縁のない話



 小さい頃から、大人になることが当たり前だと思っていた。その当たり前を心から拒絶したのはいつだったか。確か八月も毎日早起きしなければならないという事実を知ったときだ。そのときの絶望と言ったら……、今でも忘れられない。まあ、そんな絶望を乗り越えて、彼女は今日も働いている。同じ絶望を乗り越えた元同級生たちは思い思いに酒を飲んだり、食べたり色々だ。取り分けることも、飲み物がなくなりそうでも、何も気にしなくていい。楽だ。分け合うこともせず、食べたいものを取って食べる。本当に楽なメンバーだ。彼女はしみじみと思いながら、きゅうりの一本漬けを口に入れる。

「そう言えば、委員長結婚いつ?」
「結婚?何の話?」
「え、だって山田くんとそろそろやろ?」
「せやなぁ。名前とあんたんとこが一番長いもんなぁ」
「ええやん。学生カップル!」

 彼女は自分の名前を出されて、少しびっくりした。自分と同じように名前を出された彼女……委員長(当時のあだ名)は淡々とだし巻き卵に、大根おろしを乗せている。その様子に盛り上がっていた友達は口を閉じて、もしかして……と、委員長に視線を送った。委員長はビールジョッキを惚れ惚れする飲みっぷりでカラにし、静かにテーブルへ置いた。少し瞳が潤んでいる。

「……うん、別れたよ」
「うっそ」
「マジ?」
「聞いてくれるっ!?」
「聞く聞く!」
「すみません、ビール追加お願いします!」

 今日の飲み会はいつもと変わらず、近況報告、これからの未来へ漠然とした不安について話す予定だった。……が、急遽委員長の失恋話の会となってしまった。彼女は今まで培ってきた相槌スキルで、頷いて共感して、本気で驚いて、本気で悲しんだ。そして、心の中にひとつの不安が生まれてしまった。



 昔の友達と一緒にいると、昔に戻った錯覚に陥ってしまう。その所為だろうか。彼女は飲み過ぎてしまい、友達の肩に頭を預けていた。普段は自分よりも年下とも、年上とも接しているから、それなりにセーブができる。やっぱり、同じ時間を生きたからか。同級生は特別だ。彼女はぼーっとして、自然と瞼が落ちてくる。周りの雑音が遠ざかって、何も聞こえてなくなっていくはずだった。

「すまん。遅くなった」
「北〜!久しぶりやなぁ!相変わらずシュッ!としとるなぁ」
「あ〜主将〜叱って欲しい〜」
「……」
「ごめんな。北くんこの子たち飲み過ぎて」
「ええけど、帰りは大丈夫なん?俺車やから、送ってけるけど」
「ええよ、悪いし。私も車やし、この二人は任せて」
「なら、ええけど。……これは」
「ごめんね。つい……ほら、名前〜!」

 友達の肩に預けていた頭を彼女はゆっくりと元の位置に戻した。うん、分かってる、知ってる。「ほら、名前!北くん来たよ〜起きて〜」寝てない。ぐっでんぐっでんの彼女の様子に、北は眉を寄せる。仕方ないと座敷に上がって、彼女をおんぶして、居酒屋に後にした。もちろん、お代は置いて来た。帰りに、「お幸せにな〜!」と泣きながら見送られたことに、北は一人で首を傾げていた。



 彼女は緊張しなくなった助手席で、冷たい窓に頭を押し付けた。手の中には北が買ってくれたペットボトルがある。その水を飲んで気を紛らわすのも限界だ。「北くん」「うん?」「迎えに来てくれて、ありがとう」「ええよ。久しぶりやったし、たまにぐらいええやろ。羽目外しても」北はハンドルを握りながら、横目で彼女を見て気遣うように笑う。その笑顔に、彼女は胸がズキンと痛んだ。違う、私が凹んでいるのは飲み過ぎて北くんに迷惑をかけたことじゃなくって。北の優しさにもっと甘えたくなった。

「北くん、……今日委員長居たの。気付いてた?」
「あ、やっぱ委員長やったん?メガネやなかったから、一瞬分からんかったわ」
「うん、委員長だった」
「懐かしいなぁ。確かあれやんな、委員長って山田と付き合とった子やろ?」
「そう、付き合とった……」

 過去形。その言葉に、彼女の胸に不安が広がっていく。北はその二人の現在を知らない。ただ高校の頃の記憶を引っ張り出した結果、自然とその言葉になっただけだ。彼女も、北の伝えたい言葉のニュアンスには気付いているし、分かっている。それでも、今の彼女は動揺せずにいられなかった。だって、本当にあの二人は結婚まで行くんだと思っていたし、信じていた。第三者が口を挟む事ではないことはを承知の上で、彼女は本当にあの二人が別れると思っていなかった。ずっと二人で穏やかに幸せそうにしているのだと、何の根拠もなく信じて疑わなかった。

 そんな二人が別れた。彼女は心なしか痛む頭をおさえて、泣きそうになるのを必死に我慢していた。気分だけじゃない。心まで、高校生の頃に戻ってしまった。あの同級生の独特の空気と、お酒と、今でも隣に北がいてくれること。その三つが重なったのか、交わったのか分からない。この気持ちは、まだふたりが高校生の頃、北が知らない女の子に告白されていると友達に言われたときに似ている。北がどんなに魅力的て、素敵な人間かは分かっているし、知っている。けど、その魅力を知っているのは私だけじゃない。付き合っていても、北に飽きられるかもしれない。付き合っていても、自分以上に北の好みの子が見つかるかもしれない。初めて感じた不安を久しぶりに思い出した。

 大人になって、こんなにも衝動的に不安になることは今までなかったのに。

「名前?」
「委員長と山田別れたって……」
「そうなんか……残念やな。赤の他人の俺が言うのも変やけど」
「……私あのふたり結婚するって思ってたのに」
「うん」
「北くんは何とも思わない?」
「まあ、残念やなぁってくらいか?
 あくまでも、あのふたりの問題やから」
「そう、だよね……北くん、やっぱり、高校生の頃からずっと付き合うのって難しいのかな」
「うん、まあ、人それぞれやと思うけど、俺らには縁のない話やな」
「え?」
「俺と名前は結婚するつもり……あ」
「え」

 北はブレーキを緩やかに踏んで、振動もなく車が止まる。彼女は目を丸くしながら、前を確認するが丁度赤信号だったようだ。ほっとしつつも、彼女は北の方へ視線を戻す。珍しく丸い耳を赤くして、信号を見つめていた北も彼女へと視線を向ける。

「北くん、あの、さっきの」
「はは。プロポーズ前に言ってもうたわ。名前と一緒になる気有り過ぎやな、俺」
「……」

 北は眉を下げて照れくさそうに笑う。彼女は両手で顔を隠して、泣いてしまった。笑いたくて、泣きたくて。ああ、もう、北くんって、ほんとに、最高。北くんは本当に昔から、いつも私を掬い上げるのが上手いんだ。私が一人で自滅して、ネガティブになって、勝手に掘り進んで行っても、どこ行くんって、こっちやでって。北は彼女の反応が気になって、そっと彼女の片手を外す。彼女は北の手をぎゅうと握って、北にねだった。北は一瞬迷ったが、潤んだ瞳に負けて、短いキスをした。

「北くん、好き。北くんとずっと一緒にいる」
「ありがとう。
 でもな、名前運転中は手放してくれへん?」
「今日だけ」
「あかん。あとで、いっぱい手繋いだるから」
「……うん」

 北らしい回答に、彼女は笑って頷いた。



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