45舞台

気が付いたときには、わたしは真っ白な世界を見ていた。

眼球を左右上下に動かして視界を広げてみても、ただただ白い。後頭部から背中、脚、踵にかけて何かに触れているのを感じて、自分が寝そべっているのだと気付く。ゆっくりと起き上がると、ベッドの上にいるのだと分かった。

「……ここ」

ヴォルデモート様の部屋に似てる……?

正確に言えば、マルフォイ邸の部屋の造りに良く似ていた。天井の高さ、照明、瀟洒な家具……ただ、すべてが白かった。菱型の窓からも白しか見えない。部屋は水蒸気のような靄が充満していて、いやむしろ、靄ですべてが形作られているようだ。似てるけど、あの屋敷じゃない。

何も聞こえない。自分以外、誰もいない。

……どこだろう。わたし確か、ヴォルデモート様とポッターの魔法を受けて……。
と、閃光が当たった心臓辺りを見て、何も纏っていないことに気付く。服はないかと探した途端、手元に黒いワンピースが現れて、わたしは内心驚きながらもそれを手に取った。ここが普通じゃないことはよく分かった。

「!」

そのとき、何か物音が聞こえてくる。バタバタともがくような音で、何かに苦しんでいるような、隠れて恥ずかしいことをしているかのような音だった。

自分以外の何かがいることに慌てて、ワンピースを纏う。驚くことに、ワンピースは一番はじめに与えられたスリット入りのものと全く同じだった。
連れ去られてきた最初の日を思い出す。初めてヴォルデモートに触れられた夜。もう遠い昔のことのようだ。

音は止むことなく、むしろ存在感を増していた。テーブルの下から聞こえる。目を凝らすと何かが見えたが、椅子が連なっていてはっきりとは分からない。

――助けなきゃ。

直感的にそう思って、ベッドから降り、音の方へ向かう。すぐ傍にまで来て、その姿を見つけて、胸を痛いほど締め付けられた。

テーブルの下に、蹲る赤ん坊のようなものが居た。小さな体に不似合いの大きな両手で、血が滲んだ肌を守っている。呼吸は苦しそうで、痛みに耐えるように手足に力を込めたり、ばたつかせたりしていた。

「ヴォルデモート様」

彼だと思った。

痛々しい姿に、声が消え入りそうになる。彼に当たらないように椅子をどかし、手を伸ばす。そっと、触れる。

――その瞬間、彼の意識が入り込んできた。

「トム。今日はニコニコしてなさい」

そう言いながらも自分はニコリともしないエプロン姿の女性が、小さな男の子の髪を整えている。触るな、と彼は思っていた。
不思議だ。わたしは幽霊のようにどこかから彼を見ているのに、彼の感情がまるで自分のもののようだった。トムと呼ばれていた……おそらく幼い日のヴォルデモートだろう。

「どうして嬉しくもないのに笑わないといけないの?」
「そんなことを言っていたら、いつまで経っても引き取って貰えませんよ」

女性は至極面倒そうに彼を窘めた。女性は口にはしていないものの彼が早く出て行ってくれればいいと思っていることを、彼は敏感に感じ取っていた。胸の中に重苦しいものが鬱積する。

家族って、無理して笑って、媚びを売らなきゃいけないものなの?

女性が出て行って暫くして、老夫婦が部屋を訪ねてくる。自分のテリトリーに入られるのが嫌で、開かれたドアを閉めた。手を使わずに。再びドアを開けた老夫婦はヴォルデモートが悪戯したのだと思ったらしいが、ドアから離れたところに座る彼を見て不思議そうな顔をした。しかしあまり気に留めず、朗らかな様子で彼に話しかけ始める。ヴォルデモートは最初こそ上手く微笑んで、理想の子供を演じていた。
しかし、ある台詞を聞いてから顔が引き攣った。

「トムというんだね。実は私もトムなんだ。同じだね」

凡庸な名前。たくさんいる。それが嫌で嫌で堪らなかった。まるで自分が何の価値もないように思えた。

「僕はあなたとは違う」

沈黙が走る。空気の重圧が増し、窓ガラスにひびが入る。異変を感じた老夫婦はヴォルデモートに謝ると、急いだ様子で部屋から出て行った。最後に振り返った老婆は、不気味な怪物を前にしたような目で幼いヴォルデモートを見た。胸の辺りがきりっと痛む。

ああ、またやってしまった。

――場面が変わって。
晴れているのに薄暗い中庭で、灰色のチュニックを着た子供たちが門に向かって行く老夫婦と女の子を見つめていた。ヴォルデモートを訪ねたあの老夫婦だった。

「ジェナ、親が決まったらしい」
「あいつ顔は良いもんな。出て行ってくれてせいせいするよ」

一人の少年はそう言いつつ、ジェナという少女への羨望を隠しきれていなかった。

「ああ――顔が良くても選ばれない奴もいるけどな」

そう言って、少年は3メートル程離れたベンチに座っていたヴォルデモートを見る。

「トム。あいつは顔以外1つも良いところが無い。自分は周りと比べて特別だと思ってやがる」

明らかな敵意を受け、ヴォルデモートが本から顔を上げた。

「喧嘩を売っているのか」
「ああそうさ! おまえ、僕の兎を蹴り飛ばしただろう!」
「あんなところに置いていたおまえが悪い」
「なんだと! あれはわざとだ!」

相手にする気がなくなったのか、ヴォルデモートは本へと視線を戻す。それに頭にきた少年は、ヴォルデモートに近寄り、本をはたき落とした。本は不恰好に広がって湿った土の上に落ちる。汚れてしまっただろう。

ヴォルデモートが静かに睨むと、少年は怯んで後ずさった。しかし何も言わずに引き下がることは悔しかったようだ。

「気取りやがって! 普通以下のくせに! あの夫婦にも選ばれなかった! おまえなんて一生選ばれるもんか!」

心の中が掻き毟られるようだった。
この僕を蔑んだ。普通以下なのは、おまえの方なのに。あの夫婦だって、僕が選ばなかっただけだ。許さない。傷つけてやる。
次の日、奴の兎の首を吊ってやった――。

「……っ、う、」

意識が白い部屋に戻る。わたしは彼の前で蹲り、泣いていた。歯を食いしばるようにして、嗚咽を抑える。

心が痛い。こんなにも痛い。
なのに、あなたはずっと一人で、こんなに小さなときから、この痛みに耐えていたの。

「ヴォルデモート様……!」

もがき苦しむ彼を、抱き寄せ、包み込む。またも彼の意識が流れ込んでくる。

13〜14歳くらいだろうか。ヴォルデモートはロンドンの街を歩いていた。日差しの強さからするに、夏のようだ。街はところどころ倒壊している。ヴォルデモートは空襲の爪跡を無心で眺めていた。マグルが何人死のうが構わなかった。

ゆったりとした歩調で歩いていると、手前の病院から親子が出てきて、ヴォルデモートの前を歩き始める。

「パパ、ママは治る? 死んだりしない?」
「当り前だ。小さな君を残して、ママが死ぬわけないだろう? ママ、勿論パパも、君を愛してる。君の傍を片時も離れたくないんだよ」

嘘だ。母親はもうすぐ死ぬのだろう。父親の言葉は気休めだった。後半の言葉は本心のようだが、愛があっても命はどうにもならない。愛は無力だ。
親子の会話など、もう何も感じなかった。

――感じない筈だったのに。
ヴォルデモートはホグワーツの図書館で茫然としていた。

「マールヴォロ・ゴーント……」

今まさに祖父の名前を見つけて、血の巡りが速くなる。サラザール・スリザリンの末裔……! やはり自分は特別だった。魔法族の中でも選ばれしもの。紛うことなき純血の一族の血が流れている。

興奮と共に、心臓の中にぞわりとした嫌なものが入ってきた。
自分の中の魔法族の血は、母方のものだった……。では何故、母は死んだんだ? 魔法使いなら、どうとでもできただろう。何故僕を置いて、死んだんだ?

ロンドンの街で聞いた親子の会話が思い出される。

『ママも、勿論パパも、君を愛してる。君の傍を片時も離れたくないんだよ』

それが答えだ。
自分は、愛されていなかったのだ。

ゴーントの家を訪ね、父が母を捨てたことを知る。やはり父はマグルだった。自分を平凡にする血、自分を棄て、拒んだ、穢らわしい血――。
殺してやる…………!

何度も何度も、ヴォルデモートの意識に呑まれ、わたしの心は深く傷付いた。ヴォルデモートの感情はわたしの感情だった。

痛い。苦しい。憎い。呪うしかない。自分を拒んだものを拒む。自分を貶すものを傷付ける。そうするしか、自分の守り方がわからない。

かなしい。

ヴォルデモートの身体にわたしの涙が落ちた。彼の肌に滲んでいた血と混ざり、流れる。

心が凍って、魂を傷付けて、あなたはたった一人でたたかってきた。誰にも助けを求めずに。

「あいしてます」

虚ろな瞳と目が合う。
その瞳に、微笑みを贈る。

「あなたをあいしてます」

何度でも言う。
あなたの心が溶けるまで、何度でも。

顔を寄せて、額にキスをする。
そのまま頬を当て、彼の手を撫でる。

苦しげに掠れていたヴォルデモートの呼吸が、安らかになっていく気がした。

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