まだ青春はおわらない



「これも美味しそうですね」
「え、どれですか?」
「これです!」

 とん、と膝に膝が当たる。横から、ふわっと香ってくる匂いは、嗅いだことのないものだった。制汗スプレーではないはず。恐らく香水だろうか。でも、香水ってこんな爽やかな匂いするのかな。そんなことばかり考えていて、全然メニューの内容が頭に入ってこなかった。



 家と会社を行ったり来たり。その往復の繰り返し。その間の道には、何も落ちていない。落ちる何かもない。ときどき、駅で寄り添っていたり、破廉恥にも口付けをしていたりする制服きた子たちに遭遇する。きらきらの、甘酸っぱい青い春。昔から自分には程遠い話で、恐らくこのまま二十代も終わっていくのだろうと想像できる。そんな今日この頃。

「お先に失礼します」
「お疲れ様ー」

 今日も無事に、定時に退社することが出来た。定時にPCの電源を落として、通勤用のバッグを肩にかける。ほぼ全員定時に退社する部署なので、数分の差が大切だった。帰りが被らないように、今日も私は二番目にフロアを出て、早歩きで駅へ向かう。最近買ったばかりのワイヤレスイヤホンを耳に付けようとしたとき、私を呼び止める声がした。

「え、久しぶり!どうして、こっちにいるの?」
「久しぶりー!ちょっと今日こっちで接待あるから、ついでに顔出し」
「そっかぁお疲れ様」

 会社のフロントで、声をかけてきたのは同期だった。同期と言っても、厳密に言うと会社は違う。同期は親会社で働いていて、私は親会社のグループ会社の一つで働いている。親会社は華やかで、社員数も多い。私が勤めてる子会社は、良く言って、こじんまりとしていて、過ごしやすい。

「ね、明日久々にお昼一緒に食べようよ」
「え?明日?」
「実は明日から研修もあるの」
「そうなの?いいよ、一緒に食べよう」

 同期とどこで食べようか喋っていると、同じ部署の先輩が帰っていく。あ、今日はいつもの電車乗れないかも。まあ、でもいいか。私は嬉しい予定外の出来事に、にこにことしていると、同期のことを元気に呼ぶ声が聞こえてきた。同期が振り返るのと合わせて、同期の後ろから覗き込むと、ニコニコしている好青年がひとり。

「あ、日向。お疲れー」
「お疲れさまです!あ、ごめんなさい。誰かとお話中でした?」
「だいじょうぶ。この子、私の同期なの」
「お、お疲れ様です」

 やけに爽やかな青年……日向さんは私を見つめると、その大きな瞳をさらに大きくした。ど、どうしよう。無愛想な挨拶しちゃった。だって、定時過ぎたら、誰だって体力切れになるでしょう。体力切れに加えて、人見知りも発揮してしまう。でも、日向さんはそんなこと気にしない素振りで、にこっと私にも笑いかけてくれた。思わず、私も、に、にこっと笑い返した。

「あのときの、お姉さん!」
「あ、あのとき?」
「あ、覚えてないですか?」


 
 目の前で、キョトンとしている綺麗な女性に、俺は下げそうになった口角を上げる。

「日向ドンマイ!誰だってミスはするから!」
「はい、ありがとうございます……」

 初めて仕事でポカをした日だった。面倒見の良い木兎さんは目に見えて、落ち込む俺の頭を撫でくりまわして、待ってろと去って行った。俺の好きなコーヒーを買ってきてやる、と親指を立てて。木兎さんの優しさが嬉しくて、自分が情けなくて、複雑な気持ち。大人になってから、こんなのばっかりだ。白黒付けられない気持ちにばかり、遭遇する。

 バレーは、試合は、もっとシンプルなのに。それに、バレーでチームメイトに迷惑をかけることと、仕事で同じ部署の人に迷惑をかけることは違う。はっきり、何が違うかは言えないけど。バレーだったら、自分で挽回できるけど。仕事はそうじゃない。俺みたいな下っ端ができることは分かりきってる。

 気付いたら、自分の背中が丸くなっていた。あ、これ、やばいヤツ。そう思ったとき、気遣うような声がした。

「あの、具合悪いですか?大丈夫ですか?」
「……え、いや、だいじょうぶです!」
「わあ」

 顔を上げると、大人の女性がいた。ちゃんとした格好して、ちゃんとした人だ。そんな印象をもつ女性は、俺の大きな声に少し目を見開いた。あ、驚かせちゃったかな。すみません、と謝ろうとして、彼女がくすり、と笑う。

「良かった。具合は悪くないみたいですね」
「紛らわしくてすみません……ちょっと仕事でミスっちゃって」
「あーなるほど。それは気分落ちちゃいますよね……そうだ。これ、良かったら」
「え、いいんですか?」
「はい……って言っても、私も頂いたものなんですけど、お腹いっぱいなので」
「あ、ありがとうございます!」
「ふふ、やっぱり元気ないときは甘いものだと思います。お疲れ様です」
「……お疲れ様です!」

 彼女はこっちがつられてしまうくらい、晴れ晴れと笑っていた。そのあまりに嬉しそうな顔に、俺は思わず見惚れた。だから、彼女がお疲れ様です、と頭を下げるタイミングに、ワンテンポ遅れてしまった。



「ってことがあって!あのときは、本当にありがとうございました!」

 日向さんの男性にしてはやや高めな声が、柔らかくフロントに響く。同期はそんなことあったんだ、と隣でニヤニヤと関心していた。気まずそうにしている私も、面白そうにしている同期も、気にしないで、日向さんはニコニコと嬉しそうに笑う。

「いや、そんな、大したことな」
「でも、俺にはとっては、大したことだったんです!ほら、あのとき貰ったお菓子です!」
「あ、このお菓子……」

 ゴソゴソ、と日向さんは財布から、すっかり草臥れたお菓子の包装を取り出した。丁寧に、綺麗に折り畳まれていた。右隣からの、同期の視線が痛い。そうなのだ。以前、私が日向さんにあげたお菓子は、甘いお菓子。確かに、甘いお菓子は美味しい。

 でも、何事も限度があると思う。日向さんにあげたお菓子は甘さが限界突破しているお菓子だった。つまり、私があまり得意としないお味をしていたのだ。つまり、つまり、私は丁度いいところにいた日向さんに、貰ったけど食べれないお菓子を、押し付けてしまったのである。

「あの!俺、このときのお礼をし」
「いや!本当に大したことないんで!気にしないでください!
 あ、もう電車の時間だから、行くね!お疲れ様でした!」
「あっ」

 私はまるで、アメリカのホームドラマの登場人物のように、大袈裟に腕時計を見るフリをする。駅へと急いで向かった。日向さんの名残惜しそうな声に、気付かないフリをして。



 昨日、失礼な態度をとったバチが当たったのだろうか。翌日、仕事中の電話に出たときのことだった。

「お疲れさまです!日向翔陽です!」
「えっ?」
「昨日挨拶した日向です!あ、覚えてないですか?」
「いや、覚えています」

  良かった、とホッとしている小さな呟きに、耳が熱くなる。まさかまさか!業務中には相応しくない思考が働き始めようとする。良くない良くない……って、どうして、そもそも日向さんから電話が?電話をもう一度見て、眉を寄せる。やっぱり、これ内線からかかって来てる。そうだ。私が所属している部署は、滅多に外線からかかってこないし。そもそも、電話を出るときに、ちゃんと外線か内線かは確認している。

「今日先輩とご飯行くんですよね!」
「え、はい、その予定です」
「俺もご一緒したいなーって思ったんですけど、俺研修終わったらすぐ帰らないといけなくて」
「は、はい?」

  どうしよう。話が見えてこない。話は見えてない来ないけど、なるほど。日向さんも研修で、こっちに来てるんだっけ。確かに、この番号は研修で使用されている部屋のものだ。

「だから、今度、俺と」
「日向さんと?」
「えっと……」
「?」

 難しいな。そんな呟きがまた聞こえてきた。困っている雰囲気に、もう一度日向さんを呼ぼうとして、爆弾発言をされた。 

「俺とデートしてくれますか?」

 オレトでーとシテクレマスカ?
え?今、日向さんなんて?聞き間違え?私の知らない言葉?英語?ブラジル語?
 
「えっ、ええっと、……そ、そう言った件は」
「やっぱり、直接顔見て言わないとダメですよね」
「い、いえ、で、電話で構いません」
「本当ですか!?俺とデートしてくれるってことですか?」
「は、はい、そのご意向で構いません」
「やったー!じゃあ、また連絡します!」
「え、あの、連絡って」
「失礼します!午後もお仕事頑張りましょうね!」
「は、はい……」

  受話器を置いて、ドッと疲労感に襲われる。社内の電話で、私用のやりとりをしてしまった。疲れた思考回路が、仕事とプライベートでごっちゃになる。日向さんからの連絡は何で来るんだ?私日向さんの連絡先知らないし、知る宛もないんだけど。そんなことを思いながら、キーボードを叩いてると、新着メールが一件。急ぎの仕事じゃないといいな、と思いながら、メールを開いて、私は椅子から滑り落ちそうになった。

===
件名:先ほどお電話の件について
ーーー課ーー様

お疲れ様です。
先ほどお電話させて頂いた日向翔陽です。
日程について……

===
 
 しゃ、社内メールで、連絡キタ。しかも、スクロールしないと見えないところに、日向さんのLINEのIDがひっそりと隠れていた。な、なるほど。その手があったか。名前さえ知っていれば、社内メールで連絡とれるのか。え、あれ、でも、私いつ自己紹介したっけ?同期に聞いたのかな?
 


「名前ですか?お菓子貰ったときに、社員証見て覚えました!」
「な、なるほど

 日向さんは私の疑問に、ニコッと笑って答えてくれた。その笑顔に毒気を抜かれる。昔親切にした小動物に、恩返しされてる気持ちだ。こ、これはデートなの?もはや、お礼のご飯と言うぐらいの、温度じゃないだろうか。ちらっと日向さんを盗み見みると、日向さんはすぐに気付いて、にこっと笑顔を見せてくれる。私はさっと視線をそらしたい衝動に耐えて、へらっと笑い返す。何度目だ、このやり取り。

「どれ食べたいですか?」
「えーっと、どうしよう」
「なんでもいいですよ!俺なんでも食べれるし、量もいっぱい食べれます!」
「え、いいですね。すごい」
「えへへ。あ、苦手なものとか、アレルギーありますか?」

 何でも食べることができるのは素晴らしいことだ。関心するように言えば、日向さんは照れ笑いをする。でも、すぐに表情を変えると、メニューを私の方に寄せてくれた。子どもっぽい様子から、心配している顔つきのギャップに意味もなく手をギュッと握る。エビとか、カニ大丈夫ですか?日向さんがメニューを指さして、私の顔を覗き込む。とん、膝同士が当たった。

「だ、だいじょうぶ、です……」
「良かった。あ、好きですか?」
「す、好きです」
「じゃあ、これおすすめです!美味しいですよ!」

 また日向さんが笑う。ぽかぽかと、優しく笑う。その笑顔の先には私がいて、私は反応に困ってしまう。どうすればいいか、分からない。曖昧に笑い返すことしか、できない。でも、それだけでも日向さんはとても嬉しそうにする。

 どうすればいいか、分からない。たださえ分からないのに、分からないことで思考回路がいっぱいになる。どうしてテーブルじゃなくて、カウンターの席なんですか?とか。どうして、私好みのお店チョイスなんですか?とか。どうして、そんなに嬉しそうに笑うんですか?とか。

「これお酒にも合って」
「あ、じゃあ、お酒飲もうかな」
「え」
「え?」
「エッ、いや、エット……」

 日向さんがしどろもどろになって、申し訳なさそうにする。お酒に合うとおすすめだと、言ったのは日向さんなのに。私が目を丸くしていると、日向さんは歯切れが悪い表情を押し込めて、じっと私を見つめる。

「お、お酒飲んでも、記憶無くさないタイプですか?」
「え、ええ?そこまで飲まないから、大丈夫ですよ?」
「あ、そ、そっか。そうですよね、そんなに飲まないですよね!すみません!えっと、じゃあ、俺も飲もうかな」

 へらり、と日向さんが笑う。誤魔化すように笑う。私も、へらりと笑う。どくどく、と早くなる脈を無視して。私が記憶無くしたら、困りますか?なんて言って、小首を傾げる。そんな自分を想像して、一瞬にしてモザイクがかかる。もしも……、の先に行く無邪気さも、計算高さも、何も持っていない。私はまた往復の道に戻っていくことしかできない。

「ちなみに、どのお酒が日向さんのおすす……」
「……」

 メニューの一番後ろ。確か、そこにお酒のページがあったはずだ。メニューを捲ろうとして、できなかった。思ったよりも大きい手がメニューを押さえていた。思わず日向さんの方へ振り向くと、日向さんが強い眼差しで私を見つめる。あ、さっきみた表情。

「ごめんなさい。やっぱり、お酒なしでお願いしてもいいですか?」
「え」
「今日ちゃんと聞いて欲しいことがあるから……だめ、ですか?」

 強くて、ドキッとする顔つきが一転する。日向さんは子犬のように、眉を下げて、私を伺うように見つめる。

「だ、だめ、じゃないです」

 モザイクが強制的に撤去されてしまう。数日の前に、自分に教えてあげたい。私の青い春は、まだ終わってないかもよ、と。
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