碌之神


 震える唇で、彼の名を紡ぐことすら、何を発すればいいのかすら分からない。捕らわれてしまった名前は、懐かしい声にただ静かに涙を流すだけ。暫くの沈黙を先に破ったのは、鎧糸の方だった。

「……名前」

 それに彼女は固唾を飲み込む。彼の声は先程とは一変して、冷たい声。

「…誰に、泣かされた」
『………え…』
「誰だ」

 恐ろしいほど低いその声に、名前は無意識に体が震える。誰に泣かされたなど、特にはない。ただ自分が願ってしまった事に腹を立ててしまった。だけど、その原因を作ったと言えば、彼の兄にあたる春睨だ。それを本人に言ってしまったら、どんなことが起こるのか名前は恐ろしかった。

『…、大丈夫…だから』
「…」
『だいじょ、…』
「どこが、大丈夫なんだ」

 遮った鎧糸の声は冷え冷えとして名前の胸の内を貫いた。

「…比企か」
『っ!』
「…まだ、あいつはお前に手を出すのか」
『…ち、が…』
「いい加減宮廷から身を引け。そうすればあいつと関わることはない」
『…その実権を握っているは、貴方の父上でしょう…?』
「…」

 そう、名前は今でも監視され続けている。そして名前の厳重に囲っているのは、鎧糸の父にあたる龍王だ。宮廷から自らの意思で出ることは不可能なうえ、神としての威厳さえも奪われた名前はどこへも行く事は出来なかった。

『それに、比企ではなく、…貴方の兄の春睨様に泣かされたのです』
「…、兄上が」
『ですから、心配は御無用です。……もうご用事はお済みでしょう、お帰り下さいませ』

 これ以上、彼の側にいれば甘えてしまう自分がいる。そう感じた名前は突き放すように言った。

「………ああ」

 あっさりと身を引いた鎧糸は彼女に背を向けて歩き出す。名前は彼がその場から遠ざかるまで、ただその場に突っ立っていた。
 久しぶりに感じた彼のぬくもりは、何一つ変わらず、優し過ぎた。あんなに簡単に自分達は別れたというのにも関わらず、鎧糸は何も気にした様子などなかった。名前はまだ温かさの残る肩をそっと抱いたのだった。



111216



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