38矛盾
先程の口付けの名残りか、否か。
わたしは夢を思い出していた。
目を覚ましたときにヴォルデモートに首を絞められていた、あのときの夢。
ぼやけた視界の中で誰かがわたしに触れるだけのキスをした。姿を捉えることはできなかったけど、泣いていた。
きっと、ヴォルデモートだった。
――ヴォルデモートは今。
追い詰めるようにセブルス・スネイプへ問い掛けを重ねている。自分が導き出した答えが正しいのだと、まるで自分自身にも証明してみせるかのように、1つ1つ問うて、その答えへ誘導する。
ヴォルデモートが部屋の中を歩き始め視線がセブルスから逸れると、セブルスの瞳が保護空間に守られたナギニを捉えた。きっとナギニを初めて見るわけではないだろうに、球体の中でとぐろを巻く姿を食い入るように見つめている。
何をそんなにとナギニをちらと見た後、セブルスに視線を戻して。
――息が詰まる。
暗い瞳が、ナギニからわたしへと向けられていた。
真っ直ぐな視線に、心を貫かれる様だった。
思い知らされてしまう。
これからこの人は殺される。
そしてわたしは、見殺しにする。
セブルスは読めない表情でまばたきをすると、再度ナギニに視線を戻した。
――その後、ヴォルデモートはセブルスに1つの答えを突き付ける。それはセブルスにとってあまりにも残酷なもの。抗議の声を上げたセブルスに容赦すること無く、ヴォルデモートはナギニに彼の殺害を命じた。
セブルスの悲鳴に心臓を抉られるような感覚に陥りながらも、頭の中は空っぽだった。
――いや、何も考えないようにしていたのかもしれない。
考えるのが怖かった。
傍に居たいと言ったくせに、殺人を――ヴォルデモートの行為を、否定してしまいそうで。そんな風に考えてしまいそうな自分が嫌で。
ヴォルデモートが1番大切なのに、彼以外を捨て置くにはまだ弱く覚悟の足りない自分を認めるのが嫌で。
「ナナシ」
ただ、頭の中を空にして、ヴォルデモートの呼び掛けに頷いてみせる。
手をとられて、彼の低い体温がわたしの熱を奪っていくようだった。
愛しい。
この体温が、この手が、この人が愛しくて、心が痛い。
柔らかに手を引かれ導かれながら。
こんなにも優しくされているのに、彼の計画通りに事が運んだのに、どうしてわたしの心は泣いているのだろうと自問自答する。
これで良い筈なのに、良くないと思ってる。
セブルスを殺したとき、ヴォルデモートが遠くにいるように感じて。殺人という行為を繰り返したことにより、穢れ、心が冷え切ってしまっているように見えた。
こんなこと願うなんて愚かなことだって分かってるのに。
……わたしは彼に……人を殺めてほしくない……。
これっぽっちも強くなっていない自分が嫌になる。そして空にしていた頭に思考が渦巻いていることに気付いて、思考を追い出そうと、殺人については考えない様にしようと励んだ。
――わたしたちは言葉を交えることなく屋敷の中を歩いた。
外に出ると、ヴォルデモートは杖を喉に押し当てる。彼の声が辺り一帯に響き渡った。
《おまえたちは勇敢に戦った》
《しかし、おまえたちは数多くの死傷者を出した。俺様に抵抗し続けるなら、一人また一人と、全員が死ぬことになる。そのようなことは望まぬ》
《ヴォルデモート卿は慈悲深い。俺様は、我が勢力を即時撤退するように命ずる。一時間やろう。死者を尊厳を以って弔え。傷ついた者の手当てをするのだ》
《さて、ハリー・ポッター、俺様はいま、直接おまえに話す。おまえは俺様に立ち向かうどころか、友人たちがおまえのために死ぬことを許した。俺様はこれから一時間、『禁じられた森』で待つ。もし、一時間の後におまえが俺様の許に来なかったならば、降参して出てこなかったならば、戦いを再開する。そのときは、俺様自身が戦闘に加わるぞ、ハリー・ポッター。そしておまえを見つけ出し、おまえを俺様から隠そうとしたやつは、男も女も子どもも、最後の一人まで罰してくれよう。一時間だ》
……ついに、ポッターと決着をつけるときが来たんだ。
ヴォルデモートが喉から杖を離すと、屋敷の傍の林から見張りをしていたらしいルシウスが現れた。会話ができる距離まで寄ると、ヴォルデモートに深く頭を下げる。
「我が君……停戦をご命じ下さり、ありがとうございます……」
「ルシウス、お前の息子の為ではない。整ったのだ。あいつは俺様のところにやって来る……軍を森の拠点に集めろ」
「かしこまりました」
「……それと」
ルシウスは軽く顔を上げ、ヴォルデモートの次の言葉を待つ。
「セブルスは死んだ。奴が来ることは無い」
ルシウスはヴォルデモートとセブルスが会っていたことを知っている。ヴォルデモートがセブルスを殺したのだと悟ったのか、彼は打ちのめされたような表情になった。
言葉を失ったルシウスを置き去りにし、ヴォルデモートはわたしを連れホグワーツの方向を指し示す看板のところまでやってくると、わたしの脚に杖を振った。この魔法は知っている。おそらく『禁じられた森』の拠点へ向かう為に歩きやすくしてくれたのだろう。
「ナナシ」
あの部屋を――殺人の現場を出てから初めて、声を掛けられる。ヴォルデモートを見上げると、彼はホグワーツの方角を向いたまま口を動かした。
「もう間も無くだ……杖は我が物となり、奴と相見える準備が整った。ポッターを制すれば、生ある者で俺様を脅かす者は居なくなる……」
そこまで述べてから、淑やかに首を傾け、こちらに目を向ける。
赤い瞳に捉えられる。
「お前の憂いも消えるだろう?」
――ああ。
この矛盾は何なんだろう。
彼の言う通り、その筈なのに。
込み上げる愛しさの他に。
憂いが増してしまう様な気がする不安。
「ヴォルデモート様……」
様々な感情が渦巻いて、何て返せばいいか分からなくて、ただ名前を呼ぶと。
ヴォルデモートは少しだけ口角を上げた。
その表情に、セブルスと目が合ったときとはまた違う、心臓の痛みが走る。
きっとこの痛みはヴォルデモートの意に沿わないものだ。それがまた痛みを呼んで苦しい。
彼に悟られないように、その腕に頭を寄せるようにして目を逸らす。
ヴォルデモートはわたしの手を掴むようなかたちだった繋ぎ方を改め、わたしに腕を絡めさせた。そして歩くスピードを速めていく。そのまま『禁じられた森』に入り込み奥深くまで来ると、前方にちらちらと揺れる明かりが見え、人の声の騒めきが聞こえてきた。どうやら軍の拠点に辿り着いたらしい。
明るみにヴォルデモートが姿を現すと騒めきが一斉に凪ぎ、静寂に包まれた。
これまでの道のりは鬱蒼と木々が茂っていたが、ここは空き地になっている。真ん中に焚き火が設置されており、周りに死喰い人たちが待機していた。
目に飛び込んできた生物に、静かに息を呑む。それこそ御伽噺の中の存在である巨人が2人。更にガサガサと木の葉が擦れ合うような音がして目を向けると、大きな蜘蛛が沢山いて悲鳴を押し殺した。よく見れば周りに蜘蛛の巣の名残がある。
思わずヴォルデモートの方へ体を寄せると、それを受け止めながら彼は死喰い人たちに指示を出し始めた。
「ハリー・ポッターは必ず来る。奴の息の根を止めるのは、俺様だ。一切手を出すな」
ところどころ様々な口調で御意の返事が返ってくる。そこで、ヴォルデモートをうっとりとした目で見つめるベラトリックスに気が付いた。おそらくわたしなんて目に入っていない。隣に居るブロンドの女性は姉妹だというナルシッサ・マルフォイだろうか? 屋敷に住まわせてもらっているというのに顔を合わせたことはなかった。
ヴォルデモートは軍の現況と敵に関する報告を求め、それを踏まえて今後の計画について語る。大まかに言えば、ポッターを倒したあとホグワーツ城へ進軍し、ポッターの死を見せしめ敵を降伏させ、城を手中に収めるというもの。
ヴォルデモートはポッターが来ると強く確信していた。
暫らくして時が近付くと、ヴォルデモートは2人の死喰い人を森へ偵察に行かせる。そして焚き火の前まで足を運び、わたしとナギニを後ろに置いて、杖を持ったまま胸の前で手を組み、頭を垂れた。
まるで祈るかのように――。
――そうして1時間が経ち。
偵察に行かせた2人が帰ってくると、ヴォルデモートは頭を上げた。
「我が君。あいつの気配はありません」
わたしからは彼の背中しか見えない。
「我が君――」
傍に侍っていたベラトリックスが口を開くが、ヴォルデモートが手を挙げて制すると彼女はそれ以上何も言わなかった。
「あいつはやって来るだろうと思った」
「あいつが来ることを期待していた」
誰もが、巨人や大蜘蛛たちまでも、物音1つ立てなかった。
指輪がじくじくと疼き始め、彼の感情が乱れていると知る。
――――いや。
この感覚は何だろう。
それだけじゃない……?
「どうやら俺様は……間違っていたようだ」
「間違っていないぞ」
ピンと張り詰めていた空気の中に、不似合いな大きな声が響き渡る。
わたしは息をすることを忘れた。
黒髪に丸眼鏡の青年が、杖も手にせず丸腰で焚き火の灯りの中に進み出てきたのだ。
殺されに来たようにしか見えなかった。
恐れていた存在な筈なのに。
彼を止めたかった筈なのに。
わたしは何故か、これからハリー・ポッターが死ぬことが恐ろしくてならなかった――。
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