっとりタイプを選んだ。冬になると、乾燥が酷くなるのだ。化粧水をパシャパシャと使った後に、手のひらで肌に押し込むようにしてる間は、あまりの気持ち良さに二度寝しそうになる。肌を潤わせた後は、ちゃんと乳液で蓋をする、らしい。乳液はべたべたしてて、ちょっと苦手。彼女はいつもの日焼け止めを手に取ろうか迷って、やっぱり止めた。



「つかさくん、おはよう」
「うわっ、びびった!」

 彼女は背中を丸めて歩いている幼馴染の背中を軽く叩いた。飯綱はまさか部活に向かう途中で、彼女に話しかけられるなんて思っていなかったので、とても驚いた。そして、振り返って再び驚いた。

 彼女はいつも通り制服を着ているが、彼女自体はいつも通りではなかった。頬がほんのりと赤く、唇はぷるぷるだった。目も、なんかキラキラしていた。全然分からねぇけど、名前がいつもより可愛くて、気合が入ってるのは分かる。心なしか髪はいつもよりサラサラな気がするし、いい匂いもする。

「え、なんか変?」
「いや、変じゃないよ、可愛いけど、なんかあんの?」
「……まあ、ちょっと」

 わざとらしく視線を逸らす彼女に、飯綱はぽん、と手を打った。横で彼女に昭和くさいと言われたが、気にしない。飯綱はニヤニヤした顔で、肘で軽く彼女を突いた。彼女はとても鬱陶しそうに、飯綱をジト目で見上げるが、文句は言えなかった。一応三日連続で家まで送ってもらった恩がある。

「そっかぁ〜そっかぁ〜でも意外だなぁ」
「……本人の前では、言わないで」
「分かってるって。佐久早そういうのイヤだろ、絶対」
「……は?」
「うん?」

 飯綱はとても優しい顔で、彼女を見下ろした。彼女は幼馴染としての贔屓目なしで、飯綱は爽やかでかっこいいと思っている。ただ恋愛に関してはダメだ。にぶにぶマックスだった。

「つかさくん、学校行こ」
「え、今絶対俺に失礼なこと思ったろ!」
「……」
「こら、名前!お兄ちゃんを無視しない!」



 古森は心が折れていた。古森は昨日ユース合宿を終えて、その間ずっと彼女から連絡がなかったことを引き摺っている。多分しようと思えば、連絡の一つや二つ自分から取ることは出来た。でも、しなかった。少しでも、彼女から求めて欲しかったから。まあ、バレーに五日間集中するって意味もあったけど。でも、下心がゼロって訳でもなかった。

 最近良い感じだったし、もしかして?ってめちゃくちゃ期待した。合宿中に連絡がなくても、昨日の夜とかに「お疲れ様」の一言は来るのでは?と最後まで希望を手放すことが出来なかった。

 合宿翌日の部活は自由参加だと言われていた。しっかり身体を休めろ、って意味だと理解していたが、家でうだうだと過ごしても、ちゃんと休めないことは明白だった。

 古森はマフラーに埋めていた口を出して、はぁと息を吐いた。白く染まる吐息に、すっかり冬だなぁとしみじみと思った。

 今年は雪が降るだろうか。雪が降ったら、きっと佐久早はとてもイヤな顔をするだろう。でも、彼女はどうだろうか。古森はマフラーをぐるぐると巻いて、子犬の鳴き声のような足音をさせて、真っ白な景色を歩く彼女を想像してみた。きっと、彼女は足を取られそうになって、転びそうになる。そして、その手を取るのは……、とそこまで考えて、古森は慌ててマフラーに顔を埋める。

 バカみたいに恥ずかしかった。とても有名なバンドの曲が頭の中にかかっていたのだ。

「あ、古森くん!」
「え」
「おはよう!今日すごい寒いよね」

 マフラーをぐるぐるに巻いた彼女が、嬉しそうにそう言った。あ、オレ、今夢見てんのか。だって、都合が良いだろう。彼女が部室棟の入口に立っているなんて、有り得ないシチュエーションだ。だって、彼女は帰宅部だ。部室棟に用なんて、あるわけがない。

 自分を見つめて、微動だにしない古森に彼女は首を傾げる。もしかして、合宿の疲れが残っているのに、部活に来てしまったんだろうか。彼女は古森の様子が心配になって、古森に駆け寄ろうとした。

 彼女は自分の口から、「きゃっ」なんて高い声が出せるのだと、今知った。座り込んで待っていたのに、古森の姿が見えた瞬間に立った反動だろうか。思い切り足をもつらせてしまった。古森は目の前で思い切り転びそうになる彼女の手を取る。殆ど条件反射だった。今ばかりは自分の反射神経に感謝である。

「え、名字さん?」
「ご、ごめん。古森くんありがとう」

 転ばないようにしてくれた古森の手を、彼女はぎゅう、と掴んだ。古森は嬉しそうに、でもちょっと申し訳なさそうに笑う彼女に、俺がいいと思った。あの曲の、歌詞のままだった。古森は手に触れる彼女の手の冷たさに、あ、夢じゃないんだと今更自覚した。いつの間にか、学校に着いていたらしい。古森と彼女の距離は近かった。近かったけど、ふたりとも離れようとしなかった。

「えっと、古森くん、合宿お疲れさま」
「ありがとう。そう言えば、名字さん、なんで今日学校に?」
「古森くんに会いに来ました」
「……え、俺に?」

 彼女が小さく頷いて、口を開いた。小さな声だったが、ちゃんと古森の耳に届いた。本日二度目の可愛らしい悲鳴が、古森に抱き締められた彼女の口から、零れるのだった。


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