愚直(前編)


 古森は全国の男子高校生に問いかけたい気持ちだった。部室に入ろうとしたら、片思いしている女の子と主将が二人きりで居たんですけど、これは失恋確定だと思いませんか?飯綱は扉を開けたまま、固まっている古森に大きい目をさらに大きくして、あちゃーと困ったように眉を下げる。古森の片思いのお相手こと名字名前は、男子バレーボール部、部室の青いベンチに座って、えぐえぐと泣いていた。

 痴話げんか……!古森の頭には、その文字でいっぱいになった。飯綱は珍しく分かりやすいほど、動揺している後輩に、意外だなぁと思った。いやいや、そんな場合ではないと、石化している可哀想な後輩に声をかける。

「古森忘れ物?」
「ア、はい」
「名前のことは気にしなくていいよ」
「……え、名前?」

 古森は思わず聞き返してしまった。再び、全国の男子高校生に問いかけたい。女子の名前を下の名前で呼ぶのって、もう九割答え出てますよね?このふたり完全に恋人じゃん。古森は口元が引き攣るが分かった。ヘタな愛想笑いも、何もできない。ただ事実を受け止めることしか出来なかった。古森のリアクションに、飯綱はきょとん、として、すぐに苦笑いした。

「違う違う。俺と名前はそういうんじゃ、ない」
「え、……付き合ってないんですか?」

 バカじゃん、俺。直球過ぎる。オブラート戻って来て!

「ないない。名前はただの幼馴染だし、な」
「うん、つかさくんは幼馴染」

 ハンドタオルから顔を上げた彼女は、目元を真っ赤にしてそう応える。飯綱は彼女の頭をぽんぽん、と撫でてて、「落ち着いたか?」と声をかけていた。いやいや、あの距離絶対恋人でしょ。いや、幼馴染=妹的な存在と思えば、ありなのか?俺がイトコの年下の女の子に、する感じ?分かんない。俺幼馴染の女の子とか、いないから分かんない。ただただ目の前の光景が、衝撃的で、面白くないことだけが事実だった。てか、なんで名字さん泣いてるんだろう。めっちゃ気になる。でも、そこに自分が踏み込むべきではないことぐらい、の判断はつく。

「全然気付かなったです」

 古森の口からは謎な感想しか出てこなかった。そして、やっと部室に一歩踏み込むことが出来た。

「あーまあ、学校だとあんまり絡まないしな」
「そうだね……古森くんって」
「え?は、はいっ」

 うわ、どもった。最悪。俺ダサい。だって、まさか名字さんの方から俺に話しかけてくるとか、思わないじゃん。古森がぎこちなく彼女へ向いて、人の良い笑みをつくる。確かに彼女とは、中学生の頃からずっと同じクラスで、ただのクラスメイトよりは付き合いが長いかもしれない。でも、この状況でわざわざ話しかけられるほど、仲がいい訳でもなかった。

 名前の奴、自暴自棄になってるな。古森を巻き込むとは。飯綱はため息をつきながら、ジャージにコロコロをかける。そろそろ帰る準備をしないと、正門を閉じられてしまう。

「古森くんは男女の友情は成立すると思う?」
「へ」
「こら、いきなり聞いたら、古森もびっくりするだろ」
「……だって、気になったから」

 え、これは、なんて答えるのが正解?彼女が泣いている意味が分からないと、答えられない。いや、古森くんはって言ってるから、俺が思ったこと正直に言ったほうがいいかもしれない。でも、ここで答えたことが今後に響くなら、えー、分からない!情報が無さすぎる!古森が困った顔して、首を傾げると、飯綱が助け船を出してくれた。

「名前は男女の友情が成立してないって、言うんだよ」
「え、何で?」
「だって、私が友達だと思ってた男の子全員告白してきたもん」
「あー……なるほど」

 何となく彼女の言いたいことは分かった。あと、彼女が泣いている訳も、それとなく絞り込めた気がする。ここで古森の頭の中で、彼女が泣いている理由は大きく二つに分けられた。彼女が友達だと思っていた男子に告白されたのは間違いない。そこから、彼女に付き合う気はないのに、男子が素直に引き下がらず、しつこくされたパターン。もう一つは告白されて、これから好きになってほしいと試しに付き合ってみて、やっぱり上手く行かずにひと悶着あったパターン。きっとどちらかだ。泣いている彼女はどこか疲れたように見えた。だから、きっと恋愛なんて……、とあまり良い印象はないだろう。

「うーん。
 はっきりとした答えじゃないかもしれないけど」
「うん」

 彼女は古森の答えが気になっていた、らしい。じっと古森を見上げて、古森の答えを待っていた。古森はそんなに期待されても、と眉を下げる。

「どっちかが恋愛感情持ってなかったら、成立するんじゃないかな」
「そりゃそうだろ」
「もーだから言ったじゃないっすか。
 はっきりとした答えじゃないって」

 やはり、突っ込まれた。飯綱の至極真っ当なツッコミに、古森は唇を尖らせて、わざと不満げな表情をつくる。彼女がこの回答で満足したか、は分からないけれど。チラッと彼女を伺ってみると、彼女はぽかん、と古森を見上げていた。そして、彼女は瞬きを三回繰り返して、「そりゃそうだ」と笑い出した。よく分からないけど、どこかにツボったらしい。

「でもさ、名前が断ってんのに、しつこいのはダメだよなぁ」
「……はあ、疲れちゃった」

 彼女は飯綱の背中に軽く頭を預けて、ため息をついた。どうやら、古森が予想した前者のパターンで当たっていたらしい。

「お疲れさま」
「私多分ダメなんだよね」
「?
 恋愛が?」

 飯綱の言葉に、彼女は首を横に振った。古森は飯綱さん、ありがとうと、心の中で手を合わせた。俺もそこ、気になってました。ありがとうございます。

「一回友達!って見たら、そこから恋愛には発展できない、気がする」
「え、名前、こないだ友達みたいな彼氏欲しいって言ってたじゃん」
「い、言ってたけど、無理って分かったの。
 友達って思ってた男の子に、手繋ぎたいとか言われても、え?必要?って思っちゃうし……」
「ふぅん。じゃあ、最初から異性って意識しなきゃ、ダメってこと?」
「え、ああ〜、まあ、たぶん?
 そもそも息が苦しいの!相手の気持ちが重くて!」
「……あー、応えられない気持ち向けられるのはなぁ、まあ、しんどいよなぁ」
「確かに」

 飯綱の言葉に、思わず古森が相槌を打てば、彼女はふたりを見て、静かに拍手をした。

「さすがモテる男子は経験がおありて……」
「こら、真剣に聞いてるんだから、茶化さない」
「ぎゃ、ごめんなさい」

 飯綱が彼女の額を指先で弾けば、彼女は大袈裟に痛がった。そんなリアクションですら、かわいいなぁと思う余裕は古森にはなかった。話がひと段落したところで、部室の扉がノックされた。

「はい!」
「あ、その声飯綱だな。そろそろ帰れよー」
「あ、すんません。すぐ帰ります!」

 あ、先生だ。先生は飯綱の言葉に、「気を付けてな」と返して、見回りを再開したようだった。

「じゃあ、俺らも帰るか」
「そうですね」
「ほら、名前送ってくから」
「ありがとう、つかさくん。
 古森くんも、変なこと聞いてごめんね」
「ううん、俺も思ったことあるから」

 彼女の言葉に、古森がここだけの話ね、と眉を下げれば、彼女は目を大きくした。そして、少しだけ嬉しそうに笑い返すのだった。



「元也ー充電器貸してー」
「姉ちゃん、ノックしてって言ってるじゃん」
「それより、充電器〜」

 自由か。古森は枕に埋めていた顔を上げて、「充電器はそこ」と学習机の上を指差した。姉はごちゃっと漫画や雑誌が置かれている学習机に眉を顰める。「元也、学習机のどこ」「えー」「元也」「えっと、んー、多分筆箱の近く」姉は弟の誕生日にプレゼントとした筆箱を見つけて、眉をぴくり、と上げた。机の上は汚いのに、その筆箱は比較的綺麗なのだ。仕方ない、今回は許してやろう。って、筆箱の中に充電器入ってるじゃん。

 姉は無事スマホの充電器を回収すると、遠慮なくベッドに座ってきた。そのままヘッドボードのにコンセントに充電器を差して、スマホをいじり始めた。古森は姉の行動に、最悪だと大の字で転がった。大袈裟に降参です、とアピールする弟に、姉はくすくすと笑って、ご自慢のストレートの綺麗な髪をかきあげた。

「別にいじわるしに来たんじゃないのに」
「いや、俺からすれば意地悪」
「ふふ、で?」
「でぇ?」
「元也は何に悩んでるの?好きな子に彼氏でもいた?」
「……」

 姉が首を傾げると、さらり、と綺麗な髪が流れ落ちる。古森家は基本的に猫っ毛で柔らかい。妹は典型的な猫っ毛で、ボリュームが出にくい上に元々の髪の量が少ないのが悩みだ。姉は唯一、直毛かつハリや艶がある綺麗な髪質で、よく妹は羨ましがっている。そんな姉はボリュームが出来過ぎて、妹の髪質が羨ましいとか言うので、隣の芝生は青く見えるという奴だ。古森自身は髪質は柔らかく、サラッとしている。良いとこ取りだと、姉と妹から理不尽に責められることに、未だに納得していない。

「なんで分かんの。怖いんだけど」
「元也が分かりやすいんだよ?
 ……まあ、だいたいの男の子は分かりやすいと思うけど」

 唇にスマホを当てて笑う姉が、古森は恐ろしかった。姉は伊達に古森キョウダイの頂点ではない。一見無害のような愛らしい女の子に見えるが、キョウダイの中で一番抜け目がないのは姉なのだ。弟と妹が親に言い包められて、欲しいおもちゃが手に入れられなかったとき、ちゃっかり一人だけゲットしていたり、イトコの中でも一番に携帯を買ってもらったり、とかなり姉は優遇されている。イトコの中で一番上の聖臣のお姉さんよりも、早かったし。

「姉ちゃんはさぁ」
「元也」
「……」

 姉がにこっと笑う。古森はげぇ、と眉を顰めて、再び枕に顔を埋めた。きゃらきゃらと楽しそうな姉の笑い声が少し憎たらしい。小さく柔らかい手が、古森の頭を混ぜるように撫でる。

「下手な言い方しないで。そのまま相談しなさい」
「はぁい」
「んふふ、よろしい。続けて?」

 古森はあらいざらい素直に吐き出した。いや、吐かされた。今好きな子が居ること。あんまり恋愛には前向きではないこと。王道かつ有力な友達から恋人へのルート変更がダメなこと。打つ手がなくて困っていること。万事休すだ。だから、もう、彼女のことは諦めようと思っていることも、全て吐き出した。姉はうんうん、と頷いていたが、「なるほどねぇ」と言った後に、いきなり古森の脇腹を突いた。地味に痛い。

「ぎゃっ」
「うそつき」
「え、なにがだよ」

 思わず姉相手にも関わらず、口調が荒くなってしまう。「元也口悪い」「にゃっ」思い切り額を人差し指で突かれた。地味に痛い。古森が額を押さえて悶えていると、姉は古森を見下ろしながらため息をつく。

 姉は思うのだ。この弟は見切りをつけるのが速すぎる。弟は確かに他人の気持ちに敏感だし、自分には理解できない感情だったとしても、その理解できないことを理解して、相手の感情を優先する。人間関係の足し算引き算が異様に得意で、しかもはやいのだ。その判断のはやさは悪いことばかりではない。判断がはやいから、他人との会話に変な間が生まれない。そして、弟は引き出し上手なのだ。相手に喋らすことだって、できる。相手が喋りたくないか、喋りたいか、そこの気持ちまで見破る。その上で、その振る舞いをするのだから、我が弟ながら、中々できた男だ。

 でも、逆に人間関係のシミュレーションが見え過ぎて、見落とすこともあるだろう。きっと、いや、絶対ある。だって、人間が完璧なんてあり得ないんだし。まあ、その見落としたことが、何かは分からないけど。私も、元也も。

 きっと弟のコミュニケーション能力の高さも、判断力のはやさも、弟の戦場は役に立っていることだろう。何よりきっと、チームプレイのスポーツなのだから、むしろ武器の一つになっているに違いない。バレーでは、判断力のはやさはきっとメリットでしかない。

 元也曰く、バレーは点を取られて当然の競技らしいけど。人間関係では、判断力のはやさは時々危ういから厄介だ。何だこの人?って思っても、時間を重ねて一番信頼できる人になってたりもするし、まあ、直観を誤魔化してドツボにハマることもあるけど。

「元也はさぁー頭がいいじゃん」
「いきなり何」
「だから、元也なりに、その子にどんな風にアピールすればいいか考えた上で?
 諦めようって結論出したんでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
「ちなみに、どんなアピール考えたの?」
「……」

 古森は嫌そうな顔をして、ぽそぽそと話し始めた。

 まずは友達からの恋人への王道ルートはやっぱり考えたよ。でも、これはダメ。言わずもがな名字さんの言葉通りで、一番勝算が低い。次に二番目に王道ルートの、振られることも込みで、告白からスタートルート!でも、これはリスクが高過ぎるじゃん。「そもそも息が苦しいの!相手の気持ちが重くて!」という言葉を思い出して、古森は枕に顔を埋める。いたっ、続き話すから!

 その次は……、これは一番ずるいルートかも。実はさ、名字さんもバレーボールが好きなんだよね。しかも、好きな選手のポジションはリベロなの。悲しいことに、名字さんが一番追いかけている選手は俺ではないんだけど。「え、なに?元也、選手としても片思いしてるの」「う、うるさいなぁ」しかもさ、他校の、俺も気になってる選手なわけ。

 そんな好きなものを利用して、名字さんと仲良くなることも考えなかったわけじゃないよ。でも、このルートは結局、最初の王道ルートと一緒で名字さんのことを裏切ることになるからさ。やっぱり、だめ。今言った奴以外に、名字さんに近付く方法思いつかない。

 そう、詰んでいるのだ。結局、この恋は無理だ。彼女が古森のことを自ら好きになってくれるなら別かもしれないが、それは一番ない展開だ。

 何が悲しくて、自分で無理な理由を説明しなければならないのか。古森は空しい気持ちを隠さずに、話し切って肩をすくめて見せた。ほら、無理でしょ?って。それこそ、同じ性別の姉のことだ。彼女の言いたいことは理解できるだろう。姉も興味のない男に、言い寄られて鬱陶しいと愚痴っていることがある。所詮そんなものなのだ。

 投げやりな弟を見透かしたように姉は目を細める。

「元也さ、本当は分かってるんでしょ?」
「?」
「今言った中で、二番目の方法しか両想いになる方法はないって」
「え」
「元也がこんなに悩んでるってことは、それだけ、その子に惚れてるってことでしょ?
 そもそも諦めること自体がもう無理なんじゃないの?」
「……」

 古森は姉の言葉に、身体を起こした。呆然として下を向いていた視線が、姉の方へ向けられる。姉はやさしく笑っていた。もう一度の古森の頭を混ぜるように撫でる。

「本当は、その子のこと欲しいんでしょう?」
「……」
「何もしてない癖に諦めようとするなんて、生意気だぞ」
「あいたっ」

 不思議だ。決して姉は力が強い訳じゃないのに、姉のデコピンは異様に痛い。姉は額を押さえて、自分を見る弟に微笑む。

「元也いいこと教えてあげようか」
「?」
「仮説は実証してみないと、本当にそうなるか分からないんだよ?」
「あっ」
「あと、元也がそこまで一人の女の子を好きになるって、珍しいと思うよ。
 もうちょっと大事にしたら、自分の気持ち」

 あ、もちろん、相手の気持ちも大切にしないとダメだけどね。と付け足して、姉はお茶目に片目を瞑って見せた。そんな仕草も様になるから、我が姉ながら怖いものだ。古森は姉の言葉にやっと気持ちが纏まって、腹を決めるかと頭を掻いた。



「でぇ?」
「な、なに」
「元也はその子のどこに惚れたの?」
「ええ」
「一番面白いところでしょ〜教えなさい〜」

 古森は姉に肩を揺さぶられて、仕方なく口を開けた。

 それは、まだ古森が中学生の頃の話まで遡る。その頃の古森はとある悩みを抱えていて、試行錯誤の日々だった。古森の中で、一つの答えは出ているのに。その一歩踏み込む覚悟がまだ足りなかった。でも、早く決めないと、時間がなくなってしまう。一からやり直す訳ではない。でも、今まで積み重ねた経験、場所をそう簡単に手放すことも難しかった。でもでもだって、と脳内で繰り返す自分自身に辟易としていた。

「あっ」

 古森の小さな声だった。部活が終わって、コンビニで買い食いしようとした帰り道に、事件は起こった。しまった。十円足りない。トレイの中に、置かれた小銭たちが心配そうに古森を見上げていた。今日に限って小銭入れしか持ってなかった。必要以上に持ってたらお金使っちゃうから、分けるのおすすめ。なんて、姉の言葉を素直に実行するんじゃなかった。目の前の肉まんを諦めようとして、手際のいい店員が既にカウンターに置いてくれているのが申し訳なかった。探るような店員の目も、後ろに並んでいる人の気配にも、らしくもなく焦った。

 仕方ないと諦めて、謝ればいいだけだ。特に抵抗はない。はずなのに、このときの古森は頬が、思考が固まって動けなかった。そのとき、後ろから白い手の甲がひょっこりと現れた。

「これでお願いします」
「え」
「では、丁度お預かりします」

 トレイの小銭たちは問題なく、店員の手によって運ばれていく。店員も特に躊躇うこともなく、会計を進めていった。一人だけ驚いている古森が後ろを見れば、中学に入ってずっとクラスが同じ女の子が立っていた。彼女は古森を見上げて、いつもの古森のようににこっと笑う。「名字さん、ありがとう」「いえいえ。部活帰り?」「うん」「じゃあお腹空いちゃうよね」仕方ないよ、と彼女は眉を下げる。

 古森は肉まんを受け取って、レジの列から離れて、イートインスペースで彼女のことを待つことにした。ドクドクと嫌な音を立てる心臓を落ち着かせようと、肉まんを食べようとして、やっぱり止める。彼女にもう一度お礼を言ってからの方が良い気がする。

「名字さん」
「古森くん」
「さっきはありがとう。明日十円返すね」
「あはは。いいよ、あれくらい」
「いやいや、大事だから」
「古森くんは若いのにしっかりしてるんだねぇ」

 のんびりとした口調の彼女に、古森は「俺ら同い年じゃん」と突っ込んだ。彼女が買ったビニール袋の中には、チョコや軽食が入っていた。彼女は古森の視線に気付いて、「今から塾なの」と肩をすくめる。受験。古森にも、近付いている大イベントの一つだった。古森がつい憂鬱な表情をすれば、彼女はガサゴソとビニール袋を探り始めた。

「古森くん」
「ん?にゃっ」

 空腹を我慢できずに、肉まんにかぶりついた隙を突かれた。古森は頬に当たる冷たさに、つい変な声を出してしまった。彼女は古森のリアクションを気にせず、笑っている。いや、ちょっとおどけたように、決め顔をしていた。

「愛情一本!」
「!」

 古森はぱちぱち、と瞬きを繰り返す。彼女は固まる古森に、あははと照れ笑いをした。

「な、なーんちゃって」

 恥ずかしそうに視線を逸らす彼女に、古森の口は勝手に動いていた。

「はは、ありがとう。なんか元気でた気がする」
「そっか!良かった!」

 人の良さそうな笑みで、クラスメイトをフォローする古森はいつもの、みんなに優しい古森だった。彼女は教室で知っている古森の雰囲気に戻ったことに、ほっとしながら内心首を傾げる。古森くん元気ないように見えたけど、気のせいだったかな。

「でも、これオロナミンC」
「チオビタは十五歳未満は飲んじゃダメだから。
 でも愛情が届いてよかった」
「え」
「クラスメイトからの愛情という名のエール!お互い受験頑張ろうね!」
「名字さん」

 あ、それあげる!と彼女は古森にオロナミンCを押し付けると、コンビニの自動ドアをくぐっていく。小走りで、駐車場に止まっていた車に乗り込んでいった。どうやら親が待っていたらしい。そっか。今から塾だったから、急いでたんだ。げっ、なのに俺待たせてたのか。……俺は別に受験に悩んでたわけじゃないけど。

 古森は間抜けな顔をして、オロナミンCを見つめて、そのまま頬に押し付けた。冷たさで赤くなっていた頬はすっかり火照ってしまっていた。


「え〜元也!意外!」

 意外!意外!と繰り返す姉に、古森は居心地悪そうに枕を抱いて、視線を逸らした。仕方ないじゃないか。トスッ、と知らない内に、射貫かれてしまったんだから。些細なやり取りなのは、古森が一番分かってる。俺だって、こんなことで名字さんにハマるとは思ってなかったし。

「だって、めっちゃベタじゃん。
 弱ってるところ優しくされて、惚れたってことでしょ?」
「……俺だって普通の人間だから!」
「そうだったんだ〜!へぇ?元也にも、こんな可愛い一面あったんだ〜!」
「ちょっと、頭撫で繰り回すのやめてよ」
 
 拗ねた口ぶりの弟に、姉は珍しくニカッと笑った。その笑顔に、古森はもう、と唇を尖らした。

「だいじょーぶ。元也はいい男だから、上手く行くよ」

 ほらね、やっぱり。姉ちゃんがその笑い方するときは、いつも俺を褒めるときだけだ。古森はくすぐったい気持ちを隠して、「……うん」と小さく頷いた。
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