なまえ

「なんか前より、楽しそうだねえ」

 最近、彼女が穏やかな笑顔で友達に言われた言葉だった。彼女はぎゅうぎゅう詰めの満員電車の中で、その言葉を思い出していた。今まさに、その楽しそうの、真っ最中なのだ。通学用のリュックを胸に抱いて、背中は壁にぴったりと預ける。そんな彼女を抱き締めるように立っている背の高い男の子の名前を彼女は知らなかった。眠たそうな彼が彼女の方へ前かがみになったりすると、その胸板に顔を埋めるような形になる。リュック一個分の距離はすぐになくなってしまう。彼からはよく柑橘系だろうか。そう言ったことが詳しくない彼女はよく分からなかったが、彼の匂いが嫌いではなかった。

 彼女は彼よりも、先に電車を降りる。いつも彼は彼女が降り損ねることがないように、背中を支えてそっと後ろから優しく押してくれる。彼女は降りて後ろへ振り返って、頭を下げた。その彼も、こくっと頷いていた。
言葉をなしに、ほぼ毎日繰り返されるこの出来事が彼女にとって細やかな楽しみだった。



 日常はいきなり変わってくる。そして、その変わったことさえ、また日常の一部になって気にならなくなっていく。彼女は背中を預けていた壁を見つめて、リュックを強く抱きしめた。今日で四日目だ。あの背の高く眠たそうな男の子と会わなくなって、もう四日だ。今までも日にちが空くことはあった。互いに時間のサイクルは違う。学校も違う。少しのズレは大きくなって、現れる。名前も知らない。ただ高校生になったばかりの頃に、恩がある人。それだけ、だった。電車を降りるときに、妙に背中が寒かった。振り返っても、誰もいない。

 もしかして、不幸な事故とかで……?彼女はふと思いついたことに、ぞわっと鳥肌が立って、小さく首を横に振る。会えなくてもいい。どうかご無事で。そんなことを思う自分にいつの時代だとツッコミながらも、やはり彼女は元気でいますようにと祈ってしまっていた。


 彼女はため息をついた。彼女が彼と会わなくなって、最高記録が更新されたのだ。五日目だ。彼の乗ってくる駅になると、彼女は無意識のうちに探してしまう。今日もいないだろうけど。不安と期待がぐちゃぐちゃと混じって、寂しいと思う気持ちが大きくなっていく。無理やり視線を戻そうとしたとき、彼女は目を大きくして凝視してしまった。彼女の視線に気づいた男の子がこちらを向くが、彼女はなるべく自然に視線を逸らして、スマホをいじるフリをした。

 背の高さ、目付き、鼻、口……、制服もすべて同じで、そっくりだった。敢えて言うなら、雰囲気が違う気がする。どくどくと、心臓の音が早くなる。

「侑やん。珍しい」
「課題やってへんから」
「あー学校でやる感じか」
「それに今、あんまり家に居りたないねん」
「なんで?……あ、治インフルやったっけ?」

 宮侑は凝視してきた他校の女子から視線を逸らすと、たまたま居合わせたクラスメイトと喋り始める。同じ家に住む家族、よりにもよって双子の治は季節外れのインフルエンザにかかってしまった。しかも、中々熱が下がらないと、家は看病で大忙しだった。クラスメイトの言葉に眉を顰めると、ぽんぽんと背中を叩かれる。

「でも変な感じやなぁ」
「?」
「治とたまに、この時間帯会うことはあっても侑とは中々ないやん。双子でそろって登校せへんの?」
「あんま朝得意やないもん」
「知っとる」

 彼女は駄目だと思いながらも、つい宮侑たちの話に聞き耳を立っててしまっていた。彼女の腕の中の、リュックが潰れる。良かった。生きてた。彼女は自分の目頭が熱くなるのが、分かる。唇を噛み締めて、ゆっくりと息を吐いた。そうか、インフルか。それならば、こんなに休んでしまうのも納得だ。おさむ、くん。彼女はひっそりと、その名前を心の中で呼んでみた。おさむくんは双子で、もう一人の男の子があの人。彼女はそーっと、そーっと、侑を盗み見た。やっぱり、似ている。おさむくんと、あつむくん。

 彼女は治の無事が分かったこと、名前を知れたことの安堵と嬉しさで、電車を降りるときの足も軽かった。その軽い足取りのままで、教室に行けば以前「楽しそう」と言った友達が首を傾げる。

「いいことあった?」
「え」
「ここ一週間元気なかった気がして」
「え、えっと、実は」

 気になっている男の子の名前が分かった、と言おうとして彼女は口を閉じた。待て、勝手に見ず知らずのヤツに自分のキョウダイのこととか、名前とか……把握しているって怖くないだろうか。目の前で不思議そうにしている友達に打ち明けて引かれたら、どうしよう。彼女はへらり、と笑って誤魔化した。

「食べ過ぎた体重がやっと元に戻ったの」
「そうなの?何食べたの?」
「えっと、お菓子」
「あ〜最近限定もの多いもんねえ」
「うん」

 来週はおさむくんに会えるだろうか。彼女は友達の話に頷きながら、週末の休みの二日間が初めて憂鬱になっていた。



 宮治はいつも乗っている電車が来る二本前から駅のホームに立っていた。今日も、あの子はいるだろうか。リュックちゃん。いつもリュックを胸に抱き締めている姿が印象的なので、勝手に治が彼女に付けたあだ名だった。治は電光掲示板を眺めながら、物思いに耽る。懐かしい。もう、あれから一年近く経っただろうか。

 高校に入ってから治は電車通学になった。その日は中々起きない侑に痺れを切らして、いつもより早い電車に乗った。そんなに変わらないかもしれないが、いつもの時間帯に乗る電車よりも、空いている気がした。次からはこの電車にしようかと思いながら電車に揺らていたとき、鼻をすする音が聞こえた。風邪とか、花粉とかではない。泣きそうになるのを懸命に我慢しているような、そんな感じ。試合に負けて泣きたくなくて、我慢している自分を思い出した。きょろきょろとその音を探すと、新しい制服に身を包んでリュックを潰すようにして抱き締めている一人の女の子を見つけた。その女の子の周辺には数人のサラリーマンがいることに、治は眉を顰めた。

 位置的にアイツか。治は伸び始めた身長を活かして、迷惑そうな乗客たちを無視して、その女の子の元へ急いだ。ぐい、っと素知らぬ顔で中年のサラリーマンの男性を治は押し退けて、彼女を腕の中に閉じ込めるように壁側へ移動した。彼女はぽかん、として真っ赤な目と鼻を隠さないまま、治を見上げる。

「何やねん、お前」
「なにって。自分の彼女が苦しそうにしとったから、駆け付けただけですけど」

 彼女を泣かしていた原因だろう中年男性の言葉に、治はさらっと言い放った。ぎろり、と高校一年生の身長平均を優に超える高さから、その男性を見下ろせば男性は口を噤む。その男性は面白くなかったのか、治と彼女を何処か疑うような目でじろじろと見てきた。

 治はトドメを刺すように、彼女の事を軽く抱き寄せた。

「だから、心配や言うたやんか。高校からは別なんやから、明日から一緒に行こうな」
「う、ん」

 彼女は治の言葉に頷いて、甘えるように治の胸に顔を埋めて静かに泣き出した。治は彼女の震える肩を撫でて、もう一度噛み付いて来た中年男性を睨んだ。周りの何とも言えない乗客たちの視線に、その中年男性は逃げるように次の駅で降りて行く。そして、そのまま彼女の降りる駅について、彼女が戸惑いを隠せずに瞬きを繰り返した。

「あ、あり」
「じゃあ、またこの時間な」
「え、うん、ありがとうございます」
「行ってらっしゃい」
「い、行ってきます?」

 彼女は治に優しく背中を押されて、電車を降りた。振り返って彼女が頭を下げると、治は気にするなと手を振った。


 そんな奇妙な出会いから、彼女は相変わらずこの時間帯になるといつもいる。あのとき治の口から出た言葉は、その場の勢いだったことは間違いない。二日三日様子を見たら、元の時間帯に戻すつもりだった。何故か彼女は妙に治の腕の中にフィットするものだから、治も彼女が腕の中に居ないと落ち着かなくなっていった。とは言え、治は彼女と今の関係から踏み出そうとも思えなかった。希望はあるが、慣れない高校生活、目の前のバレーのことを考えたら、今ぐらいの関係で丁度いい気もしてきた。それに、いつかいつかと後回しにしていたら、いつの間にか一年近く経ってしまった。

 あ、おった。いつも最後の車両の隅で、リュックを抱えてまだ比較的に空いている電車内を見るように壁に凭れ掛かっている。彼女の視線が治の視線とぶつかって、彼女は目を大きくしたあと、ほっとしたように少し口元緩ませた。その誰にも気付かない笑みに治は眠たそう目を少しだけ、開く。彼女は気恥ずかしそうに視線を逸らすので、治は当たり前のように彼女の前に立った。扉が閉まる。この次、次々の駅のから人が増えて行く。その間、二人は会話を交わすことなく電車に揺られていた。

 彼女は久々の治と会えたことが嬉しくて、顔がにやけそうだった。嬉しい気持ちと、具合はどうだろうという心配の気持ちが半々だった。治の方を見上げようとしたら、ばちっと目が合ってしまう。今日はいつもよりも、目が合う。今まではこの関係を変えること自体が怖くて、何も言わなかった。しかし、彼女は今回治がインフルエンザで一週間居なかったことで、この関係の脆さを改めて実感した。何もしないままでも、あんなに気にしてしまうなら、いっその事はっきりさせた方が後々楽かもしれない。

 彼女はそっと治を見上げる。やっぱり、治は彼女の視線に反応して彼女を見下ろした。いや、楽とかじゃなくて、私が無理なんだ。この関係では、いやになったから、はっきりさせたい。

「あ、あの」
「なに」

 彼女の勇気を出した言葉への反応は意外と早かった。

「ぐ、具合は大丈夫ですか?」
「……」
「金曜日に、そっくりな人が電車に乗って来て、盗み聞きするつもりは、なかったんです、けど」
「侑か。
 侑は声でかいから、気にせんでええよ」

 あつむ。目の前の男の子の口から、あつむと聞こえた彼女は確信をもった。あ、やっぱり、この男の子はおさむ、くんなんだ。

「身体はもうええけど。そっちは?」
「え?」
「一週間。丸々、俺おらんかったけど、変なことされとらん?」
「さ、されてないです、だいじょうぶです」

 彼女がそう答えれば、治はそうかと少しだけ目尻を下げる。その仕草に彼女は少し、泣きそうになった。心配してくれたのだろうか。会っていなくても、ほんの少しだけでも、私と同じように私のことを考えてくれたのかな。彼女はほんのり、と頬を赤くして、必死で言葉を探した。その中で、ぽろっと零れてしまった。

「おさむくんは」
「え」
「あ」

 しまった。彼女は自分の口をリュックで隠して、顔を俯かせた。治本人の口から、名前を聞くまで呼ばないようにしようとしていたのに。いきなり名前で呼ばれたら、気持ち悪いと思われるかもしれない。いや、自分とそっくりというだけで、聞き耳を立てて確かめようとすることも気持ち悪いかもしれない。それでも、この男の子は優しいから付き合ってくれたのかもしれない。おさむくんは最初からずっと優しかった。

「俺の名前知っとるんや」

 治の静かな声に彼女は頷いた。そして、次に言われた言葉に彼女はもう二度と顔を上げれなくなった。

「潮時やな」

 あ。気持ち悪いと思われた。それに一週間何もなかったし、もう私を庇う理由も何もない。おさむくんは最後まで、優しい。


 そこから、二人は何も話さなかった。彼女は自分の降りる駅について、何も変わらず治に優しく背中を押されて降りた。今日で、最後だ。でも、もう振り向く勇気はない。そのまま彼女が歩こうとしたら、急に首元が締め付けられた。カエルが潰れたような声を上げて、何事だと彼女は後ろへ振り返る。そこには居るはずのない、治が立っていた。どうやら治に襟を引っ張られたらしい。

「何やねん自分」
「え」
「急に喋らんくなるし、無視するし、俺の方見んし」
「だ、だって、潮時って」

 彼女は治の行動こそ、意味が分からないと眉を下げる。治は一旦間を開けてから、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。タップを終えると、彼女にスマホの画面を見せる。

「ここの、二番目呼んでくれへん?」
「え?」
「ええから」

 彼女は戸惑いながらも、治の言う通りに画面をじっと見つめて口を開いた。

「物事を始めたり終えたりするのに……、てきとうな、じき……、こうき?こうき」

 彼女は自分の読んでいる意味が理解できずに、スマホの画面と治の顔を見比べる。忙しない彼女の様子に、治はおかしそうに笑ってスマホをポケットへしまう。

「俺の名前知っとるんやろ?呼んでみて」
「え、でも」
「知らへんの?教えたろうか。俺宮治って言うねん」
「みや、おさむ」
「名前知ったら、付けたなるやん」
「?」

 治がブレザーのポケットに手を突っ込んで、どこか照れくさそうに視線を逸らした。彼女が首を傾げると、治は未だにリュックを抱き締めている、彼女の小さな手に遠慮がちに触れる。

「俺らの、関係に名前付けたなるやん」
「あ」
「キミの名前も知りたいんやけど?」

 俺はこの関係はもう終えてもいいと思う。
そろそろ名前がつく関係を始めても、いいと思うんやけど、彼女はどうやろうか。

「わ、私の名前は名字名前です」
「うん、名字名前さんな。覚えた」

 彼女は嬉しそうに笑う治の笑顔にどきどきしながら、自然と治の手を握り返していた。



- ナノ -