サクラチラリ

「名字!これ貸して!」
「あ、ウン、どうぞ」

 二口の視線の先で、一人の女子生徒がぎこちなく頷く。名字と呼ばれたクラスメイトは、工業高校には数少ない女子生徒である。その数が少ない女子生徒の中でも、大人しい方で、あまり男子生徒と関わろうとはしない。二口は無遠慮に彼女の机から道具を取っていく男子生徒を睨んでしまう。名字さんびっくりしてるじゃねぇか。けど、正直、名字さんと喋ったのが羨まし過ぎる。二口は工業高校の雰囲気が肌に合っていたし、嫌いではなかった。ただただ楽な環境に身を任せていたら、異性への接し方を忘れてしまった。たぶん、中学生の頃の自分の方が、自然に話せたと思うくらいだ。完全に女子と話せねぇわけじゃないけど……、名字さんみたい子はなぁ。



 二口堅治は昔から不器用だった。いや、手先は人並み以上に器用な方だが、人に対する気持ちを素直に告げることが、とにかく不器用だった。背中がむず痒くて仕方ない。典型的な好きな子にちょっかいをかけて、嫌われるタイプの人種だと二口自身が自覚するほど、不器用だった。というか、最早苦手なのだ。むり、絶対むり。勢いで名字さんと喋って、ヘタなこと言って嫌われたり、怖がられたりしたら、俺はしぬ。

 二口は実技の授業が終わって、クラスメイトがぞろぞろと実習室を出て行く中、席から立てないでいた。二口の視線の先には、彼女がトートバッグに道具を仕舞って、忘れ物がないか確認していた。もうほとんどクラスメイトは残っていなかった。二口は今しかチャンスはない、と自分に言い聞かせるが、実際は彼女が席から立ち上がりかけて、やっと決心がついた。

「名字さん」
「ふ、たくちくん」

 声をかけると、彼女は驚いたように二口を見上げる。二口は彼女の戸惑っている表情に、内心落ち込んだ。二口はずっとポケットで握りしめていた絆創膏を差し出す。彼女は目を丸くして、くたくたになった絆創膏と二口を見比べた。彼女の視線に、二口は頬が嫌でも熱くなる。

「……使う?」
「え?あっ、いいの?」

 絞り出した言葉は何ともぶっきらぼうで、不親切だった。それでも、いらないことを言うのが得意な口は、こうでもしないと閉じれないのだ。

「ん、余った奴だし、あと、それ肌荒れそう」
「へへ、ちょっと作業中だったから、面倒で」

 照れ臭そうに笑う彼女の指には、ガムテープが巻かれていた。授業時間内に、課題を終わらせる為とは言え、その場にあったガムテープで指を止血する彼女は中々ワイルドだった。二口は見かけによらず割と雑な一面がある彼女に、呆れていたかった。そんなところも放っておけないな、と一瞬でも考えた自分が寒くて、ゾッとした。彼女は二口から絆創膏を受け取って、ガムテープを剥がそうとするが、中々剥がれない。力いっぱいに、強引に、ガムテープを引っ張る彼女の姿に、二口の方が痛そうな表情になっていた。

「名字さん、俺やろうか?」
「え」
「いや、イヤだったらいいけど」
「イヤ、じゃない、よ。
 じゃあ、お願いします」

 彼女がおずおずと二口に手を差し出した。二口は自分で言い出しておきながら、目の前の小さな手にとくん、と心臓が大きく動く。彼女に不審に思われないように、何でもない顔をして、彼女の手に触れる。彼女に痛い思いをさせないように、細心の注意を払って、ガムテープをゆっくりと外してやる。傷口は完全にぱっくり、と肌が切れていて、とても痛そうだった。ガムテープを外すと、じわじわと血が溢れてきた。二口は咄嗟にポケットからティッシュを出して、ぎゅう、と彼女の指を包む。

「いたっ」
「ごめん。こんくらい、ならへーき?」
「ん、ありがとう。意外に深かったみたい」
「……ちゃんと保健室行った方がいいじゃね?」
「そうかも」

 眉を下げて、曖昧な返事をする彼女に、二口は少しだけため息をついた。名字さんぜってぇ、めんどくさがって、行かねぇだろ。そんなことを思っても、口を開けなかった。自分の手の中で、どくどくと鼓動を感じる小さな指に、意識をほとんど持っていかれているからだ。名字さん指ほっそ、ちっさ、こっわ。油断したら、折りそう。二口が彼女に触れているという現実に、悶々としている間にも、彼女は片手でもたもたと絆創膏を開けようとしているので、二口はため息をつく。名字さん、マイペースか。もうちょっと俺のこと、意識しても良くね?

 二口は血が止まっていることを確認して、ティッシュを剥がす。彼女の手から絆創膏をとって、そのまま絆創膏も貼ってやった。想像よりも、柔らかい肌に、二口の指先は震えそうだった。彼女は関心したように、二口の手つきをじーっと大人しく見守っていた。そんな何気ない様子でさえ、二口の心臓は反応してしまう。あー、名字さんやっぱかわいい。

「ハイ、どーぞ」
「二口くん、ありがとう」
「ドウイタシマシテ」

 彼女が二口を見上げて、にっこりと笑う。二口は久々に彼女の笑顔を向けられて、思わず視線を逸らしてしまった。



 そもそも、二口が彼女に射止められる予定はなかったのだ。むしろ、逆だ。高校生になって、二口は初めての電車通学になった。田舎だろ、とバカにしていたが、朝は普通に混んだ。そもそも、イベントごとが重なる四月の頭が一等混雑するなんてことを、高校生になったばかりの二口は知らなかったのだ。着られている制服を身に纏って、人で溢れた電車に乗るのは中々のストレスだった。あつい。早く降りたい。人よりも背が高かったことに、これほど感謝したことはない。

「?」

 二口は扉に凭れ掛かって、混み合う人たちを高みの見物をしていた。ふと、目の端に何かが映った。同じ高校の制服を着ている女子生徒だった。二口よりも制服はぶかぶかで、見るからに新入生です!と言った感じの女の子だった。彼女は電車が揺れる度に、よたよたとしていて、周りに何度もすみません、と謝っていた。ン〜、工業高校は女子が少ないって言うし、ぶっちゃけ期待もしてないけど。優しくしておいて、損はないか。そもそも、バレー漬けの日々になるだろうし。二口はまた、よたよたしている彼女のスクールバックをつんつん、と引っ張った。彼女が驚いて、二口を見上げる。

「伊達工業?」
「え、はい、そうです」
「俺も、今日から通うの」
「え、一年生?」

 平均よりも背の高い二口は、一見先輩にしか見えなかった。彼女は目を見開いて、思わず素の口調で尋ねてしまった。

「そ、同じ一年生。さっきから、めっちゃフラフラしてるけど、ここ来る?」

 二口は特に気にした様子もなく、自分と扉の間を指で差した。

「え、えっと……」

 彼女は困ったように、曖昧に、申し訳なさそうに、笑う。初対面で、図々しいとか思ってんだろうか。言い出したのは俺だから、気にしなきゃいいのに。二口は一言謝って、彼女の二の腕を思い切り掴んだ。彼女はギョッとするが、二口が引っ張って、扉側を譲ってくれたのだと理解すると、ホッとしたように息を吐いた。

「あ、ありがとう」
「いーえ」

 彼女は頬を赤くして、二口を見上げる。二口は格好をつけて、何でもない顔をしていたが、実は彼女を潰さないように必死だったのはここだけの話だ。


 二口は電車を降りるときも、よたよたとしている彼女の腕を掴んで、支えてやった。彼女は顔を真っ赤にして、何度も二口にお礼を言った。その様子に二口は満更でもなかった。彼女は友達を見つけたから、と二口とホームで別れた。二口は良いことをして気分が良かった。中々のスタートダッシュでは?と軽い足取りで改札へ向って、定期を取り出そうとして、手が空ぶった。

「あれ」

 絶対無くすから、定期はここだと決めたのに。鞄のポケットを見ても、定期はなかった。二口は周りの苛立ちや焦りが混じった視線を感じて、慌てて改札の列から外れる。げぇ、最悪。一気に気分は急行落下だ。定期無くしたときって、どうすればいいわけ?二口はブレザーのポケットから、スマホを取り出そうとして、また空ぶる。……あっ!充電器に差したままだった。マジで、最悪過ぎる。二口はぐしゃぐしゃ、と髪を混ぜて、窓口へ向かうことにした。あー……これ、学校間に合うか?初日から遅刻とか、ぜってぇやなんだけど。二口はイライラして、思い切り眉間に皴が寄っていた。

「あの!すみません!」
「……」
「あ、待って!」

 二口はいきなり後ろから鞄を遠慮なく引っ張られて、苛立ちが頂点に達した。思い切り睨み付けながら、後ろを振り返って、後悔した。そこには、先ほど助けたばかりの、彼女は顔を青くして立っていた。

「アッ」
「ご、ごめんなさい」
「ちょっと知り合いのイタズラと勘違いして、ゴメン」
「な、なるほど?
 これ、落としました?」
「!」

 咄嗟に言った出まかせに彼女は首を傾げながらも、頷いて、二口にパスケースを差し出した。ブラウンのパスケースは間違いなく、二口ものだった。入学祝いに、父からプレゼントで貰ったものだ。二口は目を見開いて、パスケースを受け取る。彼女が女神に見えた。

「助かる。マジで、助かる」
「いや、でももうちょっと早かったら、良かったですよね」
「え、なんで?」
「そしたら、改札引っかからなかったのに」
「……うわ、ダサいとこ見られてんじゃん、最悪」
「え、そんなことないですよ!
 お兄さんめっちゃカッコイイです!」
「え」
「さっきスマートに助けてくれて、本当にかっこよかったです!」

 彼女は照れ臭そうに、でもにっこりと二口に笑いかけた。二口はこんなにも真っすぐに、異性にかっこいいと言われたのは初めてだった。さっきまで何とも思っていなかったのに、二口の心臓はどくん、と速くなる。頼りないと思っていた目の前の彼女が、とても可愛く見える。人混みとは違う暑さに襲われて、二口は口元を大きな手で隠した。

 こうして、いとも簡単に二口は彼女に射止められてしまった。そして、二年連続同じクラスになれたのに、全然進展しない、いじらしい片思いをする羽目になったのだ。



 朝練がない朝はいつもより長く寝ているはずなのに、なぜかいつもより眠たく感じる。いつもの朝より生徒が多い通学路を歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り向かなくても、声だけで分かる。彼女は普段と変わらない笑みを浮かべていたが、二口は何とか挨拶を返すので、精いっぱいだった。

「二口くんおはよう」
「おはよ」

 彼女は二口のぶっきらぼうな様子に慣れたのか、特に気にすることもなく、「朝練ないんだね」と口を開いた。二口は頷きながら、内心は戸惑いの嵐だった。彼女は二口の隣に並んで、とろとろ歩く二口の歩調に合わせている。え、なに、名字さん俺と一緒に行くの?なんで、クラスメイトだから?いや、でも、名字さん、ただのクラスメイトの男子と用もないのに、喋るキャラじゃないじゃん。彼女は二口の反応の悪さも気にせず、マイペースにお喋りを続けていた。二口は無難に相槌を打つが、本心は別のところにあった。

「あ、そうだ。二口くんって、お菓子途中でも気にしない人?」
「え、どういうこと?」
「えっとね、今日コンビニでグミ買ったんだけど」

 これ、と彼女が鞄から出したグミは封が開けられている所為か、折り曲げられた上に、クリップまでされていた。そのグミはいつも二口が食べているグミだった。二口がグミを見つめて、彼女の方を見る。

「……酸っぱい奴だったの」
「名字さん酸っぱいのダメなの?」
「うん、刺激物はあんまり」
「なにそれ、刺激物って」

 そう言って彼女が思い切り顔を顰めるので、二口は思わず笑ってしまう。ハハハと声を上げて笑う二口に、彼女はぽかん、と見上げる。二口は意外に可愛いく笑うのだ。二口は彼女の視線に気付いて、ハッと我に返ると、照れ臭そうに目を逸らした。

「で、そのグミがどうしたの?」
「あ、うん、もしよかったら、二口くん貰ってくれるかなって」
「え、俺?」
「うん、教室でよくグミ食べてるから」
「へ」
「あ、途中食べとか気にしないなら、いいんだけど」

 彼女は二口の反応に眉を下げて、気にしないでと首を横に振る。違う。俺は途中食べでも、全然平気だし、気にしない。そこじゃない。俺がグミよく食べてんの、知ってるの?名字さん。いやいや、たまたま目に付いただけかも、しんないし。なんなら、俺だって、名字さんがよく紅茶飲んでるの知ってるし。……いや、でも、名字さんの友達がよく何飲んでるのか、思出せねぇわ。二口は悶々としながらも、彼女の方へ手を出した。

「ちょーだい」
「貰ってくれるの?」
「途中食べとか気にしないから」
「そっかぁ。じゃあ、どうぞ」
「どーも」

 二口は渡されたグミの袋を見下ろして、やっぱり気になって指摘してしまう。

「ねえ、名字さんってさ、ジッパー信用してないの?」
「え?」
「だって、わざわざクリップで止めてあるから」

 我慢が出来ずに二口が笑いながら言うと、彼女は顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。「お菓子は新鮮な方が美味しいから」とよく分からない理屈を並べる彼女に、再び二口は声を上げて笑う。なんで、そこマメなの。だったら、ガムテープじゃなくて、ちゃんと絆創膏使えばいいのに。本当に彼女の考え方が分からない。でも、嫌じゃなかった。

「そんなに笑わなくても……」
「だって、名字さんの思考回路が謎だからさ」
「そうかな?普通のつもり、なんだけどなぁ」
「ハハ。あ、これ、俺が一番好きな味だ」
「そ、そっかぁ。なら、良かった」
「でも、マジで酸っぱいのダメなんだ。ほとんど残ってるじゃん」
「う、うん、ダメなの……あ、綾だ!
 じゃあ、二口くんまた教室で!」
「え、うん、また」

 彼女は忙しなく去っていく。昨日よりも、自然と喋れてきたのに、彼女が行ってしまった。二口はいつもいる友達に抱き着いて、こそこそと話し始めた彼女を未練がましく見つめそうになった。けれど、手元のグミを思い出して、頬を緩めそうになる。経緯は置いておいて、彼女からグミを貰ったことには代わりないのだ。二口はさっそく一口食べようと、クリップを外して、曲がっていた部分を直した。

「あれ……」

 なんと、輪っかがあるのだ。商品を陳列させるための、あの穴。この穴があるということは、封が開けられていない証拠である。二口は顔を上げる。分からない。本当に彼女が酸っぱいものがダメなのか。好きだとしても、嫌いだとしても、このグミは最初から自分に渡すつもりだったのではないか?と一つの可能性に気付いて、何気なく二口はグミの袋を裏返した。そこには、マジックペンで何かが書かれていた。あーこれ、よくクラスの女子が誕生日にやる奴じゃん……。は?

二口くん
昨日は絆創膏ありがとう。
良かったら、連絡下さい。

 メッセージの最後に、英数字が並んでいた。二口は勢いよく、顔を上げる。丁度、ばっちりと後ろを振り向いた彼女と目が合う。グミの袋を裏返して自分を凝視する二口の様子に、彼女は顔を青くすると、校舎へと走り出した。隣に居た友達が驚いて、彼女を名前呼んだ。でも、彼女の走りは止まらない。

「二口!チャンス!」
「!」

 彼女の行動に惚けていると、彼女の友達から叱咤された。そうだ。俺は確かめないといけない。本当に酸っぱいのダメなのか、とか。これどうして新品なのか、とか。そして、何よりこのメッセージを真に受けていいのかって。そこら辺を歩いていた後輩にエナメルバッグを押し付けると、二口も走り出した。

 彼女の抵抗が虚しく、すぐに二口に捕まってしまうのは言うまでもない。



後日談(?)
友人(東条綾さん)による証言。
「二口?ちょー分かりやすいよね!
 他の女子には遠慮ないのにさぁ、名前にだけはちょー余所余所しいの」
「分かる。借りてきた猫みたいだよね」
「ねえ、舞ちゃんもそう思ってた?」
「うん、思ってた。てか、クラスの女子はほぼ気付いてたと思う」
「それなー」



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