ほし



 彼女はお風呂上がりにチューハイをちびちび飲みながら、物思いにふけいていた。人間は矛盾する生き物だよなぁ。名前を付けて欲しいものもあれば、名前を付けたくないものもある。例えば、彼女が高校生の頃、同級生の同性に抱いた彼女の感情や感覚にはちゃんと名前があった。あの頃の彼女には全然分からなかったけれど。そうだ。あの頃の彼女はそんな自分の感情よりも、もっと名前を付けたいものがあったのだ。



 今でも夏の匂いを感じると、思い出す少し胸が痛い思い出。高校二年生の夏だった。放課後の教室に残ったクラスメイトたちは盛り上がっていた。「今年どうする?」「何色?」「髪型どうしよう」クラスメイトたちの横顔はきらきらと輝いていた。彼女はやっと待っていた友達から進路相談が終わった!という連絡が来て、席を経つ。尽きることのない会話に尻目にして、教室を後にした。

 バカみたい。そこまでは流石に思っていない。ただ楽しそうだなぁと思った。自分を着飾ることに素直で、楽しそうな彼女たちに。自分とは違う世界の住人。痛い目に合ったことがないのだろう。装飾することでどんな目に遭うかを知らない幸運な子たち。もしくは、装飾することを楽しめることができる人。一部の人。

 彼女は究極の言い方をすると、楽しそうにしている女の子の姿が苦手だった。何より、自分もそう見られることが、一番苦手だった。彼女たちは純粋になにかをしてるだけだ。ただ好きという気持ちで、楽しんでいるだけなのに。何かと○○女子とつけて囃してる世間も、その世間を受け入れている女の子たちも、苦手だった。自分は違う、そんな風に見られたくない。そんな感情が、幼い彼女の心に重くのし掛かった。

「夏祭り?」
「うん!白馬くんたちと盛り上がってさ、名前も一緒に行こうよ」
「……そうだね、行こうかな」
「ねえねえ、浴衣着ちゃう?」

 友達がちょっとニヤッと笑う。友達は彼女の片想い事情を知っていた。彼女はまさか、と目を見開く。友達はVサインをして、ドヤ顔をする。

「星海くんと昼神くんも来るよ!」
「うそ」
「ねえ、浴衣!どうする?」
「えー……」



「やっぱ人多いー!あ!白馬くん!」

 友達は彼女の腕を引っ張って、人混みから二つ分ほど頭が飛び出ている白馬を見つけて、駆け寄っていく。フレンドリーな友達は「白馬くん居て助かるね!」と、白馬の腕をぽんぽんと叩いた。白馬は「お前らはこういうときばっかり」と、目を釣り上げた。白馬の後ろには、チームメイトの昼神と、星海もいた。三人とも部活帰りらしく、ジャージだった。彼女がまごまごしていると、星海がきょろり、と大きな瞳を彼女に向ける。ふたりはクラスメイトだった。

「ぶ、部活お疲れ様」
「おー、サンキュー!」
「ひ、昼神くんも」
「うん、ありがとう名字さん」

 大好きで、眩い星海の笑みに、彼女は頬が引き攣りそうになる。なんとか平静を装うが、去年同じクラスだった昼神の視線が怖かった。何故か分からない。星海くんと喋れた!小さな達成感に彼女が浸っていると、あー!と高い声が聞こえてきた。彼女が顔を上げると、色鮮やかな光景に、目を丸くした。

「芽生たちも来てたの?」
「ねえ、折角だし、一緒に回ろうよ」

 彼女は自分の勇気がちっぽけなものに思えてきた。彼女の友達と、白馬たちは、そうだなぁと頷く。彼女だけ、置いてきぼりだった。



「花火やばかったね!」
「ねえ、この写真いいな、ちょーだい」
「うん、いいよ。あ、芽生、この子に写真送ってあげて」
「え」
「駅までめっちゃ時間かかりそう」

 夏祭りはあっと言う間に、終わりかけていた。賑やかな会話の中で、色んな思いがひしめき合っていた。彼女は自分の肩に鼻を寄せて、火薬の煙の匂いしないことに眉を寄せる。星海は彼女の友達と喋っていた。彼女は友達のことが大好きで、友達がいる夏祭りが嫌いだと思った。どうせ星海の隣にいても、友達のように楽しく喋れないくせに。

「最後の花火すごい大きかったよね、ね名前」
「う、うん!すごい綺麗だった!」
「名字、花火の音にすっげぇビックリしてたよな」

 星海が彼女に向かって話す。驚いている彼女を思い出しているのか、星海はおかしそうに目を細めていた。その笑顔に、彼女の胸は悲鳴を上げる。今夜はもっとその笑顔が見たかった。もっと近くで……と思ったときに、彼女は人混みに押される。やばい、転ぶ。彼女は目を閉じかけた。

「あっぶなーだいじょうぶ?」
「だいじょうぶ、ありがとう」
「ホント人多いよな、今年」

 友達が彼女の腕を掴んでくれたようだった。彼女はまた頬が引き攣りそうになった。星海も、手を伸ばしていたのだ。彼女のために、反射的に。彼女は友達の手のひらの熱に、嫌いだと思った。夏はきらいだ。彼女は姿勢を正して、自分の腕に触れる。じわ、と汗ばんでいた。

「電車絶対混んでるよね」
「ちょっとロータリーで時間潰す?」
「私喉乾いたかも」



「お、名字も三ツ矢サイダー?」
「うん」
「しかも、梅味じゃん。俺もソレ好き」
「お、美味しいよね」
「うん、うまい」

 彼女は駅近くのコンビニの駐車場の隅っこで、友達たちを待っていた。星海は彼女と同じように即決してきたようだった。星海は彼女の隣に並んで、彼女と同じサイダーに口をつける。ふたりきり、だった。今日初めての。駅近くのコンビニはまだ人が多かった。駅前だから、暗い夜でも明るかった。彼女は冷たいペットボトルを両手で握り締めて、二回頷く。

 星海くん、私ね……

「うおっ、名字どうした?」

 彼女が勢いよく顔を上げるものだから、星海は軽く顎を引いた。少し驚いたらしい。普段から大きな目がさらに大きくなる。

 まだ帰りたくない。まだ話したい。今日言いたいことがあるの。私今日星海くんとだけの、思い出が欲しい。星海くんとの、関係に名前が欲しい。クライスメイトって、名前じゃない名前が欲しい。

 言いたいことは山ほどあった。でも、彼女は星海の真っ直ぐな瞳に、胸の中の欲求を言い淀んでしまう。本当に言っていいの?言う資格あるの?星海くんを困らせるかもしんないよ?明日も、部活って言ってたよ?

 星海の首筋に、汗が流れた。真夏の夜だから、当然暑かった。でも、目の前で、泣きそうな顔をして、目尻を赤くしてる彼女は暑さの所為なんだろうか。なかなか口を開けない彼女が心配になって、星海が彼女の名前を呼ぶ。優しく呼んだつもりだった。彼女はビクッと怯えるように、手に持っているサイダーを胸に引き寄せる。

「なんでもない。今日星海くんと夏祭り来れて楽しかったなって思って」

 下手っぴな笑顔だった。うそつき。きらい。世界で一番自分がきらい。せっかく星海くんが気にかけてくれたのに。なんでもないって笑う自分がきらい。真面目な自分もきらい。ぜんぶ、きらい。

「……名字さ」
「ねえ!芽生今からからげ棒食べようしたんだけど!」
「しょうがねぇだろ!腹減ったんだよ!」



「じゃあ、ばいばいー」
「ばいばい」

 電車で帰る組と、親が迎えに来てくれる組に、別れていた。ロータリーで、少しずつ人数が減っていく。彼女は友達と、星海と、昼神の四人で残っていた。そして、昼神と星海は一緒に帰るらしい。星海の母は星海とよく似ていた。

「私も一緒に待とうか?名前ひとりで大丈夫?」
「大丈夫。もうすぐ来るって連絡あったし」
「そう?じゃあ、またね!」
「うん、また」

 ついに、彼女は一人になってしまった。いや、ひとりになりたかった。彼女はしゃがみ込むと、両膝に顔を押し付けた。

 もう、いや。ずっと俯いていたら、気分が悪くなってきた。見上げた空にはたくさんの星があった。その煌めきに、彼女は星海の瞳を思い出して、泣きそうになる。もう、我慢出来なかった。彼女の目から涙が溢れて、彼女の服を濡らしていく。

 星空じゃなくて、星海くんの瞳もっと見たかった。見つめ合いたかった。彼女が星海だけを見ているように、星海にも、自分だけを見て欲しかった。勇気が足りなかった。初めて勇気を出して香水をつけても、自分から声をかけても、前髪をいつもより巻いても、何も変わらない。汗をかくと思って対策をしても、結局意味はなかった。汗で崩れてしまうと思ったスプレーをかけた前髪もくしゃり、と崩れていた。

 彼女は自分が浴衣を着なかった理由を思い出して、まぶたに刺さる固い前髪の痛みに、余計に涙が溢れてきた。夏祭りの夜、特別な夜だったのに。待ち合わせ場所に行くまでは浮かれていたのに。そのまま今夜も浮かれたかった。たぶん、可能性が少ないと分かっていても、期待していた。

 いつもと少しだけ違う自分を見て欲しかった。気付いて欲しかった。誰でもない、星海に。どうしたら、あの煌めく瞳に見てもらえるんだろう。どうすれば、あの子たちみたいに、輝けるんだろう。

「今日告白しようって思ってたのに……」



「なつかしー」

 ちりちり、とした胸の痛みはもうしばらく味わっていない。

 彼女は高校を卒業して、色んな世代と接するようになってから、知る。あの頃の自分の感情は、女性見下し嫌悪……いわゆるミソジニーというらしい。ああ、私は彼女たちが嫌だったんじゃなくて、純粋に何かを楽しんでいる若い女の子をバカにする世間が嫌だったんだ。

 それに、きっと、ミソジニーに関係なく羨ましかった。自分は世間の目を気にしてしまうのに、好きなものを好きと、純粋に楽しんでいる彼女たちが羨ましかった。それは私も装飾をしたいということではなくて、他人の目を気にしない自分でいたかった。彼女たちの素直さが私にはない強さだった。だから、余計に羨ましかった。……でも、高校生の私が素直に羨ましかったって言えなかった気持ちも分かる。

「やっぱり、どんな女の子も可愛い服着たいよね!」
「オシャレしたいよね!」

 そんな簡単な一言で、自分の気持ちが片付けられてしまう気がしたから。誰にも言えなかった。大人になってから、知った。この葛藤も、嫌悪も、自分だけではなかったと。彼女はチューハイを傾けて、ゆるり、と笑いかける。高校生の自分に。

 もう大丈夫だよ。正直、まだ嫌なことはあるけれど、昔より生きやすいよ。



 星海がお風呂から上がると、彼女がお先に晩酌を楽しんでいた。

「名前どうした、ぼーっとして」
「うーん、ちょっと高校時代の自分と向き合ってた」
「ふーん。おもひでぽろぽろみたいだな」
「……確かに、そうかも」

 言い得て妙だと、彼女は星海の言葉に笑う。星海は頬を赤くして、どこか切ない顔をしている彼女の隣へ腰下ろす。すると、彼女は昼神の肩に頭を預けて、甘えてくる。そんな彼女の頭を撫でて、星海も、懐かしい記憶を引っ張り出した。彼女と関係を深めて、思い出話をする度に、彼女は「あの夜のことは本当に後悔してる!本当に胸が痛い!思い出!」と主張する。

「名前はさぁー、今夜だけ浮かれたかったってよく言うけど」
「だって、浮かれたかったんだよー十代の恋だもん、可愛いもんでしょ」

 彼女が拗ねると、星海が彼女を見つめる。彼女がずっと見て欲しかった瞳で。今になっても、その煌めきが揺らぐことはない。

「もう今夜だけじゃなくていいぞ」
「え?」

 彼女が目を丸くすると、星海はにぃと笑う。星海の母にそっくりな笑顔だった。

「名前は俺の隣で、ずっと浮かれてればいい」



イメージソング「今夜だけ浮かれたかった(つばきファクトリー)」



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