愛すべき君の言葉

  私の恋人は獣医だった。ある数字を聞いて、罪悪感を抱くようになった。透明なケースに入れられて、値段がついた命を”かわいい”と無邪気に言えなくなった。毎日どれだけの命が生まれて、どれだけの命が亡くなっているのか。そんなことを考えることが増えた。家に帰ると、犬は尻尾を振って、猫は顔だけ振り向いて、それぞれ好きなように迎えてくれる。いつも私より先にあることが少ない、靴がある。玄関に大きな靴が。急いで脱いだのだろうが。スニーカーは脱ぎ捨てられた後みたいだった。私はその靴を揃えて、「ただいまー」となるべく大きい声で言う。足元についていくる犬は少し興奮して、高い鳴き声が薄暗い廊下に響いた。

「ニャンコ先生も来ない?」

 ニャンコ先生こと猫らしい猫は、大きい靴に凭れ掛かるように寝そべっていた。耳だけ、ピクピクと動いていた。きっとそれが返事だろう。

「幸郎くん?いる?」

 リビングの扉を開けると、部屋は暗かった。扉越しに暗かったから、分かってたけど。私は壁に手を這わせて、手探りで電気をつける。まだ私はこの家の電気の場所を正確に把握していない。足元では変わらずに、くるくると犬が楽しそうに回っている。暗いと踏んじゃいそうで怖いなぁ。電気をつけると、ソファに倒れている人を見つける。無意識のうちに、口から小さな悲鳴がもれた。見慣れていても、やはり幸郎くんは大きい。幸郎くんは狭そうなソファに仰向けに寝転がって、腕で目元を隠していた。

「名前?」
「ただいま、幸郎くん」
「おかえり……ねえ、こっち来て」
「うん」

 ソファに近づくと、いきなり力強く引っ張られた。私の背にはソファが、私の胸には幸郎くんが。早技過ぎて、何が起きたのか分からなかった。ただ幸郎くんが何に苦しんでいるのか、少しだけ予想がついた。幸郎くんは私の胸に片耳を押し付けて、ぽつり、と呟いた。

「仕事が終わって帰ろうとしたら、病院の玄関に段ボールがあった」
「え……」
「段ボールの中から、小さい鳴き声がして……一生懸命鳴いてる声がして」

 段ボールの中には、子猫が五匹入っていたらしい。片目がない子や助かるか分からない子がいて、その対応していて早番の予定だったけど遅くなったそうだ。幸郎くんは私にきつく抱き着くと、顔を思い切り押し付けて来た。私の息が苦しくなるくらい、強く抱き締められた。

「分かってる。目の前の命を救うことが最優先で、それが俺の仕事……。
 毎日命を人の手で量産して、人間の都合で殺される……
 そういう命救いたいって気持ちでやってきたけど、負けそう」

 小さな声。男の子みたいな弱々しい声。幸郎くんを抱き締め返すけど、こんな私で守れるだろうか。こんな小さな手で、幸郎くんを守れるかな。どうして動物想いで、動物のために頑張ってる幸郎くんが悲しい思いをしなくちゃいけないんだろう。どうして傷付かなきゃいけないんだろう。どうしたら、そんな痛みから私は幸郎くんを守れるんだろう。大きな手で毎日命に触れて、命を救って、零れ落ちる命に途方もなくなって、でも、それでも、幸郎くんはこの手で救おうとする。目の前の命を救おうとする。だって、それが幸郎くんの仕事だから。

泣きそうになる。でも我慢。声が震えないように、静かに息を吸って吐く。幸郎くんの大きな背中をさすった。

「幸郎くん一人で戦っても勝てないよ……そんな世界の悲しみ一人じゃ抱えっこないって」

 だから病院の同僚とか……、って言葉続くはずだった。私の腕の中の、幸郎くんの様子がおかしい。ぷるぷる震えてる。まるで、ぷっちんプリンをスプーンで突いたとき並みのぷるぷるだ。このぷるぷるの正体を私は知っている。何度も何度も被害に遭っている同級生を見たことがある。「幸郎くん?」と静かに呼ぶと、幸郎くんがゆっくりと顔を上げた。

 その顔は笑いを堪えていた。私は激怒した。

「な、なんで笑ってんの!人が真剣に……!」
「だ、だって、まんまのセリフで笑えて来て……ふっ、ふふ」
「どういう……あっ」

 脳内に唇がぷっくりとした、とっても可愛らしく美しい女優が思い浮かんだ。最近ふたりで再放送を見たばかりだった。私の頬が熱くなる。私は幸郎くんを無理やり身体の上からどかして、ソファから立とうとするが失敗に終わる。後ろから長い腕が邪魔してきたからだ。耳元でまだ笑い声が聞きこえる。

「笑ってごめん。嬉しかった、元気でっ、ふ、ふふ、……俺一人で戦ってる、フフ、気分になっ」
「もー!元気になってよかったです!離してください!」
「ごめんごめん。待って、名前」
「もう知らな」

 ずるい。この男はずるいのだ。耳元で柔らかく、甘い声に囁かれた。

「名前が居てくれて、本当に良かった。ありがとう」

 抵抗していた身体が大人しくなってしまう。からかってくる癖に、真剣なところはちゃんと決めてくるから、こっちも意地を張り続けることはできない。

「今日は幸郎くんがご飯作ってくださーい」
「はい、喜んで」




>アンナチュラル面白かった<



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