かくれえみの

 名字名前はとても複雑な気持ちだった。目の前で助かった!と裏表もなく笑う顔はとても好きだ、……好きだが、複雑なのだ。辞書を片手に軽々と持って去って行く田中龍之介の後姿に、彼女は田中によく言われるいい奴!という言葉にふさわしい笑みを浮かべていた。一年生のときは挙動不審で、会話のテンポも難しかった元クラスメイトとはクラスが離れても、良好な関係だ。




 田中くんは顔が怖い。言葉遣いが怖い。目付きが怖い。そんな第一印象は少しずつなくなっていった。話せば話すほど合わない視線に、薄っすら赤い頬と明らかにおかしい冷や汗で、やっと田中くんは女子生徒という生き物が得意ではないことが分かった。私も得意とかじゃないけど、あんなに分かりやすくは挙動不審に……なってないと思う。おそらく。彼女はそんな田中に笑って、「女の子も男の子も、同じ人間なのに。宇宙人に遭遇してるみたい」と言ったことがきっかけで、田中はポカンとした後に「名字は分かってないぞ!え、いや、名字さんは……」と、しどろもどろに言葉を続けた。やっぱり、彼女はまた笑ってしまう。

「名字でいいのに」
「……そうか?」
「うん」
「じゃあ、そう呼ぶ。名字も田中くんとか堅苦しい」
「たなか?」
「まあ、それが王道で。他には龍とか呼ぶやつも」
「りゅう?」

 彼女が小首を傾げながら、同じように繰り返すと、田中は顔を真っ赤にして大きく首を横に振った。

「タナカ!」
「うん、そうだね、りゅうってちょっと照れるね。田中って呼ぶ」
「お、おう。も、もうちょい慣れたら是非呼んでくれ」
「わかった」

 田中の反応に彼女は楽しそうに笑って、初心だなぁととても和んでいた。怖いと思っていた男子生徒は少女漫画のような純情な男の子だったのだ。本人には似合わないって微妙な顔をするだろうけど、田中はかわいい。彼女は遠慮なく田中に話しかけるようになって、田中も彼女の肩をたたいて呼ぶようになって、ふたりは傍から見ても仲が良く見えた。ぎこちなかった田中の笑顔も、視線も彼女に向けられている。彼女は嬉しくて楽しくて、田中の気安さも、ノリがいい所も、賑やかなところも全部魅力的に見えて、田中と話すことが好きになった。

「名字!見たか!昨日の試合!」
「見た。すごかったよ!」
「わはは!そうだろう!そうだろう!」
「田中ってあんなにパワーあったんだね、あとねボール追いかけながら」

 田中に負けないテンションで彼女が昨日の興奮を伝えようと、身振り手振りを加えて、出来る限り表現できる言葉を使っている姿に田中は少し頬染めて大きく笑っていた。彼女も田中の解説や自慢を聞きながら、笑顔で頷いて、田中すごいすごい!と騒ぎ続けた。そんな彼女に、最終的に照れ臭すぎて、田中は「名字さんもう勘弁して……」と両手で顔を覆ってしまった。

「ふへ」
「名字お前わざとだろ」
「でも、嘘ついてないよ。全部本心」
「……やめろ、嬉しくねぇぞ」
「もう言わない方がいい?」
「いや、やめて欲しくない」
「あはは」

 彼女は笑いながら、心に抱えた痛みを田中に告げることが出来なかった。田中はマネージャーさんの前だと、全然違うんだね。私知らなかったよ。彼女はもう少し経って、また気付いてしまう。田中と仲良くなることは女の子として意識されなくなる、ということ。未だに慣れない女子生徒には顔を真っ赤にしている姿を見るのだ。仲良くなれたことは嬉しい。でも、……それだけじゃ、いやだ。



 田中と名字は去って行く女子生徒と縁下の背中を見送って、中庭のベンチに腰を下ろした。横で落ち込んでいる田中に茶化すように、弁当の包みを解きながら彼女は言葉をかける。

「デレデレしてた?」
「違う。あれは」
「あれは?」
「あわあわしてんだよ……!」
「あはは」
「笑いごとじゃない!」

 目の前でくすくすと笑う元クラスメイトに田中は目尻を吊り上げるふりをして、彼女とじゃれ合うように言葉を選んだ。彼女と言葉を交わすことは楽しい。彼女と仲良くなれて、良かったと思う。普段は照れ臭いから、絶対言わないけど。クラスメイト以上の関係だと田中は思っている。彼女は良き友人だ。

「うん、まあ、でも、田中の良さは初対面では難しいよ」
「俺はただ道を教えようとしただけ!なのに!」
「まあまあ、縁下くんがフォローしてたからいいじゃん」
「……俺女子に怖がられたくない」
「私怖がってないよ」
「有難い!でも、名字以外の女子にも!……名字俺が怖がられる理由を言ってくれ」
「え」
「遠慮なく」
「いいの?」
「頼む!」

 両手を合わせて、目を瞑って頼み込む田中に彼女は食べようとしていた卵焼きを弁当に戻した。

「じゃあ、ひとつめ」
「ひとつめ!?」
「目付きが怖い」
「うっ」
「すぐに相手を睨むから余計に怖い」
「あっ」
「気合入り過ぎて、切羽詰まった感じがして、なんか……引く」
「リアル過ぎてメンタルが」
「あと」
「もうやめて、……名字さん俺のこと嫌いなの!?」
「好きだよ」
「お、おう」

 冷静に返された言葉に田中は耳を赤くして、頭を無駄に撫でた。名字は意外に……さらっと、こういうこと言うんだよな。チャラいわけじゃないけど、なんか……意外だ。一年のときも、あんな可愛い顔をして人の名前呼ぶし。俺が勘違いしない男だから、いいものの!田中はメロンパンの封を切って、かぶりついた。

「田中は?私のこと嫌い?」
「うえっ」
「きたない」
「変なこと聞くな!いきなり……もーう、ティッシュ」
「田中ティッシュ持ち歩いてるの?」
「ハンカチとティッシュは持ち歩くのは身だしなみの一つだろ!」

 田中は彼女の失礼な発言にぷりぷりと怒るポーズをしながら、制服を綺麗に拭いていく。その視界に彼女がふと入ってくるので、また田中は肩を揺らして驚いた。名字さん男子の足の間に入ってくるのはやめなさい。すっぽりと納まるように適当に広げた田中の両足の間に、彼女はスカートをおさえながらしゃがんで、田中を見上げる。マジで、この角度とか、場所は卑猥すぎるのでは?いや、名字はきっと分かってないだろうけど!俺の頭がスケベなだけ、なんだけど!

「田中」
「な、なんですか」
「私のこと、きらい?」
「……嫌いなわけねぇだろ」
「分かんない。嫌いじゃないなら、なに」
「……名字さんもしかして、これ言うまで終わらない系?」
「言うまで終わらない系」

 うん、と真顔で頷く彼女に田中の頬が分かりやすいほど赤く染まっていく。彼女の視線がじっと田中の目を見つめている。視線を逸らしたら負けだというより、単純に彼女から田中は視線を逸らせなかった。

「……好きですけど、文句ありますかコラ」

 彼女の目がじわじわと潤んでいく事案に田中はぎょっとして文字通り慌てふためいた。彼女は膝が汚れるのも気にしないで、田中に向かって腕を伸ばした。田中は自分の硬い腹に、彼女の顔が押し付けられている現実に目が回りそうだった。なんだなんだ、次々に起こるこの事案は。まさか夢か、これ、……!田中はぎゅうと腰を抱き締められる感触も、温もりも、初めてでどうしたらいいか分からなかった。

 名字!女子は!宇宙人!

「ちょ、名字制服汚れる!てか、マジでこのカッコまずい!」

 田中は致し方無いと彼女の脇に手を差し込んで、ぐっと持ち上げた。持ち上げられた彼女は目を丸くして、驚いた顔で田中を見つめる。その顔に田中は気が抜けて、「わはは」と大きく笑ってしまう。

「うわっ」
「名字なめるなよ!名字ぐらい楽勝だぞ!」
「まって、うわ、こわい!」

 田中は小さな子どもにする要領で、彼女のことを抱き上げる。ひらひらと揺れるスカートにも気付かずに、田中はそのままくるくると回った。


「もう、びっくりした」
「それは俺のセリフだ」

 彼女と田中はお互いに息を荒くしていた。ふたりそろって、はしゃぎ過ぎたのだ。座り込んだ田中の膝の上に乗っかている彼女は降りようするが、目が回って上手く身体が動かない。彼女は目も、頭も回って、つい本音が零れてしまった。

「私ね、結構田中と仲いい方だと思うんだ」
「思うじゃなくて、実際仲いいだろが……え、もしかして俺だけ?思ってた?」
「ううん、私も思ってた……だから、田中のことりゅうって呼んでもいい?」
「エッ」
「ダメならいいけど」

 彼女はやっと自分の視界が定まったことに気付いて、立ち上がろうとして立ち上がれなかった。戸惑いながら引かれるの腕の加減に、胸がきゅんとなる。着地した先は田中の膝の上。顔を真っ赤にした田中が彼女を見つめる。彼女も頬が赤くなる。こんな顔を、私に見せなかったくせに。じっと真っ直ぐ田中に見つめられて、彼女は悩みながらも唇を動かした。

「……りゅう?」
「うっ……もう、いっかい」
「りゅう?」
「……」
「!」

 田中に力いっぱい抱き締められた彼女はときめきよりも、恥ずかしさよりも、気まずさが勝ってしまった。制服もぐしゃぐしゃで、後ろからだき締められているのか、横から抱き締められているのかも分からない。変な体勢で若干腰が痛い。それでも、分かる。たぶん、正直勘に近い。

「りゅうさ、あの、これって」
「やばい、それ」
「え」
「めっちゃ股間にくる」
「……」




「名字まって、違う、その、いや、えっと、違わないけど……、本当にごめん!」

 田中はもそもそと弁当を食べ進める彼女の横でひたすら言葉を探していた。ちがう。ちがわない。確かに彼女から「りゅう」と呼ばれると言葉では表せないほど、心臓が苦しくなって、いけない気持ちになってくるのだ。でも、それをそのまま伝えても問題ないと思うほど、田中もバカではない。彼女は弁当を食べ終わって、蓋を閉じて、綺麗に包む。そして、ベンチから立ってしまう。田中は情けないほどに眉を下げて、彼女を見上げる。

「名字」
「……びっくり、しただけ。あと、嬉しいの混じって」
「!」
「りゅうが私のことちゃんと、女の子って意識してくれてることが分かったから、許す」
「お、おう、おお?」
「じゃあ、さき教室行くね」
「へ、あ、うん」

 彼女は田中の素っ頓狂な返事も気にせずに、スカートを翻して早々と去ってしまった。田中に大きな難問を残して、去ってしまった。


「……名字は最初から女の子だろ」
 
 名字はめちゃくちゃいい奴で、話しやすい、数少ない大切な女子だった。今日の名字は無邪気に人のことを掻き回す癖に、すっげえ可愛い顔をして俺のことを「りゅう」って呼んだ。

「……今度会ったときも、りゅうって呼ぶのか?」

 きっと彼女はいい奴だから、俺がやめてくれって言えばやめてくれる。そんなことは分かってる。……俺は名字にりゅうって呼ばれることは嫌じゃない。名字のことも嫌いじゃない。




「りゅう!」
「お、おお」
「おはよう」
「……」
「りゅう?」
「お、おはよう……名前」
「……りゅ、りゅうは私の名前呼んじゃだめっ!」
「な、なんでっ!?」 

 心底女子が分からないとショックを受ける田中と、名前を呼ばれる破壊力を身をもって知った彼女が互いを理解し合うにはもう少し時間が必要らしい。



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