伍之神


 彼と初めて出会ったのは、いつのことだっただろうか。凄く、凄く昔の話になってしまうだろう。人の寿命よりも遥か昔の話だ。今ではそんなことを思い出すのさえも、出来ないなんて。それでも、彼が言った言葉を、私は忘れることはないだろう。

≪…触れても、いいか?≫

 無愛想な顔をして、口籠って、漸く発した言葉がそれだった。確かに、その言葉には心底驚いたし、怖いと感じた。だけど、それと同じくらい彼の目に吸い込まれそうで。なんでも見透かしてしまいそうなその目が、私を虜にしたのだ。
 そんな思い出を、今語った所で、どうなることもないのに。

『今更…』

 そっと触れるのは、折られた角の跡。

『いま、さら…』

 こんな痛みを感じることなど。

『い、まさ、らっ…』

 いつまでも、そこから離れられない子供のように。

『っ……』

 何もできない小心者のように。

『どうしろっていうの…!?』

 怯えてばかりで、罪を償うことしか出来ないのに。

『こんな言葉っ…思い出したくもないのに!』

 癇癪を起こした子供のように、喚くことしか出来なくて。

『好きだなんて、どうしてっ…』

 ねぇ、

『好きって、言葉を、欲しがるなんて…!』

 ねぇ、どうして、好きだなんて、好きって言って欲しいだなんて、思うの。

 溢れだした、零れ落ちるそれを止める方法など今はない。今まで散々なにかを我慢して、心の奥底にしまいこんで、鎖に繋いでおいたそれをどうしてあの人は、あんな簡単に、壊してしまうのですか。

 だから名前は気づいてはいなかった。がさがさと音を立てて、何かが自分の方へ近づいてくるのを。嗚咽を漏らしてその場に崩れたまま泣き続ける名前は、ふと耳に雑音が入った。そして音がだんだん自分に近づいて来ているのに気づいてはっと顔を上げた瞬間、音の主は茂みから出てきた。それに、彼女は絶句した。相手も、普段の無表情が嘘のように顔色を変えた。

『………が、いし…』

 彼女は、その名を紡いでしまった。とっさに口元に手を当て顔色を悪くする。彼――鎧糸も困惑した表情を隠せずにいる。そしてなんどか口を開閉したあと何かを音にしようとする。だが、それよりも早く名前はその場から脱兎のごとく逃げだした。



***



 どうして、いるの。どうして、いたの。なぜ、あの場に、彼が、いたの。

 名前の頭の中はそればかりで埋まってしまっていた。そして泣き顔を見られてしまったと、酷く焦っていた。あそこまで鎧糸が表情を崩した所を名前は見た事がなかった。だからこそ、そんな顔をさせたくなかった。

『っ、はっ…はぁっ…』

 息を切らして、もうどこまで来たのか、彼をきっと振りまくことはできたであろう。そう思って、名前はゆっくりと走るのをやめ、近くの木に手を添えて前かがみに乱れた息を整える。目尻にまだ残る涙を袖口で拭って、必死に冷静さを取り戻そうとしていた。

『…っ、は……!』

 それだというのに。顔の両脇から伸びてきた手にその細い体は囚捕らわれて後ろへと引かれた。最早体力が底をついていた名前に抵抗するすべはなく、バランスを崩すがそれは支えられた。

『……っ……や、だ』

 懐かしい、匂いがした。武骨なその手を、知っている。優しく抱く、その腕を知っている。そんなわけはない、と思いたかった。でも、それでも、事実は変えようがなくて。

「………名前」
『っ〜……がい、し』

 耳元で聞こえた優しい声は、一度名を紡いでしまった彼の声だった。



111216



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