かつて王国は二人/ロビン

子宮に帰りたい。思わず零した呟きを拾ったらしいルッチは、怪訝そうな顔をしてこちらを見た。問うような視線を無視して、机に突っ伏す。横に退けたグラスに注がれた、白い泡を頂く黄金の液体、その側面に、泣きそうな女の顔が写った。らしくない。けれど、これでこそ私だという気もする。所詮私は心を持つ人間で、冷酷な殺戮兵器にはなれない。五年も住めば、街にも住人にも情が湧く。私は彼らとは違う。誰かの命を奪うたび、心中に満ちるのは懺悔の言葉たち。ごめんなさい、ごめんなさい、あなたの明日を奪ってごめんなさい。それらは呪詛のように私を苛む。苦しくて仕方がなかった。しかし、殺される側にとっては、彼らも私も大差なく、殺害対象の目には冷酷な殺戮兵器として写るのだ。あまりに悲しい。こんなにも、後悔と恐怖と、救済を求める心を持て余しているのに。私は、救われたかった。
そのうち、仕事を終えたブルーノとニコ・ロビンが帰ってきた。漸く顔を上げた私と、こちらを見ていたらしいニコ・ロビンの視線が交わる。秀麗な顔立ちの彼女は、もの問いたげな視線を寄越していたが、結局何も言わず二階に上がっていった。彼女は強いと思う。二十年も政府の追手から逃げ切ったからではなくて、仲間の為にその身を投げ打つ事が出来るから。仲間に憎まれても恨まれても嫌われても、自分が捕まりこの先どうなろうとも、仲間が無事であるならば。覚悟を固めた彼女の瞳は、闇に浸り続けていたとは思えないほどに真っ直ぐで、やけてしまいそうなほどに輝いていた。悪魔のような女だとか、存在そのものが罪だとか、悪評ばかりが耳に入るけれども、実際には全くそんな事はなかった。いや、確かにかつての彼女はそうだったのかもしれない。彼女が在籍していた組織は、彼女ひとりを残して全て壊滅していると言う。真偽の程は定かではないが、実しやかに囁かれる程度には、裏切りを繰り返してきたのだろう。だが、そんな事は関係ない。過去は過去であり、今現在の彼女とは違う。人間は変わることが出来るのだ。
ルッチとブルーノは一言二言話すと、一斉にこちらを向いた。誰も彼も同じ顔をするものだから、おかしくなって笑ってしまった。あはは。何笑ってる、眉を顰めたルッチの低い声に、慌てて謝った。私もまだ、命は惜しい。どうかしたのか、問い掛けるブルーノの声は対照的に優しい。何でもないの、返した私の声は、普段と変わりなく。何でもない、そう、何でもない。ただ少し、感傷に浸ってしまっただけだ。

「いよいよ明日だね」

明日、明日だ。五年もの歳月を費やした長期任務は、ついに明日で終わりを迎える。古代兵器プルトンの設計図と、ポーネグリフを読むことが出来る唯一の女であるニコ・ロビンを手に入れて。あの、夜の来ない永遠に昼の島、エニエス・ロビーに帰還する。みんな元気かなあ。呟けば、ルッチは興味がないと言いたげに酒を煽ったが、その後、ぽつりと呟いた。相変わらず馬鹿をやってるだろう。その言葉は、主に長官と、ルッチが野良犬と呼ぶジャブラを思い浮かべてのものだろう。苦笑いを浮かべるブルーノが、店仕舞いを告げた。

「お前は子宮に帰りたいのか?」

帰り道、問うてきたルッチに、私は肯定を返した。帰りたい。この世で最も安全で安心出来る、温もりに満ち溢れた揺りかごに。

「理解できんな」
「いいよ、別に」

端から理解なんて求めてはいなかった。ルッチと私は全く違う生き物だ。生物学上は同じ人間だけれど、彼は冷酷な殺戮兵器になれる。五年程度、なんの障害にもならない。彼は明日、これまで共に汗を流し、切磋琢磨してきたパウリーたちを、なんの感慨もなくあっさりと殺してみせるだろう。彼は生まれながらの暗殺者だ。私とは大違い。私は、殺戮兵器にも暗殺者にもなれないまま、中途半端なまま、ここまで来てしまった。
不意に、ニコ・ロビンの覚悟を決めた力強い眼差しを思い出した。急に立ち止まった私を振り返るルッチは、目を丸くした。それは、私が泣いていたからだった。途端に溢れ出した涙は、ぽろりぽろりと頬を伝う。止まる兆しのないそれに、私は気まずさを感じていた。こんなつもりではなかった、泣くつもりなんて、これっぽっちもなかった。何故涙が流れているのだろう。混乱した。同時に、このままではいけないと思った。ごめん。あまりに小さな声だったが、聴力の優れた彼なら聞き取れただろう。何も言わない彼を置き去りに、元来た道を遡った。
戸を叩いた私に、出てきたブルーノは驚いたようだったが、すぐに柔らかなタオルと温かなココアを持ってきてくれた。お母さんみたい。タオルで涙を吸い取り、ココアを啜りながら、心に湧き上がった思いは、口にしなかった。面倒見が良くて、家事も出来て、とても家庭的な彼だけれども、ブルーノは母親でなければ女性でもない。こんなに優しさを持っているのに、ブルーノもまた、冷酷な殺戮兵器になれる人だ。ニコ・ロビンに会ってきてもいいかな。お願いすれば、ああ、と言った後、そっと頭を撫でられた。

「貴女がお母さんだったら良かったのに」

部屋に来て突然、そんな事を言い出したものだから、聡明な彼女も理解に苦しんだと見えて、眉根を寄せて首を傾げた。構わず、言葉を紡ぐ。

「私は子宮に帰りたいの。温もりだけが存在する、優しい揺りかごに」
「……胎内回帰願望、かしら?」

次は私が首を傾げる番だった。そんな難しい言葉は知らない。私の返しに溜め息を吐いたニコ・ロビンは、その反応とは裏腹に、懇切丁寧に優しく説明してくれた。曰く、人間には母親の胎内にいた時代に対する郷愁があり、胎内環境を連想させるような場所を好む心理の事、らしい。

「けれど、そうね……直接子宮に帰りたいと思うのは、稀なんじゃないかしら」
「理解、出来ない?」
「いえ……」

その時の私の声が、あまりにも不安で溢れ返っていたから、彼女は言葉を止めたのだと思う。暫く沈黙が流れた後、彼女は、優しい手つきで私の頬を拭った。止まったはずの涙が、再び零れ落ちていた。困ったような微笑みを湛える彼女は、いつか見た聖母マリアを想起させるものだから、余計に泣きたくなって、その衝動のままにぽろぽろと透明な雫を落とした。両の手は数え切れない程の人間の血でどす黒く染まっているのに、涙だけはどこまでも美しかった。

「おかあさん」

縋るように、彼女に抱きついた。隙間をぴったり埋めようとぐっと力を込めれば、おずおずと背に回された腕が、更に温もりを伝える。お母さん。私は母の顔も、名前も、何も知らない。物心ついた頃から、政府の養成施設でひたすら訓練に励む日々だった。母親の姿を思い描いた事もない。会いたいと思った事もない。けれど、私は確かに、十月十日、お母さんの胎内で育まれていた。それは紛れもなく、私にとっての救いだった。
ニコ・ロビンのお腹、丁度子宮があるだろう場所に、顔を埋める。帰りたい。この世で最も心安らぐ揺りかごへ。ニコ・ロビンは、片腕はそのままに、一方の手で私の頭を撫でた。その手の温もりと、労わるような優しさに、私は静かな眠りに落ちていった。


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