愛しい隣人の掟/クザン・ルッチ

「"自分を信じて諦めないで夢を追いかけろ"なんてよく言いますけど、それって無責任にも程がありますし、戯れ言もいいところですよね。だって、そうやって夢を追いかけた結果、叶えられた人間なんて一握り程度しかいないじゃないですか。その一握りから溢れ落ちてしまった人間は、人生を狂わせられるだけでなにも得ることはできないんです」

彼女の唐突さは今に始まったことではない。だから黙って話を聞いてやろうと、クザンは耳を傾けていた。こういうときは大抵、ただ聞いてほしいだけで、答えてほしいわけではないのだ。この親友のような、それでいて上司と部下という境界線を決して飛び越えることのない、怠惰で曖昧な関係は随分と長く、彼女が何を求めているのか、全てではないにしろ、クザンはだいたい把握していた。グラスを見つめる彼女の顔を何とはなしに見ながら、だらりとソファにその身を預ける。視線はグラスに向いていながら、どこか違うところ、遥か彼方を見ているような気がしつつも、それについてなにかを言うことはなかった。

「わたし、本当は海兵じゃなくて、海賊になりたかったんですよ」

サカズキに聞かれれば一発で溶かされてしまいそうな言葉も、クザンの前でなら遠慮なく言うことができた。それが本気であろうと戯れ言だろうと、クザンの態度が変わることはなかったからである。良くも悪くもだらけきっている、そんな彼だからこそ、なまえは長く部下を勤めてこられた。

「でも、夢を追いかけることなんて、わたしにはできなかった」

彼女は孤児だった。とある海兵に拾われ、育てられた。その海兵の背を追うように海軍に入隊し、戦闘の技術はからっきしであったものの事務職に関しては才能を見事に開花させ、こうして大将付きの秘書となっている。そんな彼女が、海賊になりたいなどという夢を、追うことはおろか、だれかに告げることさえできただろうか?答えは否、である。海兵に拾われた時点で、夢への道はほぼほぼ潰えたと言える。もちろん、育ての親を裏切って、制止の声を振り切って、海賊になることはできただろう。だが、それができるほどに彼女が冷酷でないことも、彼女にそこまでの度胸も勇気もないことも、クザンは知っていた。

「まあ、今じゃあ海兵になって良かったと思ってますけどね……こんなわたしじゃ、一握りの人間には到底なれやしなかったでしょうから」

夢を追うのも叶えるのも、それ相応の代償が必要となる。なまえはそれを支払う勇気を持ち得なかった。支払おうという気持ちさえなかった。夢を諦めるのは簡単だ。なぜなら、代償は"夢を諦めること"だけで済むのだから。なまえは簡単な道を選んだのだ。

「なまえ」

と、この日はじめてクザンはなまえの名を呼んだ。

「なんです?」
「おれと一緒に来る気はあるか?」

ようやく自身に向けられた視線に満足しながらもそれをおくびにも出さず、クザンは静かに言葉を紡いだ。

「……まさか誘われるとは思いもしませんでした。てっきり、あなたはひとりで行かれるのだとばかり、」
「本当はそのつもりだった……けど、お前見てたら、なんか、ひとりにはできねえなと思った」

放っておいたら死にそうだ、続けられた言葉に、なまえの片眉が一瞬ぴくりと反応した。気づきながらも、それ以上はクザンはなにも言わなかった。なまえもなにも言わなかった。ただなにかから逃げるように、なまえはグラスを煽った。ほどよい辛みが喉を通り抜ける。酒はあまり好きではなかったが、飲み物であればなんでもよかったし、今この場には目の前のグラスに注がれた酒しかなかった。

「同じことをおっしゃるんですね」

からんと氷が音を立てる。それが合図だったかのように、なまえは再び口を開いた。視線はまた、どこに向けられているのかわからない、遠い彼方へ移ってしまった。

「5年前、ウォーターセブンでの長期任務に就く前のルッチに、全く同じことを言われました」

今度はクザンが片眉をぴくりと反応させる番だった。戦闘能力は皆無に等しいものの書類仕事の能力はずば抜けていたなまえを、かつてルッチは高く評価していた。弱さは罪と豪語していたルッチだが、できる人間はたとえ弱くとも正当に評価する。それゆえに、歳が近かったことも手伝って、ふたりの仲は悪くなかった。むしろ良好と言って差し支えないもので、ルッチとなまえの関係は、どうしたってクザンが立つことのできない、"親友"と呼べるものに違いなかった。

「死にそうって、言われたの?」
「ええ……放っておいたら死にそうだ、だからひとりにはできない、と」

この場にいないルッチが本当のところどう思っていたのかなどわからないが、少なくともクザンは、ルッチのなまえに対する感情が友愛などではなく、れっきとした恋情であったのだろうと推測する。なぜなら、全く同じ言葉を吐いたクザンが、彼女に対する恋愛感情を持っていたからだ。それになまえが気づいているのかどうか。他人の心情を読み取ることが得意とは言わないまでも不得手ではないクザンでさえ、全くもってわからなかった。
彼女に言った通り、本当は置いていくつもりだった。自分についてきたところで彼女にはなんの得もない、むしろ戦闘能力の乏しい彼女にとっては危険が増すだけ。これが心底愛した男というなら話は別であろうが、何度も言うようにふたりの関係は親友にもなれなかった上司と部下だ。たかが上司のために、これまでの地位を捨てて同行するなど、よほどの馬鹿かよほど度胸の据わった人間のやることである。彼女は馬鹿ではないし、それができるほどの勇気を持ち合わせていたのなら、そもそも海兵になどならず、夢を叶えるために今ごろ海賊船に乗っていただろう。
それでも誘われたなら、とクザンは思っていた。誘われたなら、断ることはしないだろう、と。どこか精神的に不安定な部分のある彼女を放っては行けないと言いながら、結局のところ自分が手放したくないというだけのことなのだった。だから、次に彼女の口から飛び出した言葉に、眠たげな目を飛び出さんばかりに見開いて、クザンは驚いた。普段の彼であれば、冷静に当然と捉えたであろうに。

「お断りいたします」
「え……え、なんで?」
「なんでと言われましても……」

数瞬、迷うように目線を宙にさ迷わせ、最終的にやはりグラスに到着すると、同時に言いにくそうな囁き声で告げた。

「わたしには、あなたもルッチも、選べやしません」

つまるところ、なまえはクザンの想いもルッチの気持ちも全て気づいていた。気づいた上で、どちらの好意も受け取ることなく、かといって拒絶するでもなく、見て見ぬフリをした。それが最も簡単で、彼女は己の夢と同じく、その簡単な道を選んだのだ。
彼女が去っていった部屋で、クザンは、もう二度と会うことはないのだろうと思う。自身も、ルッチも。前線に出る、例えばスモーカーのような海兵ならば、どこかの海でどこかの島で、ばったり出会すということもありえなくはない。だが、なまえに関してはその可能性は皆無に等しい。彼女は戦闘員ではなく、あくまでも事務員だからだ。

「ざまあねえな……なあ、ロブ・ルッチ」

今はどこで何をしているのか、さっぱり連絡のない元暗殺者に、届くことのない同情のような感情を抱く。あの、女に不自由はしていない男も、本命の女には呆気なくフラれた。その事実がおかしくなって、乾いた笑いが溢れた。自身もまた同じであるという現実には、目を瞑って。



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