29相思
ドラコ・マルフォイが部屋を去ってから、わたしは暫くソファに座って思考を巡らせていた。
ヴォルデモート様とポッター。
ヴォルデモート様とわたし。
そして――――ポッターとわたし。
考えれば考えるほどこんがらがっていく。
やっぱり、わからない……。
首に巻いたショールを外しながら溜め息を吐いた。もやもやをどうにかしたくて、その布を意味も無く指先で弄る。
そういえばポッターもわたしに何かを聞きたがっていた。彼も模索している途中なんだろうか……。
自分で考えているだけでは情報が少なすぎるので、ドラコが持ってきてくれた本の中に予言や指輪のような道具について載っていないかと手当たり次第にパラパラめくる。しかし手掛かりとなるような記述は見つからなかった。
数枚、やはり写真が動く新聞の切り抜きが教本に挟まっていたが、ルシウス・マルフォイの功績を称えるものがほとんどで、1枚ウィーズリーという人の失態について語られたものがあっただけだった。
本は教本の他に、物語も幾つかあった。久しぶりにそういった類のものを手にとって、数ページ読んだだけでワクワクする。
考えることに疲れていたわたしは、読書で一旦悩みを忘れることにした。少し……と思っていたのだが、いつのまにか熱中してしまう。
そうして気付いたら真っ白な世界の中に佇んでいた。
非現実的な光景に、これは夢であると分かる。
誰かが、傍に居る。
でも視界がぼやけていて誰なのかは分からない。
その人はゆっくりと近付いてきて、わたしの唇にキスをした。
お互いのそれが少し沈む、触れるだけの、とても優しいもの。な気がする。
ヴォルデモート様だと、いいな……。
しかしその人は泣いていた。
こちらまで悲しくなって、その人を抱き締めようとして。
――――ふと。目が覚める。
部屋はすっかり暗闇に溶けていた。
本を読んでいる途中で眠りこけてしまったようだ。
夢の中の人は誰だったんだろう。
どうして、泣いてたんだろう……。
寝惚け眼と暗闇で視界が定まらなかったが、ぼうっと前を見ているうちにだんだんと目が慣れて、周りのものの輪郭が浮かんでくる。
そして月明りでうっすら浮かんだ姿と赤い瞳を見つけて、ヴォルデモートがすぐ傍にいることがわかった。
どくん、と一際大きく心臓が跳ねる。
「……ヴォルデモート様……?」
目は覚めてる、夢じゃない。
ソファで向かい合うこの状況に昨晩が思い起こされる。
酔って、抱かれて、囁かれて……堪らなくなって指輪について質問した。
ポッターや予言という違う考え事に集中しすぎて、そのことが飛んでしまっていた。
またもや不安がふつふつと湧き上がってくる。
謝るべきか、忘れたふりをするべきか……せめて最初に何を話すかだけでも決めておけばよかった。
緊張していると、ふと、首に圧迫感があることに気が付いた。
苦しくはないけれどショールは外した筈だ。ちらりとそこを見れば、彼の手が回されている。
……ヴォルデモート様に、首を絞められてる……?
どうして……。
……ああ。
そんなの……決まってる。
わたしを殺すことにしたんだ……。
自分が殺されようとしていると理解したのに、精神は乱れることなく落ち着いていた。
ただ、だんだんと胸の中が重くなり、靄がかかっていく。
いらなくなった、の。
彼の真意を探るようにして、泣いたりしたから、疎ましく思われたんだろうか。
――そういえば、ヴォルデモート様の前で泣いてばかりだった。
愛を理解できないと告げられたとき。
男に襲われたとき。
彼が死んでしまう夢を見たとき。
彼が倒れたとき。
そして昨晩……。
せめて彼に見せる最期の顔は笑顔にしよう。
そう決めて、微笑む。
彼は何かに耐えるように、少し顔を歪めた。
「何故……笑う……? 分からないのか?」
「あなたなら、いいです」
殺されてもいいです。
その意思を込め、彼の瞳を真っ直ぐに見据える。
「あなたはわたしに生きる意味をくれた人だから」
ここに来るまで、わたしは何の為に生きてるのか分からなかった。
働いて、家に帰って、休みの日をそれなりに楽しんで……その繰り返し。居ても居なくても同じ。足りない。何を中心に回っているのか分からない。
そんな世界から連れ出されて。
不思議だけど。
惹かれた。
理由なんて考えれば浮かんでくる。
性奴隷としてでも自分を求められていることが嬉しかった。悪い人であることが嘘みたいに優しく抱いてくれた。わたしをあなただけの中に閉じ込めようとしてくれた。
――でも、そんなのは全て後付けのように思えた。
好きという気持ちが先だった気がするのだ。
魂とか、心とか、そういう抽象的なものが彼に惹かれたような。
上手に表現できないけど……何かに飢えた、寂しい人だと思った。
彼の過去も知らない。何故普通の人間を蔑み殺すのかも分からない。愛を理解できない理由も聞いたことがない。
一緒に過ごした時間しか、わたしは持ってないけど……。
不死になって。力を欲して。独占欲が強くて。ひたすらに進み何かを求める彼が、傷を癒そうと、渇きを潤そうと、もがいているように感じた。
おこがましくも、寄り添いたいと思った。
わたしに彼の飢えを癒すことができるなんて思ってない。しかし肉欲でもなんでもいいから、彼の何かを少しでも満たせればいい。
……綺麗事を考えたが、逆に。
ただわたしがひたすらに、彼を欲しているような気もするけど。
そうして生きる意味ができた。
大好きな人の傍に居るという、とても価値のある人生を見つけた。
こんな歓びがあるなんて今まで知らなかった。
ヴォルデモート様が、わたしの生きる意味だ。
ヴォルデモート様がいらないのなら、わたしは生きていても仕方がない。
訴えるように赤い瞳を見つめ続ける。
わたしの答えを聞いても彼は暫く黙っていた。あっさりと死を受け容れたわたしを訝っているようにも、何にも感じてないようにも見えた。表情が動かない。
やがて静かに口を開く。
「虚しい奴め……。俺様はお前を辱める為にここへ連れてきたのだ」
「……はい。でも……」
「優しくしてやったのも、最期に屈辱と絶望を与える為だ。全てはこのときの為に、お前の心を奪った」
無情な言葉が刃物になって、突き刺さる。心が血に塗れていくような感覚。
優しいのは……演技だった?
堪らなくなって、目を伏せ、唇を締める。
わたしを浮かせた彼の言葉が、苦いものとなって蘇ってくる。
『俺様のものであるということを、自覚しろ』
『会わぬ間、お前を抱きたくて、仕方なかった』
心を奪うため?
『その心を他の男に売るな、ということだ。離れることも、許すつもりはない』
『……お前を……、失いたくない……』
ああ、やっぱり、指輪を嵌めていたからだった……。
この指輪は、次は誰のものになるんだろう?
嫉妬でちくりと心が痛む。
首から手を離され、しかし逃さないとでもいうように、杖先を心臓の位置に押し付けられた。
殺されるんだ……。
騙されて、体も心も弄ばれて。
……でも、それでも……。
ヴォルデモート様はわたしの心を熱くしてくれた。
人を愛することを教えてくれた。
憎むことなんてできるわけがない。
……むしろ、わたしはとても幸せだろう。
だって、彼の手で最期を迎えることができる。
最期を彼と過ごすことができる。
「……騙されちゃいましたね」
わたしはまた笑ってみせた。
やっぱり哀しいから、さっきよりも上手に笑えなかったけど。
「でもわたし、幸せでした。お傍に居れて」
顔を上げてヴォルデモートの瞳を覗き込む。
わたしは何か、あなたに与えられただろうか。
与えてもらってばかりになっていた気がする。
……できることなら。
愛を理解してもらえたらって……そう思ってた……。
それは到底叶わなかったけど、偽りでも受け容れると言ってもらえて、本当に本当に嬉しかった。
心臓が、残された僅かな拍数を主張するように、どくどくと鼓膜を震わせる。
しかし、ヴォルデモートは杖を当てたままで、動く気配が見えない。
ただわたしと目を合わせて黙っていた。今度は何かを頭の中で巡らせている様に見えた。
……どうしよう。
じゃあ、もう少しだけ。
1つ、伝えてからでもいいだろうか。
「今までありがとうございました。……あの、えっと……」
その先をどう伝えようか、赤い瞳を見つめながら考える。
蛇のような、あなたの姿。
傷ついた魂は治らないの?
危なげに白くて、切なくなる。
いつか壊れてしまいそうで、救いたくなる。
……どうしようもなく好き。
想いが溢れて、胸の中で渦を巻く。
せめてこの目にあなたの姿を刻んで、持って行こう。
好き。
これから先、あなたの身が守られますように。
わたしにはできなかったけど、いつか誰かがあなたを満たしてくれますように。
好き。
大好き。
ヴォルデモート様、
「……大好きです。ずっと」
空気に溶けて消えてしまいそうな、か細い声。
自然に出てきた最期の言葉は思っていたよりも簡素な仕上がりになった。
言い終えてみると照れ臭くなって、誤魔化すように口角を上げる。
そして、目を瞑った。
瞼の裏に彼の赤を仕舞って。
……あいされたかったな。
いざとなると、自分の願いが浮かび上がってきて情けなくなる。
わたしは結局わたしなのだ。
わたしの願うままに、彼の傍に居たかった。
心臓から杖が離れるのを感じる。
ついに死ぬときがきたのだろう。
死後の世界はあるのかな?
ゴーストがいるくらいだから期待できるかもしれない。
……あ。ゴーストになって戻ってきたら、ヴォルデモート様はどんな顔をするだろう。
呑気なことを考えているうちに、肩を掴まれ体が前に傾いた。
その拍子に膝に乗ったままだったらしい本がバサリと音を立てて落ちる。
予想外の感覚と大きな音に驚いて身を固くしながら、自分がまだ生きているのか疑っていると。
「お前は、何だ……?」
――耳元で掠れた声が聞こえて。
引き寄せられて、彼の香りに纏われて。
そこで目を開け……抱き締められているのだと理解する。
その事実に、死を受け容れ落ち着いていたはずの精神に漣が立ち、じんわりと胸が熱くなる。
「……苦しい……!」
吐き出された言葉と息に、震える。
肩から背中へとヴォルデモートの手が這い、掻き抱かれるようにされて。指に込められた力が服の上からでも感じられた。そこから、彼の苦しみが伝わってくるようだった。
「この胸が……お前の身に何かあるたび痛み、お前がその瞳を俺様に向けると熱く締め付けられる……! ……お前を消してしまえば治ると思っていた。しかしお前を失うと考えるだけでこの身が悲鳴を上げる……!」
更に強く、わたしの存在を確かめるように、腕の中に閉じ込められる。
痛かった。しかし痛いほど彼の苦しみを分けてもらえるような気がして、拒まずに身を任せる。
彼の言葉を呑み込むのに時間が掛かってしまう。
それはわたしにとって、とても甘いものだった。
甘すぎて、食べきれるだろうか。
わたしなんかに与えられていいものなのだろうか。
それは。
あなたの、その苦しみは、痛みは。
もし、わたしの抱いているものと同じならば。
同じものがあなたにも芽生えていたならば。
狂ってしまいそうだ。
「わたしも、です」
自惚れでないか確かめるように自分の痛みを伝える。
「ヴォルデモート様に何かあると痛くて泣きそうになるし、ヴォルデモート様と一緒に居るとぎゅうってなります」
ここが、と。
2人の合間に手を滑り込ませて、わたしは彼の心臓の辺りに手を置いた。
衣服越しにも伝わってくるほど、彼の鼓動は乱れていた。
困惑してる。
ヴォルデモートは少し体を離し、わたしの顔を覗き込んだ。
その瞳が揺れていて、先程までは感情を押し殺していたのだと知った。
「これは……、……」
解らないんだ。
それか、解っているけど……認めきれずにいる。
ずっと拒んでいたもの、触れたことがなかったものを認めるのは、簡単なことじゃない。
彼の傷は、わたしには計れないほど深い。
それなら。
「ゆっくり、考えましょう……」
無理に答えを決めなくていい。
焦らないでほしい。
「わたしはずっと、ヴォルデモート様のお傍に居ますから」
あなたが認められるときがくるまで、一緒に待とう。
「……殺されなければですけど」
そう付け足して、困ったように笑ってみると。
くいと顎を固定されて、距離が近付いていると認識したときには、唇を重ねられていた。
突然のことに目が回る。
「殺すものか……」
触れるか触れないかの距離で囁かれ、ぞわりと甘い痺れが背中を降りて行った。
そして再び、そっと唇が縫い合わされて。
彼の言葉の余韻に浸りたいのに、できなかった。
何度も緩めては押し付けられてを繰り返されて、段々と深みを増す口付けにいっぱいいっぱいになってしまった。
飢えを満たそうとしているかのように、食べるようなその動き。舌で唇を濡らされ、下唇を咥えられ、咥内を味わわれる。わたしの喘ぎは彼の中に吸い込まれる。
彼の心臓の傍に置いていた手を掴まれ、指と指が絡み合う。杖手であったようで、2人の手で杖を挟むようになった。
口付けによる刺激でわたしが強張ったり体を跳ねたりすると、それを落ち着けるように重ねられた手に力が込められた。
こんなにも長く口付けていたことはあっただろうか。と言っても、のぼせた頭はどれくらいの時間か推し量れない。
唇と唇が触れているが、もっと奥の奥、精神的なところを擦り合わせているような感覚だった。
幸せだ。
ヴォルデモート様とこうしていると、堪らなく、幸せだ。
放されて、息を整える。
苦しかったのに、こんなにも名残惜しい。
擦り寄るように額と額を合わせると、すぐ傍で彼が息を吐くように笑ったのがわかった。
「痛みの原因はお前だが、唯一の薬でもある」
彼の手が頬を滑る。壊れ物に触れるように細い指になぞられる。
「ナナシ……傍に居てくれ」
ずっと。
と呟きながら、もう1度口付けられた。
お互いのそれが少し沈む、触れるだけの、とても優しいもの。
その優しさに、先程の夢を思い出す。
あの人はやっぱり、ヴォルデモート様だった。
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