『……、』



 ――きっと、だいじょうぶ。

 三輪清花。十六歳。ひとつの転機を迎えた。



 季節は三月下旬。まもなく高校二年生になる彼女は中学三年間、そして高校一年間を過ごした大阪から一人離れ、今日から東京での暮らしを始めようとしていた。もとより東京は大阪に引っ越す前まで住んでいた馴染みある場所なので特に心配事も問題事も不安もない。

 清花は自身の将来を見つめ直し、悩みぬいた末に東京の私立校へと転学を決めた。大阪にいる彼女の両親は渋ることもなく、自身の道を選択した娘に対して寛容だった。少しくらいは反対されるだろうと踏んでいた清花にとっては、拍子抜けするほど呆気なく了承を得てしまい、思わず『ええっ』と驚きの声をあげたのは記憶に新しい。

 東京駅で降りて電車を乗り継ぎ、向かう先は新居。忙しい父母に代わり、こちらに住む長兄が見つけてくれたという五階建てのデザイナーズマンション最上階の503号室。そこが清花の新しい家だ。ちなみに三階にはシスコンを拗らせた長兄が、徒歩十分以内には叔母夫婦の家があるので何かあればすぐに駆けつけてもらえる。自身の手の届く範囲内にと安全を考慮した兄には、感謝よりも恐怖を抱く。
 当初、出費が嵩張ることに遠慮した清花は(かなり頭を捻らせた末に)兄の家でいいと提案したのだが、長兄のシスコンぶりを危惧した両親、それと次兄から断固反対されたため、高校生にして一人暮らしというリッチな暮らしを送ることになった。長兄がとても残念がっていたのは言うまでもなく(その結果彼も清花と同じマンションに引っ越してくることになったのだが)、セコム次兄が安堵の息をついていたことが懐かしい。

 築年数三年と真新しいマンションはスタイリッシュな外観が格好良く、1LDKの室内は高級感漂う、ゆったりとしたデザインになっている。既に大きな家具は長兄に頼んで所定の位置に置かれ、衣服などは先に送っていた段ボールの中にぎっしりと詰まっている。清花は両手を組んでぐっと天井へと伸ばすと、ふうと息をついた。
 これから始まる新生活に心が躍り、そして不安も勿論ある。ただこちらに知り合いも多くいるので、そこまで心配はしていなかった。



『楽しみだなぁ』



 黒の革張りのソファに腰を下ろした清花は、マナーモードにしてポケットに入れていた携帯端末(ちなみに機種変更したばかりの真新しいスマートフォン)が震えたことに気づき取り出した。着信の相手は、中学からの相棒。通話に切り替えて清花はスマホを耳にあてた。



『もしもし?』

≪そっち、着いたんか≫



 変わらない気だるげな声に、清花は小さく笑って返事する。



『うん、いま家に着いたとこ。大阪も東京もそう変わんないけど、大阪が恋しく感じるね』

≪いまホームシックになっとったら、これから大変やろが≫

『んー…そうなんだけどね。ホームシックというか、みんなのあの賑やかな感じが懐かしいなって思う』

≪こっちのノリとそっちのノリは違うてるからな。ま、お前のことやからそないに苦労はせぇへんやろ≫

『だと思う。元々こっちに住んでいた経緯もあるしね。そっちはいま何してたの?』

≪ガット張替えに。ついでにグリップも新しいのに変えとるとこ≫

≪ちょお、財前。誰と電話しとるん?≫



 電話越しに聞こえた懐かしい声に、清花は自然と笑みがこぼれた。



『なんだ、謙也さんも一緒だったの?』

≪謙也さんがラケット新調するいうたから、ほんなら俺も思うて。相変わらず煩いで≫

財前? 財前? 先輩目の前におるからな? ほんで電話の相手は清花やな?≫

≪あー、うっさいっすわ。謙也さんは黙っとってください≫

≪おまっ…! 俺かて清花と話したいわ! 変われ!≫

≪嫌ですわ。通話料金の無駄です

≪浪速のスピードスターは通話も一瞬やっ!



 ぎゃあぎゃあと喧しい電話口に、つい最近の出来事から中学時の思い出が走馬灯のように蘇る。清花は懐かしいなと表情を緩めて、その声に耳を澄ませた。



『ふふっ。二人共楽しそうでなによりです』

≪ずっと先輩らと一緒とか…疲れてまうわ≫

≪なにをぅ!?≫

『そんなこといって。本当は嬉しいんでしょ?』

≪…うっさい、≫


 ――お前がおらんと、なんやつまらんわ。



 ぽつり、と囁かれるように吐き出された本音に、清花は表情に影を落とす。



『……ごめんね。光』

≪謝んな。お前が決めた道や、俺がどうこういうことやないやろ≫

『うん』

≪弱音吐こうが不登校になろうがそれはお前の勝手やし、俺には関係ない≫

『…不登校て』物の例えにしても、酷過ぎやしないか。

≪けど一人で抱え込まんと、連絡はせえ。お前のことや、誰にも言わずにまた塞ぎこんで身を滅ぼしかねん≫

『…うん』



 鼻の奥が、つんとする。喉の奥に、熱い何かが込み上げてくる。その感覚が、別れを告げた日でなくどうしていま、起きてしまうのだろうか。



≪そうなる前に、誰でもええ、ちゃんと話せ。俺らはお前がどこ行ったって仲間や思うてる。先輩らが卒業して俺らが卒業したからいうて、築き上げたもんは変わらんかったやろ。せやからいつでも連絡寄越しや≫

『うん…ありがと。ね、光』

≪なんや≫

『光が男前すぎて、泣きそう』



 既に清花の眦には涙が溜まってきていた。それに受話器の向こうで盛大な溜息がきこえた。



≪阿呆か。こんなんで一々泣いとったら埒あかんわ≫

『そうだね、』

≪財前おまっ、清花のこと泣かせたんか!?≫

≪なんで俺が泣かせたみたいになっとんですか…って、アンタも何泣いとんですか

≪だっ、だって、おま……、聞いとったらお前がそんなに仲間思いやったなんて、知らんかったんやもん!!

≪通りで静かやなと思ったら、立ち聞きしとったんですね。てか「もん」とかキショいっすわ。しかも俺そんな人でなしやありまへん。謙也さんの中で俺どないなイメージやねん≫

≪冷酷非道、悪童、大魔王さ、んぐぎゃッ!!?

『えっ、ちょ、光ッ、謙也さんだいじょうぶなの…?』

≪三年も一緒におって俺のイメージがこないに酷いと思わんかったんやから、当然の報いやろ

『いや見てないから何とも言えないんだけど……謙也さんだって悪気があったわけじゃないだろうし』

≪まったく…、謙也さんといい、花菜といい、どんだけ俺のこと悪評しとんねん≫



 ちっ、と舌打ちが聞こえ、清花は苦い笑みを浮かべる。
 中学三年間財前とクラスメイトで部活動が一緒であった清花は、彼の人柄をよく知っている。良し悪しについては人それぞれだろうが、先ほど謙也が述べたものも一部含まれているため全否定はできない。
 天才と謳われ素直すぎる毒舌家でマイペース、先輩達にすら容赦ない言動、コアなファン(財前君に罵倒され隊)までいたほどだ。だがそれは彼の一面でしかなく、非常に誤解を招きやすい、いや招いても仕方なのだが…。清花の後輩マネージャーの花菜はそんな彼に面と向かって悪魔・魔王諸々と言える数少ない人物である。



『いまに始まったことじゃないでしょう? それに光のこと、白石さん達はちゃんと分かっているし、謙也さんだってからかいたいだけだよ』

≪…お前ほど、皆分かってへんわ≫

『伊達に四年一緒に過ごしてませんよ?』

≪ほんま、お前とおるのが一番楽でええわ≫

『ふふ、そういって頂けて光栄です。新しい相棒探し頑張ってね』

≪阿呆抜かせ。……そっちに会いに行く、待っとれ≫

『ん、わかった。楽しみにしてるね』

≪んじゃ、電話切るわ。そろそろ終わる頃やろうし。……清花、≫

『…なに?』

≪俺は鞍替えするつもりはないで≫



 彼をよく知る先輩達ですら驚くようなその柔らかい声音に、清花は微笑して答えた。



 ――三月半ば。物語は、紡ぎ始める。

Opening

第一章 新生活




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