マギ | ナノ


彼我の峡谷は辰沙を湛える

 弟から預かった従者を見て、紅玉は先程から椅子から立ちあがったり座ったりを繰り返した。夏黄文が数えるのを止めた頃くらいに、彼女は意を決してその背中に声をかけた。

「ちょっとぉ、暗いわよあなた」

 壁に額を付けて、自力で立つのも億劫だと言わんばかりに消沈していた珂燿は、壁に向かって話し掛けていた。

「置いて、いかれた……従者なのに」
「皇子も一人立ちしたい年頃なのでありましょう。貴女の傾倒、依存具合は同僚として目にあまります」
「私の何がいけなかったんだ……皇子だけでなくシンドリア王にも止められたら密航も出来ない……」
「王の御前で吐血したらそれは止められるものであります」
「王の御前で抜刀した奴には言われたくない」
「そ、その話はもう良いでしょう!?」

 世界が終った、と壁に向かっている珂燿に先日の恨みを晴らそうとした夏黄文は塞がっていない傷口を見事に抉られた。

「若君……若君ぃ……」
「だ、大丈夫なの?」
「第四皇子殿下絡みのあれの奇行は有名ですから、相手にしてはなりませんよ姫君」
「でもぉ」
「主人に置いていかれたくらいで、情けないのであります」
「嘘泣きまでして皇女に縋り付いた奴に言われたくない」
「おまっ!」
「嘘泣き……?」
「な、なんでもございませんよ、姫君。ただの空言ですとも!」

 そう……珂燿は白龍に置いていかれたのだ。猫のように壁を引っ掻きながら、珂燿は運命を怨んだ。

 白龍はシンドバッド王との会談で、先頃煌帝国が占領した国の王子、アリババと行動を共にするように命じられた。煌帝国を滅ぼす助力を求める白龍の願いをシンドバッドは保留し、アリババと行動を共にして世界を学べ、と言った……。
 確かに、白龍の世界は狭い。真面目で苛烈な長兄や、大らかで実直な次兄の姿を模倣し、使命を果たす事に心血を注いで、他の同年代の少年のように、遊ぶと言った行為を一切してこなかったのだ。

「よりにもよってザガンだなんて……あんな性悪に……」

 そして、シンドリアの食客であるアリババ達が迷宮攻略に行くようにシンドバッドから命じられた際に、なんと白龍が同行を願い出たのだ。そこまで行動を共にする事は無いでしょうと珂燿は勿論止めた。シンドバッドも初めは難色を示したが結局同行を認めたのだ。
 断れよ、と内心でシンドバッドへのヘイトを溜めながら、珂燿は思い直してくださいと白龍に懇願した。しかし、白龍の意思は固く、それならば己も同行しますと譲歩したが、何故かそれは許しては貰えなかった。
 私従者ですよね? そう問い詰めても白龍は頑として首を縦に振らない。

 いつしか珂燿と白龍の言い争いは白熱してしまい、珂燿は興奮して血を吐いていた。
 いや、その場ではそう説明したが、本当はシンドバッドやアリババ達の前で醜態を晒している事を良しとしなかった白龍が放った「黙れ」という言葉のせいだ。それに逆らおうとした反動で喉が切れた。

 主の命令には、忠実であらねばならない。

 それが不変である初期設定の一つだ。苟且の主であったはずの白龍の言葉に、珂燿を使役する強制力がついてきたのは成長している事の証なのだろうが、それがまずかった。王の目の前で鮮血を吐いたらそれは騒動にもなる。
 結局、白龍と吐血姿を見たシンドバッドの両方から制止がかかり、珂燿はシンドリアの王宮に残されたのだった。

「ああ……若君ぃ……」

 独力で迷宮にあるジンの力を手に入れようとする白龍の姿勢は好ましい。だが、それは間違いだ。珂燿は白龍のものなのだから、珂燿の力は則ち主である白龍の力なのだ。というか色々尤もらしい理由をつけたけど、離れるなんて嫌。珂燿の中にあるのはそれだけ。だから連れていって下さいなんでもしますから! と散々駄々をこねたが、ご覧の通りだ……。

 珂燿をよろしくお願いします。と白龍から頼まれて何やら張り切っている紅玉がいるが、反比例して珂燿からはやる気が伺えなかった。白龍がいないと、まるで水の入っていない革袋のようだ。

「おい、溜息ばかりはかずにもっと生産的な行動をしたらどうだ」
「非生産的な野望を抱いている奴に言われたくない」
「野望?」
「バっ、お前姫君の前で言うな!」
「野望ってなぁに?」
「さ、さあ? 私もこいつの考える事は理解が出来ませんので」

 瀧の様な汗を流しながら、しらばっくれる夏黄文。そして素直にそれを受け入れる紅玉。
 夏黄文は珂燿に何か仕事をしろというが、本国から連れてきた紅玉の従者で人手は全て足りている。こうして部屋の隅でキノコ栽培に勤しもうとしていても誰も気にしないだろう。
 それならば、と紅玉が仕事を珂燿に申しつけた。

「わ、私とお話をするのはどうかしら!?」
「皇女と、ですか?」
「ぇえ、そうよ。光栄に思いなさい!」

 興奮と緊張で紅玉の声が上ずっているが、珂燿は全く興味が無いと気にすることなく紅玉の違和感を流してそのまま会話を続けた。

「はぁ……私は何をお話すればよろしいのですか?」
「それは、勿論。あなたが普段友人と話している事よ」
「おりません」
「え……?」
「同僚はおりますが、私に友と呼べるものはもうおりません」

 紅玉は円らな目を更に丸くした。
 まさか、こんなところに朋輩がいたとは! 孤独な少女は思わず目を輝かせた。

「貴女もなの!?」
「私、も?」
「な、なんでもないわ! だったら、私がお友達になって差し上げてもよろしくてよ。友がいないもの同……いえ、友人の一人もいないのではさびしいでしょう?」
「私は主公さえいれば満足なので」
「あー、姫君。こいつは失礼な事にもこいつ自身が友人と思っていないだけで、飲みに行ったり贈り物をしたり世間話をする同僚は大勢います」
「なっ……」

 紅玉のぼっちとは全く違うタイプである、と夏黄文は暴露した。
 実際、珂燿は同僚によく囲まれている。周囲曰く、放っておけないのだ。珂燿の白龍にはりつく程の溺愛っぷりは周知の事実であるという点。「黙ってさえいれば」という枕詞がつく北方美人である点。また、その他諸々の問題行動から、侍女、従者達の間で可哀そうな子、という称号を獲得していたのだ。そのため、職業病とでもいうべきか、同僚達はついつい珂燿を構ってしまう。それに、裁縫機織りの腕の立つ彼女と懇意にして居れば色々と便利な事もあるという下心を持つ者もいたりする。
 友達が欲しいと思いながらも作れない紅玉にしてみれば、本人が無自覚でそのように大勢の友人がいる等、垂涎の理想ではないか。

「う、裏切り者ぉぉぉぉ!」
「ああ、姫君! お前! 姫君を泣かせるとは何たる無礼を!」
「いや、今泣かせたのは夏黄文殿でしょう」

 おいおいと泣き始めた紅玉を見ても、珂燿はやはり何も感じない。心を揺さぶられる事もない。
 珂燿の琴線に触れる事が出来るのは、今は白龍だけなのだ。それなのに引き離されて……泣きたいのはこっちだ……と思いながら、洋上にあるだろう主の姿に想いを馳せた。

 私のいないところで、泣いてなければ良い……。
 手の届かないところで泣かれたら、私はその涙を拭う事も、慰める事も出来ないのだから。

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