好きとスキ



 名字名前はいつも手が届かない存在に対して夢中になっていた。国民的アイドルとか、ドラマの主題歌を歌うバンドとか、雑誌に載っているモデルとか、常になにか越しにそう言った存在を楽しんでいた。そして、彼女は高校生になって、また夢中なものが増えた。友達に誘われて見に行った大会で、彼に会ったのだ。佐久早聖臣。バレーの詳しいことは当時分からなかったけれども、他のスパイカーと違うプレイに彼女の目は奪われた。そして、彼女は佐久早のファンになった。彼女は初めて画面越しでもない、存在に夢中になった。

「みてみて〜さくさくぱんだ」
「佐久早だけに?」
「そう。かわいい。
 サクサクさくさくぱんだを食べる佐久早くん」
「なんか早口言葉みたい」

 佐久早は彼女と友達の普段の会話でも、割と登場する方だった。彼女はプレイヤーとしての佐久早が一番好きだったが、佐久早自身も好きだった。彼女はさくさくぱんだを友達と口に運ぼうとしていた、指を一瞬止める。隣の席の男子が自席へ帰ってきたのだ。

「あ、佐久早くんもさくさくぱんだ食べる?」
「いや、いらない」
「だよね」

 彼女の友人は佐久早の態度にカラカラと笑って、さくさくぱんだを食べる。彼女はその会話には入れず、視線を落とした。

「どうしよう、佐久早くんと席隣になっちゃった」
「良かったじゃん」
「ちがーう。私はファンだもん。その近過ぎると緊張してさ、……良くない」
「う、うん……?
 仲良くなりたくないってこと?普段あれだけ騒いでるなら、佐久早くんいつも応援してるよー!くらい言っても」
「いやいや、そんな馴れ馴れしいことできないよ」
「……よく分からんけど、なんか大変そうだね」

 彼女にとって佐久早は憧れの存在なのである。そして、彼女は憧れの存在に対して、応援したり、周りと高まる気持ちを共有することが好きだった。憧れの存在に近付きたい、という欲は持ったことがなかった。だから、その欲求に反することが現実で起きてしまって、彼女は佐久早に対して、少しよそよそしい接し方になってしまうのだ。まあ、佐久早にとって彼女はただのクラスメイトなので、当の本人は何も気付いていないし、気にしていなかった。



 そんな二人がクラスメイト以上として、交わることになったきっけはワンコインだった。

 佐久早は自分と同じぐらいの高さの自動販売機を睨み付けていた。喉が渇いて、ただ飲みものを買おうとしていただけだったはずなのに。お金を投入しようとしたら、するり、と指から落としてしまった。そのままお金は転がって、自動販売機の下へまで行ってしまったのだ。潔癖症のきらいがある佐久早にとって、自動販売機の下に手を突っ込むことは自ら死に急ぐのと同義である。惜しいけれども、最悪百円玉なら諦めた。しかし、佐久早は五百円玉を落としてしまったのだ。学生にとって、五百円玉はでかい。

「あ……」
「……」

 視線を感じて振り向けば、クラスメイトの女子がひとり。佐久早のただやらぬ様子に足を止めてしまったらしい。

「さ、佐久早くんどうしかしたの?」
「……自動販売機の下に、五百円玉落とした」
「ああ!なるほど」

 彼女は佐久早に納得した!と大きく頷いて、躊躇なく佐久早の足元へしゃがみ込む。佐久早はびくっと驚きながらも、彼女のために一歩下がった。彼女は腕まくりををして、自動販売機の下を手を突っ込んで、なにか手に当たらないか探す。指の先に固い感触して、そのまま引っ張ると、それは佐久早が落とした五百円玉だった。

「これ?」
「そう」
「……自動販売機の中いれた方がいい?」
「そうしてもらえると、助かる」
「うん」

 佐久早が潔癖症っぽいということは有名な話である。彼女は五百円玉の埃を払って、そのまま自動販売機へ投入した。

「名字助かった」
「いいよーこのくらい。あ、休み時間終わる!」
「?」
「私お手洗い行きたかったんだ。じゃあ」
「おう」

 彼女は平常心平常心と言い聞かせて、佐久早の前から立ち去る。佐久早は彼女の後ろを姿を見ながら、ぽちっと自動販売機のボタンを押す。指の第二関節を曲げて押すと、接触が少なくて済むらしい。

名字いいやつだな。



 佐久早は目の前で落ちてしまった部室のカギを見つめていた。進路説明で三年生は遅れてしまうため、と部室のカギを預かっていたのだ。部室も開けたし、後は部活でまた主将に返すだけの予定だった。渡り廊下を歩いて佐久早が体育館へ向かっている途中に、パイプイスを運ぶ下級生とぶつかった。ぽちゃん。下級生は佐久早に気が付くと、慌てて頭を下げて去っていた。

 ぽちゃん……?佐久早は怪しげな音をした方向へ視線を向ける。そこには水たまりに浮かぶ部室のカギの姿があった。

 最近ついていない、と佐久早はため息をひとつ。古森がくるまで待つか、なにかで取るか考えていた。取ったとしても、あの部室のカギを触りたくねぇな。

「佐久早くん?」
「……名字か」
「どうし……」
「……」

 何も言わなくても、通じ合うふたり。竹ぼうきをもって登場した彼女は体育館周辺の掃除担当らしい。彼女は佐久早の言わんことを察して、またもや躊躇なく部室のカギを拾って、そのまま手洗い場へもっていく。彼女は泥水まみれになってしまったカギを、水道水で一通り洗い終えると、スカートからハンカチを取り出して拭きとろうとして、止まる。その行動に佐久早は首を傾げるが、彼女はティッシュを取り出して水を拭う。

「はい、さ」
「悪い……?名字?」
「手ピカジェル使った方がいいね!」
「あ?……ああ?うん?」

 彼女は制服のポケットから携帯用の手ピカジェルが登場した。佐久早は用意のいい彼女に驚きである。名字のポケットはドラえもん並みか……?彼女は手ピカジェルが正確な消毒(?)除菌(?)になるのかは分からないけれども、やらないよりはマシかと結論付けて一応消毒しておく。そして、やっと部室のカギは佐久早の手に渡った。

「悪い、助かった」
「いいよ、このくらい」

 デジャヴだ。完全にこないだと同じ会話をしている。

「名字は平気なの?こないの自動販売機とか」
「汚れるの?」

 彼女の質問に、佐久早は頷きで返す。

「うーん。
 汚れても、また洗えば綺麗になるし。いいかなぁって」

 彼女は何でもないように笑うと、竹ぼうきをもって去って行く。佐久早は手のひらにある部室のカギを見つめていた。

「佐久早!体育館行かないの?」
「古森……、お前手ピカジェルって持ち歩いてるか」
「え、持ってないけど」
「だよな」



 少女漫画のヒロインのように、ピンチを二度も救ってくれた彼女を佐久早は少し気になっていた。ピンチといっても、あくまで佐久早にとって、という意味である。名字はさくさくぱんだをよく食べている。毎日使うハンカチは全部お気に入りらしい。ティッシュケースも、そのデザインでなくてものいいのでは?と思ってしまうぐらい、可愛らしいものだった。そう言えば、彼女がもっていた手ピカジェルもピンクだった。彼女は可愛らしいものが好きなのかもしれない。

 佐久早と彼女は席が隣同士なので、会話がなくとも、彼女の情報が佐久早の耳に入ってきた。

「えへへ、見て〜」
「ポケモン?可愛いじゃん」
「でしょ〜!スリコとコラボだったの」
「いいねえ」

 彼女はいつも以上に楽しそうに笑っていた。佐久早はその横顔をそっと盗見して、可愛いと思っている自分に気が付いた。彼女の笑顔を見る回数が増えれば増えるほど、その笑顔がこっちに向かないかと思った。彼女の前の席の女子は誰隔てなく、それこそ佐久早に対しても絡んでくるが、彼女はそうではなかった。彼女も、佐久早も用がないのに、世間話をするタイプではなかった。……俺は用がなくても、彼女と喋りたいのか?佐久早は自分の中の変化をうまく消化できずに、マスクを少し直した。

「ぎゃあああ」

 佐久早が階段を上がろうとしていると、何かが割れた音と変な悲鳴が聞こえた。正直関わりたくもない気がしたが、恐らく彼女の声なので、意識せずとも佐久早の足は速くなる。階段の踊り場まで登り切ると、そこには彼女と、彼女の友達がふたり。そして、割れた音の正体は花瓶だった。

「ちょ、だいじょ、や、え」
「名前大丈夫だから、ちょっと血が多いだけだって」
「だ、だって、……し、しけつしないと」

 彼女は佐久早の存在にも気付かずに、血がたらたらと流れる友達の指にハンカチを巻き付ける。

「ほ、保健室行ける?あ、あと片付け、えっと」
「名前ちょっと落ち着いて」

 友達は自分が花瓶を落としてしまったこと以上に、泣きそうになっている彼女のせいで、逆に落ち着いてしまった。だいたい状況が読めた佐久早はふたりに声をかける。

「名字」
「え、……さ、さくさくん!?近寄っちゃだめだよ!指怪我しちゃうから!」

 彼女はたださえ動揺しているのに、佐久早の登場で余計に動揺してしまう。

「俺先生呼んでくるから、そいつ連れて保健室行って」
「……で、でも……、お願いしてもいい?」
「うん」
「佐久早くんごめん〜!私からもお願い!」
「お前は自分のこと気にしろ」
「はい〜」



 翌日、友達は指に包帯をぐるぐる巻きで登場した。幸いにも、傷跡が残らないだろうと言われている。彼女は友達に泣きついて、一日中引っ付いている。だから、佐久早はタイミングがつかめなかった。

「名前ごめんね。ハンカチダメにして」
「いいよ〜!そんなの!」
「返そうと思って、買いに行ったんだけどなかった」
「い、いいよいいよ!
 ポケモン人気だから、すぐ売れちゃうんだよね」
「何で嬉しそうなの」
「いやあ、自分が好きなもの人気なの嬉しくて」
「ポジティブか。あ、私トイレ行ってくる」
「!」
「来なくていいからね!」
「うっ、でも……」
「心配しすぎ!」

 友達に強く拒否されてしまった彼女は大人しく席で待っていることになった。

「名字」
「さ、佐久早くん、き、昨日はありがとう」
「先生呼んできただけ、だろ」
「で、でも、すごい助かったよ!」
「……これ」
「うん?……これっ!」

 彼女は一瞬机に置かれたものが分からなかった。がしかし、すぐに限定のショップ袋に目を見開く。中を見ると、昨日血まみれにしてしまったハンカチがあった。

「どうして?」
「名字には二回も助けてもらった」
「そんな気にしなくても」
「俺が嫌なんだよ。あんまり借りは作りたくない」
「……」

 佐久早の言葉に、彼女は目を丸くして、くすりと笑う。佐久早はなんだよ、と彼女を軽く睨み付けた。

「いや、なんか佐久早くん武士みたい」
「は?」
「ごめんね。じゃあ、お言葉に甘えて」
「……」
「佐久早くんありがとう。お気に入りだったから、嬉しい」

 彼女が嬉しそうに笑った。佐久早に笑いかけてくれた。佐久早は彼女の笑顔を真っ直ぐ見れなかった。マスクの中の口元がにやけそうで、わざと尖らせた。

6 

「名字逃げるな」
「無理です!」

 彼女は無謀な挑戦の最中である。全国でも騒がれるスポーツ選手相手に追いかけっこで勝とうしているのである。いや、勝とうというか、逃げようとしているのである。



 今日も今日とて佐久早のファンである彼女はさくさくぱんだを食べて、佐久早から貰ったハンカチを大切にスカートにしまって、友達に佐久早の話をしていた。佐久早と絡むことは以前よりも増えた気もしたが、平和に過ごしていた。

「佐久早くんかっこいい」
「そうだねぇ」
「今度の試合も一緒に行こうねえ」
「いいよ」
「佐久早くんがスパイク打ってね、真顔でガッツポーズするの好きなの。かっこいい」
「あーやるね。名前は本当に佐久早が好きだなぁ」
「うん、佐久早くん大好き、うぶっ」

 佐久早とて好意をアピールされることも、告げられることも経験がないわけではない。ただ気になっている子から、思いがけない好意を示されたら、動揺するし、素直に嬉しいとも、思う。彼女は廊下を曲がった瞬間、固い壁に顔をぶつけた。鼻を押さえながら、顔を上げると、マスク越しでも分かるほど、顔を真っ赤にした佐久早がいた。佐久早の後ろに居た古森が曖昧に笑っている。

「さ、さくさ……くん」
「名字、俺のこと好きなの?」
「えっ……、ふあんとして、ふぁ、ファンとして、好きです?」
「はぁ?」
「え?」

 彼女の言葉に佐久早の表情が一変する。彼女もどうして佐久早が怒ったのか、正直分からない。ただ佐久早の機嫌が良くないことと、自分の身が危ないことは分かった。そして、本能で次の瞬間逃げ出していた。

「……ふざけんな」

 佐久早も本能なのか、彼女を追いかけて走り出してしまった。

「え……?佐久早くんって、名前のこと好きなの?」
「あの様子だと、そうだね」

 元クラスメイト同士の古森と友達はふたりを目で追った後に、互いに肩をすくめた。



 どうしよう、どうしよう。彼女は廊下を走って、曲がって、階段を上って、屋上に向かって逃げようとした瞬間に掴まった。右腕を掴む手は大きくて、とても熱かった。ぐいっと引っ張られ、そのまま佐久早の腕の中へ閉じ込められた。

「うあ」
「名字、意外にすばしっこいな」

 彼女は佐久早の荒い息遣いに、心臓がどくどくと脈を打ち始めて死にそうになる。たださえ走って苦しいのに。佐久早の腕の中で、熱くて、嗅いだこともない匂いがして、へんな感じがする。彼女は怖かった。ただ佐久早に憧れていて、好きで、困っていたから助けただけで、そこには特別に意味も、気持ちもなかった。一方的に見つめるだけで良かった佐久早から、近付かれて、怖かった。

「名字は俺のファンなわけ?選手としての俺が好きなの?バレーしない俺は好きじゃないってこと?」
「え、ええ……」

 佐久早の質問責めに彼女はドン引きである。そもそも、佐久早くんって、こんな人だったけ。いや、そんな佐久早くんのこと知らないけど。彼女はなんて言ったらいいか、分からずに言い淀んでしまう。佐久早は一瞬でも舞い上がった自分がバカみたいで、彼女と自分の好きの意味が違うことがとてつもなくショックで、でも諦めれなくて、もどかしかった。

「……わ、私は、選手としての佐久早くんも、バレーしてない佐久早くんも好きだけど。
 それは本当にあくまでファンとしてであって、傍に居たいとか、そういう意味じゃない、です」

 彼女は言い辛いと正直思ったが、嘘をつくわけにはいかない。佐久早は彼女の言葉に、息が止まった錯覚に陥るぐらい衝撃があった。無意識に歯ぎしりしてしまう。彼女は自分を抱き締める腕の強さが強くなって、少し痛かった。

「………ど、どうして私なの?」
「俺が知りたい」
「!」
「好きで名字のことを好きになったんじゃねぇ」

 こんな告白ってあるだろうか。好意を告げられているはずなのに、彼女はなんだか怒られている気分だった。やばい、意味もなく謝りたくなってきた。

「でも、好きになったんだから、仕方ないだろ」
「んっ」

 いたい、くるしい。彼女は佐久早の言葉に胸が締め付けられた所為なのか、佐久早が強く抱き締める所為なのか、分からなかった。佐久早の熱は少しだけ、彼女に伝染していた。その熱は防ぎようもなかった。佐久早は彼女の肩を掴んで、真正面から彼女の顔を見つめる。そこには佐久早と同じくらい、顔を真っ赤にして戸惑っている彼女の姿があった。その表情に佐久早の本能が嗅ぎとる。

「や、ちかい、よ」
「絶対無理なわけ?」
「え……?」

 とん、と彼女の背が壁に当たる。佐久早はぐいぐいと彼女に迫る。唇が触れそうな距離で、佐久早が彼女の目を強く見つめる。逸らすことも許さない圧に、彼女は眉を下げながら佐久早を見つめ返す。

「俺のこと、恋人として見るの本当に無理?絶対?可能性はゼロ?」
「……」
「答えてよ、名字」

 佐久早の熱い手のひらも、言葉も、眼差しも、彼女の気持ちを揺るがすには十分な効果があった。佐久早の熱に浮かされた彼女は項垂れるように、首を横に振る。

「可能性あるってこと?」

 力なく彼女の首が縦に動いて、佐久早は彼女を思い切り抱き締めた。



「ちょっと待って」
「名前なんで逃げんの」
「き、きすなんて、できない!」
「名前は俺の恋人だろ」
「そうだけど、ファンでもあるの!ファンはスターとキスしない!」
「……俺のファンやめろ」
「ひど、ひどい!」
「じゃあ、俺の恋人やめる?」

 少し経ってもふたりの関係は相変わらずだった。少しでも彼女に近付きたい佐久早と、ファンと恋人としての境界を上手く切り替えられない彼女の攻防は今日も続いている。痺れを切らした佐久早が思わずそんなことを言えば、彼女の瞳が揺れる。そして、ゆらゆらと揺れて、薄く膜が張って、ぽろりと零れた。佐久早は彼女の変化にぎょっとして、慌てて彼女を引き寄せる。彼女は佐久早の胸に掴まって、唇を噛んだ。

「名前ごめん。ごめん、冗談で言っていいことじゃなかった」
「さくさくんの、ばか」
「さくさくパンダ買ってるやるから、泣くな。泣くなって」

 佐久早はぽろぽろ流れる彼女の涙を指で拾って、おでこをこつん、と合わせる。正直、彼女が泣くほど自分と別れることに抵抗があると思っていなかった佐久早は嬉しい気持ちもあったが、彼女の涙は予想以上に佐久早の心を痛めさせた。俺のことで心を動かしてほしいけど、泣いて欲しくはない。

「名前に泣かれたら、困るんだよ」
「じゃあ……もうちょっと、ぎゅっとして」
「分かった」

 まだまだ、このふたりの攻防は続きそうではあるが、恋人としても成長はしている……のかも。



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