49還霊
気が付いたときには、トイレで泣いていた。
小部屋の装飾、色、空気……ホグワーツで間違いない。
……何故こんなところに? 先程まで大広間にいた筈だろう。
自分の手元や足元、顔の横に下がる長い髪を見て、驚く――女だ。今、自分は女になっている。
そう気づいたときに、他の誰かが入ってくる音がした。じっと黙って耳を澄ませ、様子を窺う。
『出てきていい。穢れた血を殺せ……』
今のは蛇語で――自分の声。
瞬間、すべてを悟った。ここは3階の女子トイレ――秘密の部屋の入り口だ。そして自分は、自分が初めて殺人を行った人物――マートル・ウォーレンになっている。
殺されようとしているのだ。
しかし抵抗できない。生身の体の感覚も、涙を流し喉を震わせる感覚もあるのに、自由が効かない。勝手に体が動き、過去のあの瞬間を繰り返そうとしている。
駄目だ。部屋から出るな。そう念じても動く体は止まらず、自分は鍵を開け、扉を開き――――バジリスクの瞳に射抜かれた。
全身が金縛りのように凍り、細胞1つ1つが死んでいくような感覚に包まれ、意識が浮く。生から切り離される。魂が肉体から離れる不安感。喪失感。虚無感。最悪だ――――。
――――何だ、今のは。
今のが死ぬ感覚。赤子だったハリー・ポッターに死の呪文を撥ね返され肉体を失ったときと似ていたが、より酷い。もう戻れない。分霊箱のような拠り所が無く、生から突き放されていった。残酷な程、一方的に奪われた……。
次に肉体を感じたときには食事をとっていた。きっちりとした正装に身を包み、いかにも金持ちの食事といった内容。
自分はまた、女の手をしていた。食事は家族3人で――――そんな筈はない。自分に家族はいない。
食卓を囲む一人の顔を見て、理解する。自分とよく似た顔――あれはマグルの父親だ。となれば隣にいるのは祖父……そして今自分の意識は祖母の中にあるようだ。
ここはリトル・ハングルトンのリドル邸――ああ、また殺されるのか。自分に。
静かに部屋の扉が開かれ、訪問者が姿を現す。殺意に充ちた赤い瞳だ。
「アバダ・ケダブラ」
重い鉄球で打たれたような感覚――不自然な格好で吹き飛ばされ――酷い痛み――魂が肉体から無理矢理に引き剥がされる――――その苦しみを祖母の体で感じた後、意識が祖父に移り、二度目の死の呪いを味わう。そして更に、意識は父親へと飛ぶ――。
一度でさえ耐えがたい痛みだと言うのに、二度も。そして今まさに杖を突き付けられ、三度目の死の呪いを受けようとしている……嫌だ……やめろ……!
「おまえは、まさか、」
「こんばんは、父上。そして――さようなら」
「やめろ……やめてくれ……うわあああ――――!!」
視界が緑の閃光に奪われる。痛みが駆け抜け、魂が悲鳴をあげた――。
あるときは毒殺され、あるときは磔の呪いで痛めつけられ、あるときは心を読まれて辱しめられ……自分に何度も何度も殺された。
気が狂いそうだった。
痛みを超えた痛み……きっとこれが、自分が殺人を行った数だけ繰り返される。慣れることなどない。一人一人殺された者たちになり、それぞれの感性で苦しみを味わう。
体だけでなく、心も壊された。
何の抵抗もできない無力な自分。生から切り離される度、自分は生きる価値がなく、必要とされていない小さな存在であることを突き付けられている……。そう考え至ったとき、様々な記憶がフラッシュバックした。
孤児院での、自分を煙たがる目――異質なものを見るような目――拒絶の言葉――。
「出て行ってくれたら、どんなにいいか」
「気取りやがって! 普通以下のくせに! あの夫婦にも選ばれなかった! おまえなんて一生選ばれるもんか!」
「化け物……!」
違う。違う! 自分は優れているだけだ!
場面が移り変わる――――。
ホグワーツの中庭、会話の聞こえない位置にあるベンチにエイブリーと座っていた。校舎の方から4〜5人の女生徒がこちらを見ていた。
「トム――失礼、ヴォルデモート。君のファンクラブがあるみたいだな」
「……ああ。あいつらか」
「そうだ。アリアナなんて相当お熱らしい」
「アリアナ……どれだ?」
「何言ってるんだ、あの美人を知らない?」
「あいつらの誰とも話したことが無い。なのに、どうして僕のことが好きなんだろうね」
「そりゃ……君はパーフェクトだ。ハンサムだし、勉強も抜群にできる、監督生様だろう? 言わせるなよ」
それは、見て呉れだけで判断しているようなものだ……人を殺したと知っても、あの女たちの気持ちは変わらないのか?
再び場面が切り替わっていく。次々と。
「蛇語を話せるのは本当?」
「君がサラザール・スリザリンの後継者だったのか……」
「貴方なら本当に穢れた血を一掃してくれる……ついていきます」
「我が君、どうか私めをお傍に――」
こいつらは、力しか見えていない……あるいは恐怖ゆえの忠誠……。
おかしい。自分を優れていると理解し、慕っている連中だというのに――何故充たされない? 何がいけない? 自分は何を求めている?
『ヴォルデモート様……』
ナナシ。
どこか遠くで呼ばれた気がして、胸を揺さぶられる。
ナナシ。おまえが答えを知っている。教えてくれ。
しかし声の出所を探して振り返ると、自分はロンドンの街に立っていた。病院から親子が出てきて、自分の前を歩き始める。
「パパ、ママは治る? 死んだりしない?」
「当り前だ。小さな君を残して、ママが死ぬわけないだろう? ママ、勿論パパも、君を愛してる。君の傍を片時も離れたくないんだよ」
――では自分を残して死んだ母親は?
「おまえが愛されるわけがない!」
声が上から降ってくる。冷たく、敵意のある声だった。真っ暗闇に突き落とされ、自分は地面に伏せていた。大勢の人間に――自分が殺した者たちに囲まれていた。
「今更後悔だと――笑わせるな」
「もっと生きたかったのに!」
「愛する家族との時間を、返せ」
責められ続け、抵抗することも敵わず、死の痛みが繰り返される。心を抉られる。永遠かと思われるような長い長い苦しみの時間。繰り返される。
痛い……痛い……やめてくれ……悪かった…………。
……私はどこから間違えていた? 殺人こそが自分の力の証明――優れた自分と、自分を拒んだものを切り離す行為――それならば、どうすればよかった? 他人を傷付け、虐げることしか、存在価値を示せない。自分の守り方を知らない。
『ヴォルデモート様……!』
ナナシ、どこにいる。
会えないのか。私がおまえを殺したから、姿を見せてくれないのか。
見返りを求めない無垢な愛を受けたのは、初めてだった。今まで受けた好意は皆、容姿や力に目が眩んだものだったのだ。しかし……容姿も力も犯した罪も、おまえには関係なかった。おまえは私のすべてを受け容れた。私の本質を、魂を、愛した。命までも投げ棄て、私を護った。
ナナシ。
おまえを想うだけで心を充たしていく、この感情は何だ。
おまえに会いたくて胸が締め付けられる、この痛みは何だ。
……ああ、解っている。
認めるのが怖かっただけだ。ずっと拒んでいた、ずっと触れたことがなかったものが、自分の中に生まれたことを認められなかった。
ようやく理解したというのに、おまえはいない――――私が奪ったから。
「リドル。お前のしてきたことは、こういうことなんだ。人が死ぬということは、こういうことなんだ」
「その人の未来を奪うだけでなく、その人に会えなくなるということなんだ」
忌々しくもハリー・ポッターの言葉が心に突き刺さり、傷となっていた。殺人が――自分が当然に行ってきたことが――大罪であると気付いてしまった。それ程に、ナナシを失うことは酷い苦しみだった……。
結局――殺人という自分を守る筈だった行為が、他人どころか自分さえも苦しめている。
私は最初から、生き難い存在だったのだ――。
……自分が苦しんでいるのは、まだ命があるからだろう。しかしこの苦しみを乗り越え、生き延びたとしても……ナナシ……おまえはいない。分霊箱まで作って生にしがみ付いていたというのに……おまえ無しの世界に生きる意味を見出せない。おかしいと、笑うか。
死を選ぼう。
ナナシ。願わくば、おまえの許に行きたい。
――――次の瞬間、真っ白な世界に立っていた。
駅のホームのようだ。目の前に真っ白な汽車が到着している。
不思議とキングズ・クロス駅が浮かぶ。11歳の9月1日……自分を素晴らしい魔法の世界へと運んでくれたホグワーツ特急。きっと次の世界へ連れて行ってくれる。
――乗ろう。
「だめ……!」
その声に鼓膜が震えた瞬間――。
体が痺れ、脳に電流が走る。胸にあたたかいものが流れ込んできて、鼓動が速くなる……生きている実感。涙が溢れてくる。涙が頬を伝う感覚に、自分の命を感じる。
駆け寄ってくる足音がして、腕を引かれる。小さな手、心地好い温度……振り返ると、今度こそ確かに、ナナシが立っていた。
ああ……ナナシ、ナナシ。ナナシ!
どれほど焦がれたかわからない。おまえが傍に居るだけで、身体が熱くなる。おまえに見つめられるだけで、魂がみなぎる。希望を見つけてしまう。
おまえを殺した私を、赦してくれるのか。愛してくれるのか。
ナナシはその暗い色の瞳に私を映し、切なげに目を細めた。それは――慈愛に充ちた、聖母の顔だった。
「わたしのところに、かえってきてください」
自分の腕を掴むナナシの手を絡み取り、腰を引く。もう片時もこの女を離したくないと思った。
おまえは私の血液であり、骨であり、肉であり、心臓だ。おまえがいないと私は生きることができない。
「ナナシ」
名前を呼ぶだけで幸せそうに微笑み、私の涙を拭う。
おまえがいとしくて、苦しい。
こんなにも甘い苦しみなら……一生、味わいたいものだ……。
本当はこのまま死にたくなどない――やっと解ったというのに――この感情を――――!
「おまえと、生きたい……」
心を伝え、触れるだけのキスをする。
そのまま白に溶け――――。
お互いの唇から息が漏れる。濡れた唇――生身の体の感触――肺に吸い込まれる酸素――目に舞い込む照明の光――。
――――――生の世界だ。
唇が触れている感覚が消え、目の前が明るくなる。しかし光に目が慣れず、まばたきを繰り返した。漸く慣れてきた視界の中には……瞳を潤ませて微笑む、ナナシがいた。
「おかえりなさい、ヴォルデモート様」
神に感謝するのは、初めてかもしれない。
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