43瞬間
わたしは、咄嗟に――ポッターにしがみつき、彼の杖を掴んだ。
「っ止めるんだ、ナナシ!!」
振り解こうとする彼の動きを追い、離さない。
緑色の瞳に捉えられても、でも、もうその美しさに怖じ気付いたりはしなかった。
「!」
わたしの目から涙が零れるのを見て、ポッターの動きが止まる。その一瞬の隙を突き、わたしはポッターから杖を奪った。
自分でも、自分が思い切った行動に出たことに驚く。早鐘の様に脈打つ心臓を押さえつけるように、杖を握り締めた両手を胸の前に持ってきて、杖を護り、ポッターから遠ざける。杖が無ければ戦うすべがなくなり、彼も出ていけない筈だ。
――しかし、ポッターに両肩を掴まれ、壁際に追いやられてしまう。暴れようとしても、力が強くて体の向きさえ変えられない。
「ナナシ」
急かすような声色だが、しかしポッターはそこまで焦っていない様に見えた。
「手荒なことはしたくない。男の僕は、あなたから杖を簡単に奪い返せます」
身動きを封じられた今、その言葉が事実であるとまざまざと思い知らされる。
「それに……あなたはマグルだ。あなたが僕から杖を奪ったところで、何も出来ない」
落ち着いて、わたしを諭す。
自分がしたことが何も意味の無いことであると気付いて、悔しさと絶望でどうにかなってしまいそうだった。
「……でも、っ!」
ポッターが出ていけば、ヴォルデモートはきっと彼を殺めようとするだろう。そうしたら、
「うっ……」
――――死んでしまう。
「っ、〜〜っ……」
忍ぶように流していた涙が、嗚咽に変わる。杖に願うように俯くと、涙がぽたぽたと垂れ、床にいくつも丸い染みを作った。
ヴォルデモート様。
ヴォルデモート様。
わたしに生きる意味をくれた人。
あなたと出会って、わたしは愛することを知った。あなたの傍に居ることがわたしの歓びで、人生そのもの。
ヴォルデモート様を失う苦しみは、あなた無しに生きることは、きっと耐えられない。
あなたを失うことは、死ぬこと。
「救う方法が1つだけある」
「――!」
ポッターの言葉に顔を上げる。
「あいつが受け容れてくれるかわからないけど、話をしてみます」
どんな方法か。成功する見込みはあるのか。問い質したいことは山程あったが、嗚咽で波打つ身体では上手く言葉が出てこない。それにもう、時間は無く、ポッターを止めることは難しいのだということは感じ取っていた。
もう、彼の方法に懸けるしかない――。
ポッターへ杖を渡そうと手を緩める。しかし手を操る感覚が分からなくなって落としてしまいそうになったところを、ポッターはわたしの手ごとしっかりと杖を掴み、何かを覚悟したような顔でわたしを見た。
「……お願い…………」
ポッターが頷いた、瞬間。
周囲から興奮した歓声が上がった。重なるようにしてヴォルデモートの叫び声が響く。見れば、ヴォルデモートと戦っていた3人が空中に吹き飛ばされている。ベラトリックスが倒され、ヴォルデモートの怒りが炸裂したのだ。ヴォルデモートはベラトリックスと一騎打ちをしていた魔女に杖を向けている。
そのとき、ポッターが透明マントから飛び出し、杖を上げた。
「プロテゴ! 護れ!」
ポッターの魔法が盾のように大広間の真ん中に広がり、魔女を護る。突然訪れた護り、奇跡のように登場した人物に、叫びや歓声が沸き起こった。
――しかしそれは直ぐに止む。
ヴォルデモートとポッターが睨み合い、互いに距離を保ったまま動き始めたのを見て、誰もが息を呑み静かになった。
「誰も手を出さないでくれ」
こうでなければ、僕でなければならない、とポッターは付け足す。それを聞いてヴォルデモートは目を見開いた。
「ポッターは本気ではない。おまえのやり方はそうではあるまい? 今日は誰を盾にするつもりだ?」
「誰でもない」
ポッターは動じずに短く答え、再度口を開く。
「分霊箱はもうない。残っているのはおまえと僕だけだ。一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ。どちらかが、永遠に去ることになる……」
心臓がドクンと一際大きく脈打った。
今の言葉は予言のものだろうか。予言の内容について、わたしは深く知らない。ポッターが”選ばれし者”であるとしか知らなかった。
もし今の言葉が予言のものだとしたら。
……それを打ち破ることはできるの?
「どちらかがだと?」
不安に胸を騒つかせていると、ヴォルデモートがポッターを嘲る。
「勝つのは自分だと考えているのだろうな? 偶然生き残った男の子」
「偶然? 母が僕を救うために死んだことが? 僕があの墓場で、戦おうと決意したことが? 今夜、身を守ろうともしなかった僕がこうして生きていて、再び戦うために戻ってきたことが?」
「偶然だ!」
ヴォルデモートは甲高く叫び、ポッターの言葉を否定する。生き残ったのは、誰かを身代わりにして自分に殺させていたのだと。
それに対しポッターは、ヴォルデモートが今夜は誰も殺せないと語る。自分が死ぬつもりで護ったからこそ、母と同じことをしたからこそ、今までのヴォルデモートの呪文はポッターの仲間を殺めることがなかったのだと。
確かに大広間に死体は無く、傷付いた者がいるだけだった。ヴォルデモートもそのことに関して否定しない。
死ぬ覚悟をかけた護りの効き目は、本当なのだ。
――ヴォルデモートが生きている限り、ポッターは生き続けるのも、きっと本当だ。
「トム・リドル、僕はおまえの知らないことを、大切なことをたくさん知っている。おまえがまた大きな過ちを犯す前に、いくつかでも聞きたいか?」
トム・リドルの名を聞いて、ヴォルデモートの学生時代の写真を思い出した。人に囲まれて、真ん中で微笑む姿。
「また愛か?」
そこには何も無かったのだろうか。友情や恋情は生まれなかったのだろうか。
愛の力を否定し嘲り始めたヴォルデモートに、胸の奥が痛む。
確かにわたしの愛は奇跡を起こしたことはない。マグルのわたしがそんなことで傷付くなんて御門違いだが、やはりヴォルデモートが愛を否定すると、苦しかった。
しかし、ヴォルデモートは愛の力を認めなければ、ポッターを殺すことができないのだと気がつけない……。
「おまえは最近、愛に触れていた筈だ」
ヴォルデモートは一瞬目を見開くが、その一瞬を無かったことにし、再び口を開く。
「……何を知ったか知らぬが、今は愛が死を防ぐかどうかの話をしているのだ、ポッター……今度こそ、おまえの前に走り出て、俺様の呪いを受け止めるほど、おまえを愛している者はいないようだな。さあ、俺様が攻撃すれば、こんどは何がおまえの死を防ぐと言うのだ?」
ポッターは、ヴォルデモートにはできない魔法も、ヴォルデモートの武器より強力な武器も、両方とも持っていると答えた。
そして議論はダンブルドアの話題へ移る。
ダンブルドア。本で見たことある名前のような気がする。ポッターが言うに、分霊箱が無ければ還霊箱は力を失うことに気づいた人物だ。話の流れから察するに、ヴォルデモートがダンブルドアを死に追いやったらしい。
――しかしそれは、本当はダンブルドアの味方であったセブルス・スネイプとの計画だった。
セブルスはポッターの母を愛していて、ヴォルデモートがその女性を殺したその瞬間からダンブルドアに寝返っていたと言うのだ。
読めないあの黒い瞳を思い出す。あの瞳の奥に、真実を隠していた……。
「どうでもよいことだ!」
ヴォルデモートはセブルスの話題を一蹴する。結局のところ、ダンブルドアはニワトコの杖がセブルスのものになるように仕組み、そのセブルスをヴォルデモートが殺した。ニワトコの杖はヴォルデモートのものである筈だ。
何がどうなって、ポッターのものになったのだろう?
「ダンブルドアの最後の謀は、失敗に終わったのだ!」
「ああ、そのとおりだ。しかし、僕を殺そうとする前に、忠告しておこう。自分がこれまでにしてきたことを、考えてみたらどうだ……考えるんだ。リドル、そして、少しは後悔してみろ……」
「何を戯けたことを?」
ヴォルデモートが驚愕した表情を見せる。確かに話の流れがおかしい――わたしはハッとした。
「最後のチャンスだ。おまえには、それしか残された道はない……さもないと、お前がどんな姿になるか、僕は見た……勇気を出せ……努力するんだ……少しでも後悔してみるんだ……」
後悔すること。
それが、ヴォルデモートを救う唯一の方法なのだ。
わたしはヴォルデモートを見つめる。ポッターの発言の意味に気付いてほしいという願いを込めて。
お願い……!
「よくもそんなことを――?」
しかしヴォルデモートは驚愕と怒りの声を絞り出し、杖を強く握り締める。
ああ、だめ――!
「ああ、言ってやる。いいか、リドル。ダンブルドアの最後の計画が失敗したことは、僕にとって裏目に出たわけじゃない。おまえにとって裏目に出ただけだ」
ポッターが杖の説明を始めた。ニワトコの杖はまだ、ヴォルデモートのものではないこと――ダンブルドアの死は計画されたものだったので、杖はセブルスのものになっていなかったこと――。
ヴォルデモートの杖先がポッターの頭を狙っている。だめなのに。このままでは、ヴォルデモートはポッターに死の呪いを掛けてしまう。
そうしたら、予言通りになってしまう。
だめなのに。
その瞬間が迫っているのを、感じる。
ポッターは続ける。ダンブルドアが死ぬ前に、ドラコが杖の主人となったこと――そして、自分がドラコを打ち負かしたこと。
わたしは、走り出していた。
そうするしか、もう、思いつかなかった。
「すべてはこの一点にかかっている」
ポッターが囁く。
わたしは見守る観衆から抜け出して、因縁の二人の世界に入り込む。
「お前の手にあるその杖が、最後の所有者が『武装解除』されたことを知っているかどうかだ。もし知っていれば……ニワトコの杖の真の所有者は、僕だ」
きっと短い時間のことだったのに、すべてが、スローモーションのように感じた。
自分が駆ける音も。
太陽の光が差し込んできて、大広間を金色に照らし出すのも。
ヴォルデモート様の叫びも。
二人が杖を上げる動きも。
「アバダ ケダブラ!」
「エクスペリアームス!」
呪文を唱える声も。
赤の閃光と緑の閃光が、ぶつかろうとする瞬間も。
わたしはすべてを捉え――感じた。
二つの閃光が体を貫く衝撃は、不思議と何の痛みもない。大きな力に包まれ周りの空気が揺れていて、体内の血液が駆け巡っているかのような感覚だ。
目の前が黄金の炎に包まれていく。
炎の奥に、目を瞠るヴォルデモート様が見えて、胸が熱くなる。
あなたを失うことは、死ぬこと。
――それならせめて、あなたを守って死のう。
こんなことになるなら、あのときもっとキスしておけばよかった。もっと身体を寄せて、甘えておけばよかった。もっとあなたを見て、触れておけばよかった。もっとあなたの名前を呼べばよかった。もっと、もっと。
……もっと、一緒にいたかった。
視界が黄金に溶けていく。
見えなくなってしまう。
「すき」
声になっていたかは分からない。
でも、届いたような気がして。
わたしは不思議なほど心安らかに、目を瞑った――。
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[しおり]