「あ、名字さんおはよう」
「おはよう」
「眠そうやなぁ」
「昨日ちょっと漫画読みすぎちゃって」
「続き気になったまま寝るのちょっともやるもんなぁ」
「そうそう。だからつい」
「気持ちは分かるけど、体調は崩さんようにな、あ、銀!」

 後ろからひょっこり現れた侑は、また話しかけてくるようになった。ただ会話の目途や近くにチームメイトを見つけると、彼女に「またな」と笑いかけて去っていくのだ。以前は周りが止めにかかるか、予鈴が鳴るまで彼女のずっとそばに居たのに。居たがったのに。彼女は侑の変化に驚きながらも、穏やかな心で、銀島に駆け寄っていく侑に手を振る。

 やっと見つけた気がした。うん、この距離感が丁度いいかも。変に侑くん相手に気に病まないし、周りのことだって気にならない距離感だ。彼女はやっと自分の心に平穏が訪れたのだと信じていた。



「なぁなぁ、稲荷!」
「げえ、また来た」
「あんなぁ今日名字さんから話しかけに来てくれてん」
「へえ」
「稲荷のアドバイスのおかげや!これからも頼むで!」
「いや、そんな大層なもんじゃないけど……え、これからも?」

 園芸部の友達から水やりを頼まれた稲荷は放課後、体育館の近くの花壇の水やりをていた。ホースで満遍なく水やりをするだけ、簡単なお仕事のはずだった。今は休憩中なのか。侑は運動靴に履き替えて、わざわざ稲荷の傍まで駆け寄ってきた。彼女から話しかけられてよっぽど嬉しいらしい。侑は花壇の前にしゃがみ込んで、「お花かわええな〜」と浮かれた笑顔で言っている。稲荷はうわぁ……と引いてる表情を隠さずに、ため息をついた。おかしい。あくまで私は名前の味方で、なるべく名前の負担を減らそうとしただけなのに。まさか名前の心労の原因から、アドバイザーという認識をされてしまった。

「稲荷は具体的にアドバイスくれるから助かんねん」
「すまんなぁ稲荷。やっぱり、コイツはポンコツやったわ」
「あはは。侑が人の気持ちちゃんと分かる子だったら、そもそもこんなことになってないでしょ」

 なんか来たし。稲荷はわらわらと集まってきた治と角名に対して、表情は隠さなかった。そもそも、角名と治にお願いしたことだったのに。ジト目の稲荷に、治と角名は面目ないと眉を下げて、お詫びに稲荷はパックの紅茶を貰った。しかも、彼女の分まであった。今頃委員会で必死に資料作り励んでいる彼女に後であげようと、稲荷は有難く頂戴する。彼女は文化祭の運営委員で、今日はパンフレットをひたすらホッチキス止めする作業なのだと、稲荷に愚痴を零していたのだ。

「アドバイスって言っても、侑くんへの名前の気持ちが可もなく不可もなくなった所からは……ちょっと」
「な、ここまで来て見放さんといてや」
「ここまで?むしろやっとスタート地点に立ったの間違いじゃ……?」
「むしろ侑が頑張っていいことにはならん気がする」
「うん、角名くんと治くんの言う通りかも。
 強いて言うなら、今より名前から話しかけるようになったら、侑くんから動いてもいいのかも?」

 稲荷が小首を傾げながら言えば、侑はガーンと固まる。今まで彼女と話すことを我慢しただけでも、辛かったのに。さらに我慢しなければならないのか。侑の心情が手に取るように分かる三人は目が合って、ため息をつく。

「好感度って上げるよりも、下げる方が簡単だからね」
「ひい」
「せや。侑ここまで来たからこそ、辛抱しいや」
「そうだよ。後は上げるだけなんだからさ」
「……」

 侑は項垂れるように頷いた。いや、頷いたつもりはなく、項垂れただけかもしれない。



「いなちゃん……最近侑くんと仲良くない?」
「そう?」

 稲荷は彼女の唐突な言葉に首を傾げる。彼女は机の上に頬杖をつきながら、唇を尖らせた。最近ふたりで喋っているときに、バレーの話題が多かったり、あ、これ侑くんが好きって言ってたヤツとか、稲荷が楽しそうなのだ。

「園芸部の手伝いしてるから、かな」
「なんで?」
「園芸部の花壇って、男バレが使ってる体育館の近くだからたまに話すの」
「ふぅーん」
「何嫉妬してるの?」
「ちょっと……たださえ、いなちゃん私と違って友達多いのに」
「名前だって最近喋れる子増えてきたでしょ」
「そ、そうだけど!いなちゃんは特別なの!」
「はいはい」

 全然私の気持ち分かってない。伝わってない。彼女はぶすっとして、稲荷の頭にぐりぐりと顎を押し付けた。

「ちょっと痛い!」
「し〜ら〜な〜い」



「侑くん」
「名字さんどうしたん?」

 侑はなんでもない笑顔を作りながら、内心は歓喜の嵐だった。移動教室の帰りを呼び止めた彼女は侑の笑顔にほっとしたように笑う。

「あの、あのね」
「侑くんこないだ言ってた漫画持って来たよ、あれ名前?」
「あ、いなちゃん」
「この漫画めっちゃ読みたかったヤツ!稲荷ありがとお」
「どういたしまして。名前またね」
「う、うん」

 丁度廊下の角で、侑の隣にいた彼女に気付かなかった稲荷は目を丸くする。そして、すぐに色々と察した稲荷は侑が漫画を受け取ったことを確認して、教室へ戻って行った。ほくほく顔で漫画を抱き締める侑を見上げて、彼女は違和感を覚える。不安だった。気付いたら、侑のブレザーの裾を引っ張っていた。

「名字さん?」
「あ、ご、ごめんね」
「ええけど、どうかしたん?顔色悪いで」
「……なんでも、ないよ」
「ならええけど。さっきなんか言いかけたけど、俺に何の用やったん?」
「え、えっと……」

 彼女は後ろに持っていた紙袋を隠したままだった。稲荷から聞いていた。自分もハマってる漫画を侑が読みたいと言っていた。よく考えれば分かることなのに。最近いなちゃんは侑くんと仲が良かった。いなちゃんが侑くんに取られそうで怖かった。ふたりに置いて行かれるの嫌で、侑にわざわざ漫画を貸そうと思ったのに。自分が貸したと言えば、三人で話す機会が増えて、稲荷と侑の二人きりを邪魔できると思った。でも、おかしい。わたし、いま、いなちゃんのことやだって思った?

 誰よりも大事で、大好きな稲荷が一番のはずなのに。思ったよりも、稲荷と侑が仲が良かったから、疎外感を感じているだけだろうか?それとも、……

「あ!なんか名字さん後ろに隠しとる!うまいもんでも持っとるん?」
「え、えっと」
「……これ稲荷が持って来た漫画?」
「ええっと、いなちゃんが侑くんが読みたいって言ってたって聞いて、持って来たんだけど……いらな、え?」

 彼女の手からやや乱暴に紙袋が侑の元へと渡る。彼女は呆然として、侑を見上げるが、侑はにんまりと笑うだけだった。

「名字さんが俺に持って来てくれたんやろ?」
「そ、そうだけど……いなちゃんのもあるし、二つもいらないでしょ?」
「でも、二つあっても困らんやん?」
「え、ええ?」

 余裕で笑う侑の笑顔に、彼女の頬が熱くなる。以前の睨んできた侑とも、バカみたいに擦り寄ってきた侑とも違う。やさしいけど、いじわるだった。でも怖くない。でも心臓に悪い。背の高いところから、意地悪そうに細めて笑う侑はいつもより大人っぽく見えた。

「名字さんが俺に持って来てくれたことが嬉しい」
「!」
「全然いらんくない。むしろ、ありがとお」

 そして、侑はふにゃりと柔らかく微笑んで、漫画の入った紙袋を大事そうに抱えて教室へと帰っていった。彼女は手を振ることもできずに、侑の後ろを見届けることしかできなかった。ふと、背後から視線を感じた。まるで、家政婦は見た!かのように、稲荷が教室の扉から覗いていた。

「……名前」
「い、いなちゃん、全部見てたの!?」
「見てた」
「……」
「落ちちゃったんだー」
「なっ!ちが、違うから!」
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