音楽の鑑賞時間は楽だが眠たい。宮侑は欠伸をしながら、教室へ戻っていた。ぼやけた視界の中で見つけた後ろ姿に、慌てて口を閉じた。名字が一人で歩いていた。今すぐに話しかけて謝りたくなったが、不自然に歩幅を小さくして気持ちを押さえつける。視線も逸らそうとするのに、やはり彼女のことが気になって逸らせない。「あ」小さい呟きが聞こえて、振り返った彼女と目が合った。ばっちりと、互いに視線が合ったと分かるほどだ。彼女は侑に気付くと、反射的に両手を胸元に引き寄せて眉を寄せた。その怯えた表情に今まで一番心に来た。罪悪感に苛まれるとは、まさにこのことだ。


「みやくん」
「え」


 彼女が自分の名前を呼んだことに驚いた侑は、思わず手に持っていた教科書を落としてしまった。彼女は侑の落とした教科書を拾って、侑に差し出す。侑は形だけは受け取りながらも、上手く口が動かなかった。彼女になんて言って謝ろうか、なんて散々考えたのに。いざ本人を目の前にすると、言葉が出てこない。普段、「よう回る口やな」なんて嫌味を言われるほどなのに、口を開くこともできない。


「宮くん、あのね」
「……」
「ありがとう」
「……は、なんて」
「角名くんから聞いて……噂の誤解解いてくれてるって、そのおかげで最近……過ごしやすくなったから」


 いやいや。意図的に噂を一人歩きさせたわけではないとしても、彼女に非はない。ただ昔迷惑をかけられた女の子に、侑と治のようにそっくり似ていたから、という理由だけで彼女を蔑ろにしていいわけがない。謝るのはこっちで、ましてや礼を言われる筋合いもない。侑は混乱して、余計に言葉が出てこなくなった。


「えっと、急にごめんね。じゃあ私教室に」


 あんまり反応が返ってこない侑の様子に、内心また無意識のうちにやらかしたかなと不安に思いながら彼女は背を向けようとした。その姿がこないだ見掛けた角名に肩を抱かれて去って行く後ろ姿とダブって見えた。何故か、侑には重ねて見えてしまった。彼女の細い手首を掴むというよりは、触れるようにつかまえて、引き留める。侑の大きな手の中で、彼女の細い手首が不安がるようにびくんと揺れた。些細な彼女の反応に、資格もない癖に侑の胸はずきん、と痛みを覚える。表面上には見えないのに、確かに痛みはある虫歯のような、嫌な感じの痛みに似ていた。


「……待って」
「宮くん?」
「……ごめん。俺名字さんのこと、知ろうともせずに、確かめんと嫌な思いさせて」


 侑は彼女から視線を逸らさずに、じっと真っ直ぐ見つめたまま告げた。ずっと直接言いたかった気持ちを。そこで、侑は自分の目を疑った。今まで度のキツイメガネをかけていたのか、と錯覚するほど、目の前の名字と記憶上の女の子は重ならなかった。

 やっとクリアな目で彼女を見ることが出来た侑は唖然とした。
名字……、名字名前という女の子はこんなにも可愛かっただろうか。侑は急に胸やけがして、思わず口を押える。

「宮くん?だいじょうぶ?具合悪い?」
「いや、だいじょうぶ。何もないよ……名字さんほんと」
「……えっと、良かった」
「?」


 彼女の言葉に口をおさえたまま侑が首を傾げると、彼女は眉を下げて小さく笑った。


「ちゃんと宮くんと普通に話せるようになって、良かったなって」
「……うん、俺もそう思う」

 きっと中学時代の女の子の存在がなければ、名字と侑は普通のクラスメイトとして出会っていた。そこからどんな関係に発展するかは分からないが、少なくともこんな風にはなっていなかった。


「名字さん……虫のいい話かもしれへんけど、これから話しかけてもええ?」
「私に?」
「名字さんに、俺が話しかけても」
「もちろん」


 彼女は何でもないように、にこっと笑う。その素直さに、侑はくらりと眩暈がした気がする。俺が言える立場やないけど、名字さん無防備な気がする!素直か!いや、彼女に意地悪しようだなんて、侑は一ミリも思っていない。いないが、彼女があまりにも素直に侑のことを受け入れて、笑顔を見せるものだから、つい侑は失礼なことを考えてしまう。一年険悪な関係だったのに(あくまで一方的だが)、こんなに呆気なく自分に嫌悪を向けていた相手に気を許している彼女に、侑は心配になる。


「名字さん知らんおっさんには付いて行っちゃあかんの知っとる?」
「……知ってるよ」
「知らんおっさんから貰ったもん食べてもあかんよ?」
「食べないよ」
「あめちゃんでも」
「あめ……でも食べないよ」
「今の間はなにかな、名字さん」
「……こないだ病院行ったときに、隣の座ってたおじさんに飴貰って」


 彼女は怖かった侑の目が、視線が、こんなにも変わって見えるのかと驚いていた。真剣に、温かく自分を見つめる侑の目は自分を睨んでいた目と本当に同じなのだろうか。見下ろされても、怖くない。


「あー……確かに名字さんはあめちゃんあげたくなる雰囲気やけど、
 うん、まあ、それくらいはセーフかもやけど」
「セーフで良かった」


 彼女と侑はふたりで笑っていたら、変な間が出来てしまった。少し前までは、何を考えているか分からない相手だったのに。今では普通に話せている。この普通を侑は逃したくないと思った。


「名字さん」
「はい」
「あんな名字さんのれん」


 次の瞬間、彼女の視界から侑が消えた。その代わりに、ペットボトルを片手に持った角名が現れた。角名は彼女に気付くと少しだけ笑って、「一緒に教室に戻ろ」と彼女に声をかける。彼女は角名の誘いに頷いている間に、足元から呻き声が聞こえてやっと侑の行方を知ることができた。


「み、みやくん、だいじょうぶ?」
「角名絶対許さへん……今日の部活覚えとけよ」
「侑は手が早いんだよ」


 わき腹を手で押さえて角名を睨み付ける宮に寄りそうように、彼女がしゃがみ込むと侑は目を輝かせる。人懐こい笑みで彼女に近付こうとするが、彼女は角名に腕を引かれてしまう。


「名字さん授業始まっちゃうよ、行こう」
「でも宮くんが」
「いいからいいから」

 彼女は角名に腕を引かれながら、何度も後ろを振り返った。侑はスタスタと歩いていく角名の背中を睨み付けたい衝動を我慢して、彼女に向かって笑顔で手を振ってみせる。彼女も侑の無事が分かって安心したのか、笑い返してくれた。


「……やっぱ名字さんかわええ」
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