愛妻家の朝食

 夢を見る。何度でも、いつまでも。



「雨……」

  家に帰る途中で、雨に降られた彼女は眉を下げる。駅から家まで、徒歩では割とかかる方だ。お散歩がてらに歩く分には、丁度いい距離感。でも、時間が迫っている場合は、ただただ遠いだけ。雨の中、そんな距離を徒歩で行くのはちょっと厳しい。コンビニで、傘を買ってしまおうか。彼女が迷っていると、ポケットに入っているスマホが振動する。

”今駅?迎えに行く!”
”傘持ってなかったよね?”

 思わぬ展開だ。でも、有難い。傘を持っていないこと。迎えに来て欲しいこと。その主旨を送って、彼女は改めて空を見上げる。本当に、終わったんだ。



 彼女は彼が迎えに来るルートを考えて、一番見つけやすい位置にいようと移動していた。もちろん、駅の屋根がある範囲内で。丁度、時間帯が夕暮れときだった。本来なら、まだ穏やかな夕日が差し込むはずだったろうに。どんより、とした雲のせいで、太陽は完全に見えなくなっている。目の前の、横断歩道を走る車も既にライトが点いていた。

「今度の会えるのはーーー」
「今度は俺が帰るからーーー」
「いつも来てもらってばかりでごめん」

 メッセージの履歴を指先でなぞる。世間話を交えながらも、その三つのセリフは定期的に繰り返されているものだった。でも、それも、もう終わった。もう聞かなくていい。その事実に、肩が軽くなる。不毛な妬みも、どうしようもない寂しさも、全てから解放される。幸せと同じくらい、いや、それ以上に辛かった日々。その日々にすら、愛おしさを感じる。

 不意に、涙が込み上げてくる。もう必要以上に身体に良いものを作らなきゃって、変な劣等感とも、向き合わなくて済む。彼女の視界で、チカチカと点滅する。彼女が顔を上げれば、信号が青になっていた。そして、夕暮れどきに、何度も聞いた音楽が流れる。通りゃんせだ。きっと誰でも聞いたことある。どこか不気味さを感じるメロディーに、彼女は何度も涙を流してきた。

 周りは家族や誰かと寄り添って、帰っていくのに。その中で、私はいつも一人だった。夕暮れどきに、このメロディーの組み合わせは一番最悪で、どうしようもない孤独感にいつも襲われて、耐え切れなかった。

 彼女の前を、きっと鮮やかな色をしている車が停車していた。ヘッドライトに、横断歩道が照らされる。白と黒が均等に並んで、まるで鍵盤のようだった。その先に、彼女は見つける。彼女の名前を呼ぶ、彼を。彼が横断歩道を渡ろうとする。

「って、ええ!?」
「翔陽くん、お迎えありがとう」
「え?ええ?ど、どういたしまして?え?なんで飛び出て来たの?」
「ふふ、翔陽くんが来て嬉しかったから」
「も、もーそんな可愛いこと言って。でも、危ないからね、次からはちゃんと待ってて」
「うん」

 日向は彼女を抱きとめて、彼女に傘を渡すが、彼女は受け取らない。そのまま日向の腕に体を寄せて、歩き始める。

「え、差さないの?」
「ささない。翔陽くんと一緒の傘がいい」
「どうしたの、今日甘えただ」

 くしゃり、と少年のように笑う。少年には似合わない目尻のシワに、彼女も同じようにシワを作る。大きな手が彼女の頭を惜しむように撫でて、穏やかな顔をして言う。

「じゃあ、帰りますか」
「うん……私、今が一番幸せ」
「今?」
「うん、翔陽くんがいてくれるから、それでいい」
「……も、もう、そんなこと言って!特別にパン屋さんに寄ってあげよう!」
「やったー。いっぱい買ってもいい?」
「いいけど、ちゃんと食べれる分だけだよ」
「食べれなかったら、朝ごはんにするからいいの」
「なるほど。その手があったか!」

 くだらない会話でも、日向は楽しそうに頬を緩ませる。眩しくない。遠くない。見上げなくて良い。彼女は傘をもつ日向の手に、自分の手を重ねた。もう、この手が眩しくなることはない。眩しくなることはないけど、それでも良い。だって、その代わりに、いや、代わりになんて、ならないだろうけど。

「あ、ごめん。傾いてた?」
「うん、ちょっとだけ」
「ありがとう。パンなに買う?」
「えー、どうしよう」

 日向は彼女が濡れないように、彼女の腰を抱き寄せた。道ゆく若い女の子たちが囁く。

「あの夫婦、仲良いね」
「ね。いいなぁ、私もあんな人と結婚したい」



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