44後悔
ナナシ。
何故、そこに居る――?
微笑みが炎の中に溶けていく。
しかし目に焼き付いて離れることはない。
何が起きたのか、すぐに理解した者は誰も居なかった。
ヴォルデモートとハリーの呪文がぶつかり、黄金の炎が上がったと思った瞬間、炎の中に誰かが現れたのだ。その誰かの膝が崩れ、鈍い音を立てて床に倒れる。
まずヴォルデモート、そして次にハリーが、その人物がナナシであると知った。
ハリーはヴォルデモートの手からニワトコの杖が弾かれたのを捉え、シーカーの技でそれをキャッチした。しかし勝利した喜びも、安堵も、何も湧いてこない。心臓が心地悪く脈打ち、何か悪いことが起きたことを伝える。
ハリーはもう1度、自分とヴォルデモートの真ん中で倒れている女性を見た。彼女の足元には自分が与えた透明マントが丸まっている。やはり、ナナシだ。
ナナシが、ヴォルデモートとハリー、二人の間に現れ、二人の呪文を受けたのだ。
武装解除術、そして……死の呪い。
何が何だか分からず突然現れた女性に目を凝らす者、状況を察した聡い者、ハリーとヴォルデモートを窺い続ける者……様子は違えど人々は皆黙ったままだ。
ヴォルデモートはぴくりとも動かずナナシを見つめていた。どうしてナナシが倒れているのか、ナナシが何を受けたのか、自分が何を唱えたのかを、頭の中で何度も何度も巡らせる。
ハリーが一歩、ナナシに歩み寄ると――。
「寄るな!!」
途端、火が着いたようにヴォルデモートが叫ぶ。大広間の空気がピンと張り詰めた。
「その女に――触るな――――」
ヴォルデモートはハリーを見もせずに威嚇し、危なげな足取りでナナシへ歩み寄る。そして傍に膝を着いてしゃがむと、闇の帝王とは思えないほど恐る恐る、割れ物でも持ち上げるかのように優しく、彼女を抱き起こした。
「ナナシ……ナナシ――――ナナシ!!」
何度も何度も名前を呼ぶ。ヴォルデモートの腕の中で、ナナシが力無く揺れた。こんなに呼んでいるのに目を覚まさない。動かない。目の前の現実がヴォルデモートに襲いかかる。
先程お前は、俺様に何と言った? もう一度言え。言ってくれ。
本当は唇の動きで分かっていた。しかしもう1度と願えば、目覚めて口を開くかもしれないという夢にも似た希望に縋る。それに、まるで言い残すかのようなそれが耐えられなかった。首を絞めたあの日、死を覚悟したときもナナシは最後の言葉にそれを選んだ。心を充たしてくれる筈のその言葉が、今は心臓を抉るような痛みをもたらす。
ヴォルデモートが苦し気に唸る。ハリーやナナシを知る死喰い人の残党以外の者は、ただ困惑していた。残酷非道な闇の帝王が、まるで、女性の死を嘆き悲しんでいるような――。
「ナナシ……何故だ……」
ナギニを殺され逆上したことと、戦局が揺れ動いたことに気を取られ、一心不乱に闘ってしまっていた。かといって忘れたわけではない。ただ、城の入り口で振り返ったときには姿が見えず、誰かが保護したのだろうと思い込んでしまった。それに自分の傍にいさせる方が危険なことは明白だった。
しかし、何故ここに現れた?
何も知らない筈のおまえが、何故こんなことを――。
「リドル。おまえを護ったんだ」
何かを知っているようなハリーの物言いに、ヴォルデモートは顔を上げる。
「ナナシは分霊箱が全て壊されれば、おまえが不死ではなくなることを知っていた。杖の所有権が僕にあり、おまえに勝ち目が無いことも知っていた。おまえが死の呪いを使えば、おまえ自身に撥ね返るということも……。だから、おまえに撥ね返る前に、自分が受けようと考えたんだろう……」
「何故――」
「僕が話した。僕はおまえの分霊箱だったんだ、リドル。おまえが禁じられた森で僕に死の呪いをかけたあのとき、僕は現実ではないところでナナシに会った。おそらく彼女が――還霊箱だからだろう」
ヴォルデモートは目を見開いた。ハリー・ポッターが自分の分霊箱で、還霊箱であるナナシと会っていた。しかし全ての辻褄が合う。
やはり、ナナシが見ていた夢や幻想は、分霊箱が壊されたことを感じ取っていたからだったのだ。ナナシの左手の薬指を見ると、指輪は色を失い火傷痕のようになっていた。分霊箱が全て壊され、力を失ったのだろう。
ナナシは感じ取っていた。知っていたのだ。俺様の身の危険を。
「それに、外での乱闘から彼女を救ったのは僕だ。そのときに杖の話をしたら、ナナシはおまえを救う機会を僕に願った。だから透明マントを託して、見ていてもらったんだ」
ナナシの足元に丸まる透明マントを見つける。ハリー・ポッターの語ることはすべて本当なのだろう。それに還霊箱のことまで知られていては、ハリーがナナシを深く知ることをヴォルデモートは認めざるを得なかった。
……本当だった。
二つの呪文がナナシに重なった瞬間、ニワトコの杖は自分の手を離れ、ハリー・ポッターの元へ飛んだ。
ニワトコの杖はハリー・ポッターのものだった。
ナナシが願うも虚しく、信じることを拒み、死の呪いを放った。きっと自らに撥ね返っていたことだろう。
俺様は何故生きている?
ナナシは何故目覚めない?
「……考えてくれ…………!」
茫然とナナシを見つめるヴォルデモートへ、ハリーは声を絞り出す。
「リドル。お前のしてきたことは、こういうことなんだ。人が死ぬということは、こういうことなんだ」
「その人の未来を奪うだけでなく、その人に会えなくなるということなんだ」
「お願いだ。人の命を奪うということを、自分の行いを、少しでも後悔してくれ」
ヴォルデモートを救う――ナナシとの約束だ。まだ少しでも可能性があるなら、ハリーは懸けたかった。
「……ナナシの為にも……!」
ヴォルデモートはナナシを見つめたままでいる。しかしその耳に、ハリーの声は届いていた。
……ナナシの為。
ナナシ。ナナシは何故、動かない?
微笑んでいるようにも見える程の穏やかな表情は、ただ眠っているかのようだ。
ふと、ナナシに寄せていた自分の掌を見つめる。不自然なほど白く、血の気が無い。闇に染まった手。魂を切り裂いた代償。
……そうだ。俺様が殺したのだ。
いつものように何の躊躇いもなく、死の呪いを唱えた。命を奪うことなど、造作もないこと。取るに足らぬこと。自分さえ生き続ければそれでいい。
――――その筈だ。
しかし、こんなにも苦しい……!
何が違う。何が俺様を苦しめる?
ナナシ。
ナナシ!
教えてくれ。おまえに原因があるのだ。答えが欲しい。おまえ無しには分からない。そもそも傍に居ると言ったくせに、何をしている。おまえは俺様のものだろう。何を勝手に死んでいる。
……身勝手な言い分か。しかしこれを聞いても、おまえは許すのだろう。謝りさえするかもしれない。ナナシは俺様を愛している。常に俺様を優先し、許す。命さえも献げようとした。
今もきっと、そうした。自分の命よりも俺様の命を優先したのだ。
俺様を護って、死んだ。
――死んだのだ。
この身体が身動ぐことも、暗い色の瞳に見つめられることも、柔らかな手に触れられることも、無い。聴き馴染んだ声に名前を呼ばれることも、叶わない。会えない。
ナナシの死を招いたのは、俺様だ。
俺様が動かなければ、ナナシは死なずに済んだ――――。
「…………っ……」
「リドル?」
永遠とも思われるような重苦しい沈黙の後、ナナシに重なるようにしてヴォルデモートが蹲る。大広間にいる全員がその様子の変化に気付いたところで――。
「――――あ゛あ!!」
突然、ヴォルデモートの叫び声が響き渡った。あまりに苦痛に満ちたもので、人々は息を呑む。ハリーは駆け寄り、ヴォルデモートの様子を近くで窺った。ヴォルデモートは目を見開き、胸を押さえて苦悶の表情を浮かべている。病に侵されているかのような掠れた呼吸音だ。しかしそれもプツリと途絶え、ヴォルデモートは白目を剥き、意識を失った。
「誰か来て!」
ヴォルデモートが倒れたことに、観衆が騒めき始める。その中からロンとハーマイオニー、そしてジニー、ネビル、ルーナがハリーに走り寄った。
「ハリー!」
「ああ、ハリー!」
ハリーが生きていた事実に皆が喜び、ハリーに触れ、抱き締める。ハリーが揉みくちゃにされるその様子に、ハリーの勝利を知った人々の歓声がドッと沸き始めた。ウィーズリー一家とハグリッド、マグゴナガルやキングズリーもハリーの傍に走り寄ってくる。
「皆……!」
ハリーはハグを受けながら、声をあげた。急がなければならない。
「リドルを運ぶ。手伝ってくれ」
「……運ぶってどこへ? そいつは死んでないのか?」
「まだ生きてる。医務室とか、どこか安静になれる場所へ運ぶんだ」
ハリーの台詞に、近くに居た全員が固まった。ヴォルデモートがまだ生きている。そしてまるで、ハリーがヴォルデモートを救おうとしているような――。
「君――正気か?」
「血迷ったか、ハリー! 取り憑かれてるんじゃないだろうな?!」
「僕の意思だ」
声を荒げるロンやハグリッドに、ハリーは首を横に振った。
「リドルは許されないことをした。償わなければならない。死んだら、できないよ」
皆が困惑する中、キングズリーがハリーの前に進み出る。
「ハリー。ヴォルデモートを生かしておくことはできない。死刑でも足りないほどの罪を犯している」
「……今、こいつは死刑よりも苦しい思いをして後悔することを選んだ……それに、こいつはヴォルデモートじゃない」
「――?」
「トム・リドルだ。戻ろうとしてる」
ハーマイオニーがはっとした。
「――良心の呵責? 本当に?」
「そうだと思う。自分の行いを悔いて、死線を彷徨う苦しみにいる……助けないと」
何度も魂を裂いたリドルの苦しみは想像を遥かに超えるものだろう。しかしこの苦しみを耐え抜けば、リドルの魂は元通りになる。
勿論リドルを許せない。それなのに救おうとしているなんて、お人好しが過ぎるって分かってる。でも、
「この女性の――ナナシの願いなんだ」
母と同じことをしたナナシに、ハリーは胸を打たれた。約束を守りたかった。
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