おもいあがり

「お疲れ様です」

 関係者専用の裏口からお店を出ると、後輩が悩ましい顔で空を見上げていた。今日の天気はあいにくの雨です、という奴だ。しかも、ざあざあ降りでとてもじゃないが、走って切り抜けれるレベルではない。彼女は少し緊張しながら、後輩に声をかける。

「あ、先輩お疲れ様です」
「お疲れ様」
「さすが先輩ちゃんとしてますね。私傘忘れちゃって」
「私の傘使う?」

 彼女の言葉に、バイトの後輩はいいんですか?と目を輝かせた。彼女はトートバッグから折り畳み傘を出して、二つあるから大丈夫だよと笑う。最近指導している後輩が可愛くて仕方ないのだ。高校生になって部活に入っていない彼女にとって、バイトの後輩と過ごす時間は新鮮だった。運が良いことに、後輩は素直で飲み込みが早くて、可愛らしい子だった。もう彼女は可愛がりたくて、たまらない。こうやって上がる時間が重なったときも、本当は一緒に帰る?と声を掛けてみたい。でも、悲しいことに、後輩と彼女は最初から家の方向が逆だった。

「本当にすみません!助かります!」
「いいよ、このくらい」

 後輩は両手で傘を挟むように持つと、本当にありがとうございます!と頭を下げる。彼女は傘一つくらいで大袈裟だよ、と肩を縮こませた。そんなとき、ぴちゃん、と雨が跳ねる音がした。

「莉子」

 低く冷たい声に、ふたりは目を合わせて、後輩が振り返る。彼女は後輩の横から、ひょいと覗き込んだ。そして、目を見開く。紺色の大きい傘をもって、雨の中立っている男の子は中学生の頃の片思い相手だった。後輩はまた目を輝かせて、うそぉ!と弾けるように声を高くした。先輩傘ありがとうございます!と彼女に返すと、後輩は記憶よりも背の高い彼の元へ駆け寄っていく。当然のように彼の傘に入る後輩に、彼女は何も反応出来なかった。表情が作れない。これでも接客業やってるのに。

「あれ?名字さん?」
「もしかして、知り合い?」
「そりゃ中学一緒だったし」
「え、先輩も南中だったの?」

 彼女は頭を抱えたかった。どうしよう。なんで、もう忘れたと思ってたのに。もう一年も経つのに。なんで、こんな私は嫌だって思ってるの。目の前の二人は彼女の様子に気にすることなく、会話を続ける。彼は手に持っていた傘を、後輩の手に押し付けた。その素振りはどこかめんどくさそうだった。初め見た。女の子相手に、そんな雑なところ。それだけ気を許してるってことかな。

「てか自分で差しなよ」
「えーいいじゃん。
 お兄ちゃんのケチ」
「はあ?傘忘れた妹を迎えに来るって結構優しいと思うけど」
「・・・・・・え?おにいちゃん?」

 彼女のぽつり、とした呟きには、今度は彼と後輩が目を合わせる。後輩は吹き出すと、片手を思い切り横に振った。

「お兄ちゃんです!
 もしかして、カレシだと思いました?ないないない!
 私背の低い人タイプなんです」
「俺もお前みたいな図々しい奴ない」
「お兄ちゃんって本当に一言多いよね!?」
「お前が先に余計なこと言ったんだろ」

 いきなり目の前で勃発しそうな兄妹ケンカに彼女があわあわし始めると、彼と目が合う。彼はほんの少し目を見開いて、妹の頭を軽くぎゅう、とプレスした。妹は痛い!と大袈裟に喚いた。はあ、と彼は仕方ないとため息をついて、ポケットからあるカードを出した。それは有名チェーン店のコーヒー屋さんのカードだった。

「母さんがこれでいつもの買ってきてだって」
「え!ねえ」
「自分の分も好きなの買っていいって」
「わーい!
 お兄ちゃんは?」
「俺ちょっと名字さんと話あるから、先帰ってて」
「分かった!じゃあ、先輩お疲れ様です!」
「う、うん、お疲れ様」

 後輩は鮮やかな色の傘を広げると、雨の帰り道とは思えないような足取りで帰って行った。妹の背中を見送って、彼は小さく息を吐く。そして、振り返った。

「一年振り?くらい?」
「そ、そうだね」
「名字さん元気だった?」
「げ、元気だよ。
 角名くんも元気だった?」
「うん、俺もそれなりに元気」

 角名倫太郎。彼女の中学の頃の、片思い相手の名前だ。角名は相変らず掴めない雰囲気で、でもそれなりに元気と笑う顔は中学の頃と変わっていなかった。思わず彼女が役目を果たせなかった傘を握って、俯けば、彼女の視界に大きなスニーカーが入り込んできた。その瞬間、彼女の耳から周りの音が消える。自分の心臓の音しか、聞こえない。ど、どういうこと?

「名字さん」
「は、はい」
「これあげる」
「え」

 傘から手を離して、つい素直に角名から受け取ってしまう。それは、先ほど角名が妹に渡していたカードだ。彼女が目を大きくして、角名を見上げる。角名は掴めない顔をして笑った。

「バイトお疲れ様、名字さん」
「す、すなくん」
「雨だから帰り気を付けてね」
「う、うん」

 彼女が頷くと、角名は彼女から離れて、妹と同じ方向の道へ曲がって行こうとする。紺色の傘で隠れた、後ろ姿。やっと彼女の耳に戻ってきた、ザアザアとした雨音。

「角名くん!」

 彼女の大きな声に、角名が振り返る。彼女はカードを見せるように持って、雨に負けないように声を張り上げた。正直、しんどい。だって、バイト終わりだもん。頬も痛い。今日もたくさん愛嬌を振りまいた。

「これありがとう!角名くんも気を付けて!」

 角名は彼女の言葉に瞬きを二回繰り返して、目尻を下げる。そして、ばいばいと手を小さく振ってくれた。角名の背中はそのまま小さくなっていく。曲がり角を曲がって、背中が見えなくなる。彼女は傘を脇に挟むと、今度こそ本当に頭を抱えた。こ、これはずるくないか!こんなことされたら、角名くんのことまた好きになっちゃうよ!

「あれ?お兄ちゃん、自分の分のコーヒーは?」
「お店で飲んできた」
「そっかぁ。
 なんか機嫌良くない?」
「うん?そう?」
「何かあったでしょ!」
「ない」
「あ、部屋逃げるのずるい!」



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