「もうええと思う?」
「んーもうちょっと」
「もうちょっとってどんくらい?」
「一か月?」
「!」

 稲荷は絶句する侑の表情が面白くて、くすくすと笑う。最近稲荷といっぱい話すようになった侑は稲荷の言葉が本気ではなく、からかわれているものだと気付いて、眉を顰めた。稲荷はうーんと少し考えるふりをして、大事なあの子のことを思い出す。そして、自分の立場も思い出して、やっぱりくすくすと笑ってしまう。自分の、今の立場の複雑さに笑えてくるものだ。本人は一貫して何にもしてないのに、周りが勝手にこじれていくのだから、面白くてたまらない。

「まあ、二週間くらい?多分もうちょっとしたら、なんかあるよ」
「……稲荷がそう言うなら、信じるわ。稲荷の言葉当たるからな」
「あはは」

 全部適当に言ってるだけ、なんだけど。

「そう言えば、漫画明日返すわ」
「面白かった?」

 稲荷の言葉に、侑は大きく頷くと印象に残ったシーンや好きなキャラについて語り始めた。侑の早口に若干稲荷は置いてきぼりを食らいながらも、稲荷も楽しくお気に入りの漫画について語り合った。



 侑はでれでれとしてしまいそうな頬を引き締めて、なんとか爽やかな笑顔に留めて、彼女の言葉に頷く。最近は侑からよりも、彼女から侑に話しかけることが多かった。侑と彼女は中庭のベンチに座って、先日彼女が貸した漫画について話したり、侑が最近ハマっているバンドについて話していた。彼女はニコニコと侑の言葉を楽しそうに聞いていた。ときどき、侑のスマホを覗き込んで、侑の腕や肩に彼女の頭がぶつかると、侑は面白いくらい、びくっと反応した。彼女は眉を下げて、ごめんねと謝りながらも、本当は全然ごめんねとは思っていなかったりするのだ。

 侑の頬が赤いことには気付かないふりをして、彼女は侑のスマホを熱心に見ているフリをする。次のMVを見せようと、指を滑らせたとき、侑はアッと声を上げた。

「これ稲荷も好きなヤツやん」
「そ、そうだね」
「あ、丁度ええとこに稲荷おるやん。いな」
「だめ」
「?」

 侑は丁度渡り廊下をとことこと歩いている稲荷に、声をかけようと口を開きかけた。彼女の手と口が勝手に動く。侑の上げようとした片手は彼女に邪魔をされて、変な所で止まってしまった。侑はきょとん、として彼女を見下ろす。ベンチに座っていても、彼女は侑より小さかった。彼女は自分の行動に驚きながらも、もう一度「だめ」と繰り返した。スマホを持っている右手、侑のブレザーの袖を強く握る。

「え、えっと、……今私と話してるから、だめ」
「……」

 彼女は自分の発言に頬を真っ赤にして、唇を噛む。自分で変んなことを、自分勝手なことを言っている自覚があった。恥ずかしかった。でも、それ以上に、今のふたりの空間を守りたかった。誰にも邪魔されたくなかった。侑にも、同じように思ってほしかった。侑はぷるぷると小さく震えて、ワガママを言う彼女の小さな頭を見下ろして、我慢できずにニヤけそうになる。彼女は俯いていて、侑がどんな顔をしているかは知る由もない。

「そうやなぁ」

 侑は皺になるほどブレザーの袖を掴んでいる小さな手を見つめて、目尻を下げる。変な所で止まっていた左手を、彼女の小さな手に重ねた。小さな手はびくり、ともっと小さくなってしまった。冷たい手だった。侑は小さな手に指を絡ませて、手を繋ぐ。彼女は侑の行動に驚いて、真っ赤な顔を隠さずに、顔を上げる。侑は目尻を少しだけ赤くしていたが、穏やかに甘ったるい笑顔で彼女を見つめていた。

「今は名字さんとふたりで、お話する時間やからなぁ」
「うん…侑くん、ありがとう」
「んーん」

 彼女が侑の手をぎゅう、と握り返せば、侑もやさしく握り返した。


 
 もはや恒例となってしまった定期的な侑の報告会に稲荷は珍しく目を丸くして、侑に拍手を送った。ふたりは先日侑と彼女が座っていたベンチに座って、話していた。稲荷は中庭近くでミーティング中の友達を待っている最中に、侑に捕まったのだ。

「え、それ実質付き合ってるじゃん」
「そう思うやん!?……でも」
「?」

 稲荷は目の前でもしょもしょとしながら、人差し指を突き合わせる侑に首を傾げる。どう見ても両想いではないか。あとは告白するだけではないのか。以前の侑なら、こっちが引くくらい喜んで、さっさと告白でもしそうなのに。

「あ!その顔!さっさと告白すればええのにって思っとるやろ!」
「うん」
「俺だってそうしたいところやけど……でも」
「でも?」
「いざ告白して、今度こそ本当に名字さんと話せんくなったらって思うと、簡単に言えへん」
「……うわ、侑くんガチじゃん」
「なっ!俺は最初からガチや!……最近稲荷、角名と治に似て来てへん?」
「適度に弄った方がいいって言われてるから」
「なんやそれ!」

 俺は真剣に悩んどるのに……、とぼやく侑に、稲荷はカラカラと笑った。



「じゃあね、名前」
「う、うん……」

 デジャヴだ。彼女は特に気にする様子もなく、呼ばれた友達と肩を並べて去っていく稲荷の後ろ姿にじりじりと胸が痛む。まるで、自分が稲荷を追い出したみたいになってしまった。隣の侑は頬が少し赤かった。

 自分と居るときよりも、侑は稲荷と居るときの方が自然体な気がした。やさしくて、穏やかな侑の方が良いくせに、侑のひょうきんな所をあまり見せて貰えないことがちょっと、嫌なのだ。中庭で楽しそうに話すふたりを見つけて、ふたりが何を話しているか気になるし、でもなぜか話に入っていけない自分に苛立ちを感じで、微妙な距離感で立ち尽くしていた。そのうち、稲荷の方が先に彼女の存在に気付いて、おいでおいでと彼女を呼んだのだ。そして、稲荷はお決まりのように去っていく。侑と彼女を、残して。

 侑はどこか落ち着きがなかった。そわそわ、している。彼女はそんな侑の様子に気が付かないくらい、ご機嫌斜めだった。全てを分かったように振る舞う稲荷にも、自分以上に稲荷と仲良くする侑にも、何よりふたりの仲の良さに疎外感を感じて嫉妬する自分が一番嫌で、とても苛立ちを感じた。

「侑くん」
「うん?」
「いなちゃんと何話してたの?」
「エ」

 彼女はもうすっかり癖になっていた。侑のブレザーの袖を掴むことが。侑はブレザー越しの小さな指先の感触に、頬を赤くする。

 正直、どうしてこんなにも彼女のことが好きなのか分からない。彼女のことは可愛いと思うし、性格だって悪くない。話してて、楽しい。でも、彼女にそこまで執着する必要があるんだろうか、と時々正気に戻るような感覚がある。でも、そんなこと無意味なのだ。彼女が目の前に現れて、彼女に見上げられると、並べた理由は理屈は吹っ飛んで、ただただ好きだなぁと思ってしまうのだ。他人から詮索されることは嫌いだし、面倒だし、不快なはずなのに。彼女の不満そうな、何か言いたげな表情に、侑はニヤニヤとしそうになる頬を、へらりとするだけに留める。

 何も言わないだけで、困ったように笑う侑に、彼女の眉間はひと際険しくなる。そして、彼女らしくない言葉が口から飛び出してきた。

「いなちゃんに言えるのに、私には言えないの?」
「あー、うん、言えへんなぁ。ごめんなぁ」

 彼女はガーンと固まった。恥ずかしいという感情もあったが、確信があった。侑は自分になら教えてくれると。ちょっと甘えれば大抵のわがままは聞いてくれると思っていた。うぬぼれていた。でも信じたくなかった。

「侑くんって私のこと好きじゃないの?」
「え」
「あ」

 ふたりそろって、目を丸くして、見つめ合う。彼女は自分の口を手で隠して、小さく首を横に振った。ちがう、ちがう、そんなつもりはなかった。誰に言うわけでもなく、彼女は自分の頭の中で繰り返し呟いた。ぽかん、と驚いている侑の顔を見上げて、彼女はくしゃり、と顔を歪ませる。侑とは、どうして中々上手く行かないんだろう。いつも侑に振り回されている気がする。彼女はどこにぶつけていいか分からない恥ずかしさに、苛立ちに、勝手に足が動き出す。こんな顔の自分も見せたくないし、あんな顔の侑も見たくなかった。

 侑はこれだ、と思った。浮かれていた気持ちが吹き飛んで、侑の脳内に警告音が響く。今、この小さな背中を逃がしたら、終わりだと。ああ、やっぱり、稲荷には未来見えとるやろ、絶対。

 彼女は侑に手を掴まれて、勢いで振り解きそうになる。でも、振り解けなかった。彼女の手を掴む大きな手は、震えていた。そして、弱弱しい力だった。彼女が少しでも力を入れたら、振り解ける力だった。彼女はそんならしくない侑に、戸惑ってしまった。彼女はそっと、後ろを振り返る。本当は見せる顔なんて、ないのだけれど。

「あ、あつむくん……?」
「好きや」
「!」

 侑の目に見つめられて、彼女の鼓動は止まってしまう。いつもと違う、全然違う、侑の表情に胸が苦しくなる。そんな真剣に、苦しそうに、私を見つめないで欲しい。熱く彼女を見つめる侑の目に囚われていた彼女が、あることに気付く。とても冷たかった。情熱的な目とは対照的に、侑の大きな手はとても冷たかった。止まっていた鼓動が動き出す。とくん、とくん、と鼓動が打つ度に、侑への愛おしさが溢れていくようだった。彼女は侑の大きな手を、両手で包み込んだ。彼女の行動に、侑は無意識の内に唾を飲み込んでしまう。

「私も……」
「え」
「私も、侑くんのことが好きです」

 彼女は眉を下げて、白状するように口を開いた。

「……ほんま?」
「ほんまです」
「え、名字さんが俺のこと好き?」
「好き」
「……」

 侑は自分の手を包み込む柔らかな温もりに、困ったような微笑みに、何より一番聞きたかった言葉に、固まってしまった。侑くん?と不思議そうに、彼女が侑の顔を覗き込む。

「え、あ、……名字さんが俺の彼女になる、ってこと?」
「え?うん、えっと、私は恋愛的な意味で、侑くんが好きだけど?」
「俺も恋愛的な意味で、名字さんが好きや」
「うん、そうだね。私が侑くんの彼女になるって、ことだよ」
「ほんまっ!?」
「ほんま!」

 中々事態を飲み込まない侑に、思わず彼女は大きい声で繰り返してしまった。侑は大きな目をさらに見開いて、今度は彼女の両手を侑の両手が包み込む。そのまま侑は大きな背中を丸めて、額に包み込んだ手を押し付けると、深く息を吐いた。ぽつり、と呟かれた言葉に、彼女は泣きそうになった。

「名字さん、ありがとう」

 その一言には、侑の色んな思いが込められていた。彼女に対する申し訳なさや、許してくれた彼女への感謝の気持ち、そして、何より自分と同じ気持ちになってくれたこと。彼女は自分の視界の高さくらいにある、目の前の旋毛がとても愛おしいと思った。引き寄せられるように、彼女は旋毛に唇を軽く押し付ける。すん、と嗅いだことのない匂いがした。これ、侑くんの匂い。男の子の匂いだ。侑はビクッと肩を揺らして、顔を上げる。侑の顔は真っ赤だった。

「侑くん」
「は、ハイ」
「私のペースに合わせてくれて、ありがとう」
「名字さ」

 彼女は柔らかく微笑むと、踵を少し上げて、可愛いらしいリップ音を立てた。侑はこれ以上ないほど、茹でタコになって、唇を震わせた。彼女は侑の様子に、満足そうにニコニコと笑った。

 今まで散々侑には振り回されてきたのだ。今度は私が振り回しても、バチは当たらないだろう。あの宮侑が彼女には骨抜きで、敵わない。そんな噂が広がるのも、悪くない。まあ、今度こそ、噂ではなく、事実になる話なのだが。



「侑くん、一つだけお願い聞いてほしいの」
「ん?」

 念願の彼女と両想いになって浮かれている侑は、ニマニマと彼女を見下ろした。もう、何でも来いという気持ちだった。今だったら、どんな願い事でも応えられそうだ。彼女は侑にぎゅう、と抱き着くと、侑の胸に頬を押し付けながら、甘えるように侑を見上げる。

「私以上に、いなちゃんと仲良くしないで」

 彼女の頬は薄っすらと赤かった。かわいいかわいい彼女に、こんなこと言われて、正気を保っていられるか?いや、いられへん。脳内で、侑はゆっくりと首を横に振って、静かに昇天した。 

「侑くん?」
「……」
「え、しんでる……」

〜おまけ〜
侑を応援(弄りまくる)する会にて
隊長:いなちゃん「なった覚えないんだけど」
副隊長:治「一番アドバイスが上手いからなぁ」
平:角名「ねえ、平ってわざわざいる?」

「なんだかんだくっ付いて、良かったねぇ」
「侑のポンコツぶりは面白かったね」
「キョウダイとして大分恥ずかしかったわ」
「ハハ。まあまあ、後半は頑張ってたし」
「うんうん」
「はあ、でもあんな浮かれポンチになっとると、ムカつく。
 ちょっと八つ当たりしてくるわ」
「隊長、副隊長止めて」
「えぇ〜」
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