前編


 他学年の廊下って歩くの、すごく緊張すると思うの。でも、その男の子はいつも堂々と歩いて、菅原さんいますか?と教室の中を覗き込んで来た。廊下側で教室の扉近くの席の私は、特に意識しなくても目が合うのだ。それこそ、最初見たときは驚いた。扉の上枠部分に頭が付くのでは?と思うくらい背が高かったから。制服の新品さや敬語を聞かなかったら、同学年だと勘違いしそうだった。だって、そんなに背の高い男の子が多い訳じゃない。なんなら、今年の一年生が一番背が高い男の子が多いらしい。

 私の学年では、東峰くんが一番目につく背の高い男の子だった。見た目とは裏腹にやさしい男の子だ。ヘアゴムが切れちゃったときに、いる?と渡してくれて。へにょりと曲がった眉はとても可愛くて、ちょっと好きになりそうだった。でも、可愛い以上の感情は湧かなくて、結局恋愛に発展はせず。そもそも、恋愛よりも楽しいこと、したいこといっぱいの高校生活だった。まあ、私みたいな子なんて、たくさん居るだろうし。と、そんな感じで残りの高校生活で恋愛する予定なんて、なかったんだけど。

「あのすみません……」
「あ、菅原くん?ちょっと待って」
「違います」
「?」
「名字さん」
「はい」

 今日も今日とて現れた男の子に呼び止められて、私は菅原くんを呼ぼうとした。もう慣れたものだ。一種の流れ作業になっていた。けれど、男の子は違います、と変わらない表情で否定してくるものだから、別の先輩かな。誰だろうと思ったときに名前を呼ばれて素直に返事をしてしまった。というか、私の名前知ってたのか。驚いて見上げると、男の子はじっと私を見下ろしてくる。

「俺影山飛雄っていいます」
「はい、影山くん」

 はい、知ってます。と言いかけて、慌てて修正。仲良くない先輩に急に名前呼ばれても、びっくりしちゃうよね。名前を呼べば、影山くんはうっす、と返事をしてくれた。影山くんのことを教えてくれたのは菅原くんだ。いつも呼び出し役ごめんなぁ〜って。「気にしないで」「ありがと。助かる!影山怖くない?目付きあんま良くないから」「ううん、全然大丈夫」「実は影山さ―」なんて、たまに後輩自慢されたりもした。その所為か、余計に影山くんが教室に来ると気にかけちゃうんだよね。

「あの」
「はい」
「どうやったら、名字さんのカレシ?になれますか?」
「あー……え?」

 思わず口から出た声は、とても間抜けだった。影山くん、今何て言った?影山くんを呆然と見上げて固まっていると、後ろからバタバタって慌ただしい足音が迫って来た。教室もざわざわとお喋りとは違う騒ぎ方に、少しだけ頭が痛くなる。あと、視線も痛い。一瞬にして、日常が崩れた気がする。

「こらこらこら、影山!どうしてそうなる!」

 教室の隅っこから登場した菅原くんは私の心の声を代弁しているようだった。影山くんはつり目ながらも、どこか可愛らしさを感じる不思議な目をしている。なんだろう、純粋無垢な感じ。イトコの子どもに似てる。きょとん、と菅原くんを見つめて、影山くんは首を傾げる。菅原くんは「もー」と唸ると、影山くんの首に腕を回して屈ませた。目の前でボソボソと話し合いが行われているが、私はどうしたらいいんだろう。

「昨日名字さんと何したいか考えて」
「うんうん」
「そのまま伝えればいいって、菅原さんに言われたんで」
「あー……」
「その通りにしました」
「なるほど、これは俺の言葉足らずだわ。
 影山は名字のカレシになりたいのが、名字としたいことか」
「……名字さんに触ってみたいです。
 それを月島に言ったら、カレシでもないのに何言ってんのって」
「あー……影山ひとつだけ、大事なこと言うぞ」
「?」
「カレシになったからと言って、相手に触れるわけではない」
「えっ」

 ガーンと衝撃的に固まっている影山くんと、頭を押さえてる菅原くん。その二人の後ろ両手で顔を覆ってる私。確かに、それは大切な説明です。ありがとうございます、菅原くん。でも、でもね、私今とっても困ってるの。もう顔出せないよ。もう、どうすればいいの。困惑していると方向性が決まったらしい。菅原くんに向って頷いて、影山くんは改めて私の名前を呼ぶ。

「名字さんさっきはいきなり、すみませんでした」
「い、いえ」
「仕切り直しさせて下さい」
「はぁ」
「明日の昼休みに告白するんで、中庭まで来てもらえますか」
「わ、分かりました」

 ここまで予想外なことをされると、素直に頷くことしか出来ないらしい。もう本当に私は言われるがままだった。影山くんはあざっすと頭を下げているが、視界の隅で再び頭を押さえる菅原くんを見つけた。本来なら、どんな段取りの予定だったんだろうか、なんて。現実逃避してしまう私も、菅原くんも同じように頭を押さえそうになった。



 名字さんは菅原さんに少しだけ、似てる。やさしくて、よく気が付く人だった。初めて会ったときも、そうだった。入学してぐんぐんヨーグルを買おうと自販機に小銭を入れたら、売切の二文字。あぁ?と無意識のうち出た不満が彼女の耳に届いたようだった。自販機からちょっと歩いたところに居た彼女が振り返って、俺に近寄ってきた。「もしかして、これ買おうとしました?」って、彼女の手にあったぐんぐんヨーグル。俺がそうです、と頷いたら、彼女は笑った。

「じゃあ、交換しませんか。
 これ良かったら、どうぞ」
「いいんすか」
「何となくこれにしただけ、だから」

 じゃあ、これ押してもいいかな?って、彼女は自動販売機を指差した。俺は頷いて、無事ぐんぐんヨーグルを手に入れることができた。

「じゃあ」
「うっす」

 いい人。そう思った。次に会ったのは、三年生の教室だった。菅原さんを呼びに行くと、菅原さんはクラスメイトと話し込んでいるようだった。手には難しそうな本があった。俺がじっと見ていると、周りの視線を感じた。後から名字さんに「三年生の階に、一年生がいるの珍しいから注目されてたんだよ」って教えて貰った。そんなとき、一番最初に声を掛けてくれたのが名字さんだった。俺が教室の中をちらっと見たら、扉近くの席の彼女は不意に顔を上げて、目が合った。すぐに彼女は席から立って、俺に駆け寄って来てくれた。

「どうしたの?誰かに用ですか?」
「菅原さんに」
「あーバレー部かぁ。ちょっと待ってね」

 彼女はやわらかく笑うと、菅原さんの元へ駆け寄っていく。俺の方を指差して、「後輩来てるよ」って。菅原さんは少しだけびっくりした顔して、すぐに俺の所まで来てくれた。

「すんません。いきなり」
「いいよいいよ、どうした」

 そう言って笑う菅原さんも、やっぱり彼女に少しだけ似てると思った。菅原さんに、あの人の名前なんですか?って聞いたら、すごく驚いた顔をされた。目を見開いて、え、影山マジ?と声を低くする菅原さんの反応の意味が分からずに、俺は首を傾げることしか出来なかった。菅原さんはやさしい笑い方じゃなくて、ニヤニヤして、俺の腕を肘で突いてきた。一瞬なぜか及川さんを思い出して、ムッとしてしまう。菅原さんは「名字名前って子だよ」って教えてくれた。名字名前……名字さん。菅原さんに彼女の名前を聞いた日から、俺は菅原さんに会うために、三年生の教室に行くことが多くなった。部活中に聞こうとしても、後でいいか?と言われることが多くなって、俺は変な顔をしてしまう。また何かやったんだろうか?と自分の行動を思い出そうとして、菅原さんは俺の背中をぽんぽん、と叩いた。

「あー違う違う。
 別に今言ってもいいけど、影山も名字に会いたいべ?
 もちろん、急ぎのことはすぐ教えるから」
「!」
「なんで分かるんスか、みたいな顔されても。
 俺に会いに行くっていう口実あった方が、動きやすいだろ?」
「す、菅原さんすげぇ……」
「影山は正直だもんなぁ」

 そう笑う菅原さんはちょっと困った顔をしてるのに、すごく柔らかくて不思議だった。彼女も何度も教室に行くと、すぐに俺に気付いてくれるようになったし、俺から彼女に声を掛けることもあった。「今日も菅原くん?」って。それにいつも俺は頷くだけで、もどかしかった。

「今日も菅原くん?」
「はい」
「ちょっと待っ」

 くるり、と方向転換しようとした彼女が何故か後ろに倒れてきた。足がもつれてしまったらしい。俺は咄嗟に彼女を後ろから支えて、驚いた。彼女が小さいことも、頼りなさそうなことも、知っていた。知っていたというか、見た目の予想通り的な感じだった。でも、想像より先輩は温かくて、柔らかくて、あと匂いもした。嗅いだことがあるような、ないような、匂い。家に帰ってから、姉貴がたまに纏っている匂いだったと気付いた。彼女の手が、彼女を支える俺の腕に触れて、腕の中から抜け出していく。

「ご、ごめんね。ありがとう」
「いえ」

 正直、俺は自分がどんな返事をしたか覚えていない。ふわふわして、むずむすして、すごく変な感じがした。彼女に触れると感じた感覚は、彼女の笑顔を見るようになっても感じるようになった。俺はこれが何なのか知りたくなった。菅原さんに相談して、月島にはたまたま聞かれて、色々言われて、結果的に自分の中で出た結論を彼女に伝えた。彼女はとても驚いた顔をしていた。そして、また菅原さんに相談して、俺はもう一度やり直しすることになった。

 目の前で俺の言うことを待っている彼女は、少しそわそわしていた。日向みたいに目をきょろきょろさせて、遠慮がちに俺を見上げる。日差しは温かいくらいなのに、妙に身体が熱かった。学ラン脱いで来れば、良かった。さわさわ、と葉っぱが揺れる音がしたり、どっかから聞こえる騒がしい男子の声が聞こえたり。いつもは耳に入ってこない音がやけに大きく消えて、ちょっと居心地が悪かった。でも、彼女と目が合うと、自分の心臓の音しか聞こえなくなった。あ、これ、サーブの前みたいだな。

「名字さん」
「はい」
「俺名字さんのことが気になります」
「……は、はい」
「俺名字さんのカレシになりたいです」
「影山くん……もしかして、その言葉菅原くんと打ち合わせした?」
「し、してないです」

 菅原さんと言い、名字さんと言い、エスパーなのか。どうしていつも俺の思ってること、考えてることを当ててくるんだ。菅原さんに何度も言われた。これ俺と考えたって言っちゃダメだぞって。俺は頑なに、否定したけど。名字さんはちょっと困った顔になった。その顔はやっぱり、菅原さんに似ていて、でも、違う。すごく柔らかく、眉を寄せて彼女に見上げられると、変な感じがする。むずむずする。

「影山くんって嘘つけないよね」
「……」

 言葉に詰まって、ただただ俺は彼女を見つめることしか出来なかった。そんな俺を見上げて、彼女は笑いながら頷いた。

「じゃあ、なってもらおうかなぁ」
「え」
「私のカレシ」
「あざっす!」

 思い切り前のめりで、でかい声が出た。彼女はとても驚いた顔をしたけれど、やっぱり困ったように柔らかく笑っていた。



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