アンハッピーバレンタイン

>木葉秋紀<

 二月十五日。恋愛成就のために一歩踏み出した者、もはや恋愛成就した者の目の輝きがキラッキラッと眩しかった。え、昨日より距離近くない?え、名前呼びになってない?耳を澄ませたり、視界の端にチラホラ映る昨日とは違う光景に、彼女はどんよりと暗い影を背負った。

 彼女は昨日厄日だった。いや、本当は自分のドジが招いたことだった。厄日として満点なスタートダッシュを飾った。そう、まず寝坊をして、とにかく学校に遅刻しないことで精一杯。ぐちゃぐちゃの髪はそのままにそれ以外の清潔感だけ保って、学校までダッシュ。学校に到着して、彼女は落ち込んだ。そうだ。今年は自由登校だから、わざわざと急がなくても、ゆっくり来たら良かった。彼女はチラホラとしかいない教室を見て、膝から崩れ落ちた。なんなら、彼女の本命はまだ来ていなかった。

「木葉ーお返しよろしく」
「せめて、いつもありがとうとか言ってくれよ」
「いつもありがとー」
「棒読みの感謝の言葉アリガトネ」

 昼休み近くになると、クラスメイトがぞろぞろと顔を出してきた。まだ受験が終わっていないクラスメイトも、もちろんいる。でも、今日はバレンタインデー。普段は受験でピリピリしているメンバーも、息抜きを兼ねているようで、みんな盛り上がっていた。彼女の机には友達からの、チョコで溢れていた。彼女は顔を両手で、覆っていた。

「ごめん、マジでごめん」
「もー大袈裟だって」
「そうだよー来月みんなでホワイトデー遊ぼ?そんときお返ししてよ」

 彼女は見事にチョコを家に置き忘れてきた。彼女の友人たちは彼女の肩をぽんぽんと叩いて、励ましてくれた。ともだち、やさしい。すき。でも、彼女が落ち込んでいる理由はそれだけではなかった。友達のチョコはもちろん、本命へのチョコも忘れてきた。何もできない。太刀打ちできるものがない。今彼女の手元にあるものは、眠気覚ましのミントガムだけだった。


 彼女のバレンタインはせめて何もできずに終わりたかった。彼女は背伸びをして、ギリギリ届く下駄箱から、ローファーを取り出そうとしていた。そのとき、昇降口で「また義理かよ」とチームメイトと笑っている彼を見つけた。その彼の言葉に、様子に、彼女は心底安堵を覚えた。……が、次の瞬間、見事に急行落下を喰らった。

「木葉さ、ソレ」
「ん?」
「箱の後ろなんか付いてね?」
「あ、メッセージカード……」

 木葉はその場でメッセージカードを開く。そして、たちまち木葉の顔が真っ赤になった。木葉はからかわれる気配を察知して、大股で歩き出した。コートのポケットにそぉっとメッセージカードをしまいながら。木葉お前と大きな盛り上がる声。うるせーと照れている声。彼女の頭に、べちっとローファーが落ちてきた。



「……」

 木葉秋紀はとても人が良い。だから、トイレに行こうとした途中で、階段で蹲っている生徒を見つけたら放って置けるわけがない。しかも、女子なら尚更だった。カーディガンの色や、髪型の雰囲気から、クラスメイトの彼女だと気づいた。呼びかけると、彼女がビクッと顔を上げる。そろそろと上げられた顔は、可哀想なくらい目元を真っ赤にして、泣いていた。木葉は文字通りギョッとして、彼女の前にしゃがみ込んだ。

 彼女はまたビクッとしながら、ずずっと鼻を啜った。あ、泣き顔とか、あんまり見られなくないよな。木葉は少し後ろに下がって、彼女に声をかける。

「気分悪い?保健室の先生呼んでこようか?」
「……」

 ふるふる、と彼女は静かに首を横にふる。彼女の目から、ぽろぽろとさらに涙が溢れて、彼女はカーディガンの袖で拭う。カーディガンの袖は色が、変わるほどぐっしょりと濡れていた。

「体調が悪い訳じゃない……のかな?ひとりの方が落ち着く?」

 いつもよりずっと柔らかい木葉の口調に、彼女の心は決壊した。そんなことを知るはずもない木葉は困った、と自身の髪を、くしゃりと混ぜる。彼女は身体を震わせて、泣くばかりだった。木葉はうーんと考えて、ブレザーを脱いだ。

「嫌だったら、そこ置いておいていいから」
「……ぇ」
「ちょっと待ってて!」

 木葉は階段を駆け降りていく。彼女は肩に掛けられたブレザーに目を丸くして、遠くなっていく木葉を背中を見送ることしか出来なかった。



「そっかぁ、好きな人に渡せなかったんだ」
「……うん」
「それは泣きたくもなるよなぁ」

 彼女の腕の中には、隣で話を聞いてくれている男の子に渡せなかったチョコレート。そして、彼女の両手の中には、隣の男の子から貰ったココア。コーヒーとココアどっちがいい?と息を上げて、木葉は戻ってきた。彼女はまた泣いてしまった。どっちも苦手!?と謝る木葉の優しさが大好きで、苦しかった。ブレザーを返そうとしても、身体冷やしちゃダメだよって。顔色悪いよって。どこまでも優しくて、いつもとは違う、男の子に向けない口調に、彼女はありがとう、と口にすることしか出来なかった。

「もう、自分で食べちゃおうって思ったんだけど……それも、なんか虚しくて」
「……そっか」
「ごめんね、こんな話」
「いや、ぜんぜん!俺はだいじょうぶだけど」
「もう捨てちゃおうかな、勿体無いけど」

 つい自虐気味に笑ってしまう彼女に、木葉は眉を下げる。

「……あのさ」
「うん?」

 彼女が少し落ち着いた顔で、首を傾げる。でも、まだ目元も、鼻も真っ赤だった。木葉はそんな彼女を見つめて、素直にすごいなぁと思った。木葉は自覚がある。他人からの好意に弱くて、惚れっぽいことを。だから、こんなに他人を好きになる彼女はすごいなぁと思う。他人に心を寄せることは、想像よりずっとエネルギーを使って、しんどいことだ。

「そのチョコ、俺が食べてもいい?」
「えっ!」
「チョコに罪はないし、俺甘いもん好きだし、実はこのコーヒー今日初めて買ったんだけど、予想より苦くて、甘いものほしいなって思って」

 あることないこと、でも嘘ではないこと。そんなことをぺらぺら喋る木葉に、彼女はキョトン、と瞬きを繰り返す。やべ、滑った。木葉の顔がさぁーと青くなる。彼女はココアを階段に置くと、ぎゅう、とずっと腕に抱いていた紙袋に触れる。ぎゅう、と思い切るように目を瞑って、木葉に震える手で渡してきた。木葉はその姿に、きりきりと胸を痛めながら、彼女のチョコレートを受け取った。こんな形で彼女の思いを終わらせていいのか、は分からなかった。でも、どっち付かずで、ここで座り込んでいるよりはマシだと思った。

「ありがとう……開けていい?」
「う、うん……」
「……うわ!これ、もしかして手作り?」
「うん……重いよね」
「うーん、人によると思うけど、俺は嬉しいかなぁ。
 すごい、美味そう!いただきますー!」

 彼女は妙に明るい木葉の声色を、にこにこと笑う木葉の横顔を、見つめて、自分に問いかける。本当にいいの?今目の前の木葉はただの優しさで、ただの優しい男の子として、彼女のチョコレートを、気持ちを、受け入れようとしている。本当に、それで、いいの?高校最後にちゃんとするって、決めたんじゃないの?木葉の大きく開いた口が、チョコレートに触れる寸前に、彼女は木葉の腕を掴んでいた。

「え」
「だめ」
「……あ、やっぱり、す」
「木葉くんなの」
「え?」
「木葉くんに渡したかったの、昨日」

 ぽかん、と口を開いた木葉が彼女を見下ろす。木葉の目がまん丸になっていた。かなり間抜けな絵面だった。だが、木葉のことが大好きな彼女には関係がない。どんな木葉も可愛くて、かっこ良くて、大好きなのだ。彼女の瞳がまた濡れて、木葉を一心に見つめる。

「木葉くんのことが好き、本命です、チョコ受け取ってほしいです」
「あ、えっと」
「……」

 チョコレートを摘んでいた木葉の手を、震えて、冷たい小さな両手が包み込む。べしょべしょに濡れた袖が冷たかった。

「……ごめん、俺……そういう意味で意識したことなくて」
「……う、ううん、きいてく……え」
「ん、うまい」
「こ、このはくん?」

 ぺろり、とチョコレートと食べる木葉に、彼女は困惑した様子を隠せなかった。木葉は彼女に握られていない手で、真っ赤になっているだろう顔を隠した。

「い、意識してないってのは今までの話で、……えっと、その、考えさせてもらっても、イイデスカ?」
「!」



「ご、ごめん、ホワイトデーちょっと予定入っちゃって、お返し別の日でもいいかな?」
「わーん、友情が恋愛に負けた」
「裏切り者ー!」
「ごめんてばっ!」

 後日、楽しそうに笑っている彼女の姿があったとか。



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