どうかキスをお願いします/ルッチ

彼がただの船大工でないことは、一目見た瞬間から分かっていた。否、『知っていた』。この街の造船業の要たるガレーラカンパニーにて、一番ドックの職長の一人を勤めているという時点でただの船大工ではないのだけど、それはまあ置いておくとして。彼は実は世界政府直下の諜報機関の中でも特殊な、世間には公表されていない、寧ろ暗殺機関と称した方がより正確であろうCP9に所属する、生粋の暗殺者なのだった。
その彫りの深い整った顔立ちを眺めながら、数年前の記憶を思い起こす。数年前、私は彼と彼らの闘いを、紙面に描かれた娯楽のための物語として読み、または画面越しに見つめ楽しんでいた。そうーー私はこの世界の住人ではない。私がひょんなことからある日突然この世界に飛ばされて、紆余曲折を経てこの街に根を下ろした経緯は長くなるので省くが、ともかく、この水の都で細々と暮らし始めた頃、四人はやって来た。一人は街でバーを開き、一人はガレーラの社長秘書、そして二人はガレーラの船大工に。誰にも疑われることなく、潜入捜査を開始したのだった。この街に真実を知る者は四人と私以外には存在しない。私とて命は惜しく、故に四人とは距離を置いていた。元々造船業とは関わりの薄い職柄、怪しまれることなく避けることは容易かった。……容易かった、のに。
あの日は急な雨に降られて、傘を持たない私はびしょびしょの濡れ鼠になりながら家路を急いでいた。袋に入ったパンを庇いながら、こんなことなら明日にすれば良かったと後悔を抱えて。昼前にふと、最近オープンしたお店のパンを食べてみたくなったのだ。というのも、昨日やって来たお喋りなお客さんが、あそこのパンは絶品よとそれはもう満面の笑みで絶賛していたからだった。そして、幸か不幸か今日は週二日ある定休日で、一日暇だからと衝動に任せ買いに出かけた。その結果がこれだった。
既にずぶ濡れなのだからと容赦なく水溜まりを踏み付け走ること数分、漸く見えてきた家の軒先で、雨宿りする人物の姿にぎょっと目を剥いた。見間違えるはずもない。肩に乗せた白鳩を指先で撫でながら空を見上げる彼は、タンクトップにサスペンダーとシルクハットを被った彼は、紛うことなきロブ・ルッチであった。抱えていた荷物を濡れた地面へ落としてしまった私を、音に反応してか元々気が付いていたのか、こちらを向いた彼の眼光が射抜いた。
幸いにしてパン達は無事だった。止む気配のない雨に、放置するのもーーまして相手はこの街のヒーローも同じであるーー人としてどうかと不承不承ながら招き入れた彼にバスタオルを渡し、私も着替えを済ませる。そうしてキッチンに放置していたパンを取り出してみれば、多少冷めてはいるもののなおふわふわと美味しそうだ。まだお昼を済ませていなかった私は腹の虫が鳴きだしそうで冷や冷やしながら、リビングのソファに座る客人を見た。いつから雨宿りしていたのか知らないが、恐らく彼もまた昼はまだだろう。仕方ない、一人だけ食べるというのも居心地が悪いというもの。適当なお皿に盛り、コーヒーを淹れ、彼の前の机に置く。「どうぞ」ちら、とこちらを見た彼は、逡巡した後、ぽつりと「頂くぽっぽー」と。思わず噴き出した私はじろりと睨まれ、慌てて弁明する。

「いや、あの、本当にハトが喋るんだなあって」

実際には彼の腹話術なのだが、そこまで言及する必要は無いだろう。あまりにも技術が高度すぎて、街の人たちもハトが喋っていると信じる者も多い、らしい。風の噂で聞いた限りでは。
そんな私の言い訳に溜飲は下がったらしく、彼は黙々とパンを食べ始めた。元から然程怒っていなかったのかもしれないけれど。彼は眼光が鋭いし、何故か無表情を貫いているため、怒っているのかいないのか、判別ができない。さすがは悪役。いやでも、一応正義を背負っているんだっけ。ついでに言えば、正体を明かしてからは結構悪どい笑みを浮かべることも多かった。……役作り?
そんなことを頭の片隅で考えつつ、私もまたパンに手を付ける。クロワッサンにクリームパン、ジャムパン、と食べ進めるうち、ふと彼がこちらを見ていることに気が付いた。口の中に入ったままだったので、咀嚼しながら首を傾げる。するとなんともまあ驚いたことに、彼がふっと笑ったのである。思わず目を丸くした私に、口元は笑んだまま、甘党なんだな、と彼が言う。その言葉に、自分が今まさに食べ終わろうとしているパンと、彼の手元のパンを交互に見比べ、はっと気が付いた。

「もしかして、甘いもの苦手でした……?」

何も考えなしに渡してしまったが、彼の言う通り私は甘党で、購入したパンたちもまたどちらかと言えば甘い系ばかり。しかしよくよく考えてみれば、彼は甘いものが苦手なのではないだろうか。
余程不安げな顔をしていたのだろう、笑みは苦笑いに変わり、彼はいや、と首を振る。

「甘ったるいのはあまり得意じゃねえが、このパンはくどくなくて美味しいっぽ」
「良かった……」

ほっと息をつく。彼の正体を知っている私は、機嫌を損ねたら殺されてしまうかも、という恐怖があった。潜入任務中にやたらめったら人を殺しはしないとは思うものの、いざとなれば政府お得意の隠蔽工作を使って……なんて考えてしまう。
そんな私の思考なんて知るはずもない彼は、不意に部屋を見回した。刺繍をやっているのか?窓辺に掛けられた布を見つめ言う彼に頷く。

「趣味の延長みたいなものですけどね。でもちょっとずつ顧客も増えていて」

祖母に教わった刺繍。まさかこんな所で役に立つとは思ってもいなかったけれど、奥様方には案外人気だ。
そうか、と呟いた彼は何かを考えるように下を向いていたが、ふと前をーー私を見据えた。

「おれのネクタイにも、刺繍をしてくれないか」

へ、と間の抜けた声を発した私は、きっとぽかんと間抜けな表情を晒していたに違いない。
そんなこんなで初めは刺繍職人と客としての付き合いだったーーちなみに"おれのネクタイ"というのはハトのハットリのネクタイのことだったーーのだが、どうしてそうなったのか、いつの間にやら個人的なお付き合いをするようになっていた。食事に出かけたり、お弁当を作ってあげたり、街で出会せば軽く話しては共に帰路に着いたり。そういうわけで、あれだけ避けていたカクさんやカリファさんとも顔見知りになり、なんというか、知らない間にルッチさんの恋人認定をされてしまっていた。「あなたがいいならいいけれど、あまりあの男はオススメしないわよ」とは、カリファさんのお言葉である。理由は分かり切っている。政府の諜報員で暗殺者、かつ本来の性格は残忍で戦闘狂。私だって誰かに薦めたりはしない。けれど、何故だろう、気付いたときには、私は彼が好きになっていた。そして、私はそこまで馬鹿でも鈍感でもなかったから、彼もまた私を好いているのだということを、分かってしまっていた。



運命の日はもう目前にまで迫っていた。
今日、ドックに麦わらの一味が来たと彼が言った。彼が時折寝泊まりするようになって、徐々に彼の私物が増えて、今では半同棲状態な私の家でのことだった。今日、ドックに麦わらの一味が来た。彼の口がその言葉を紡ぐのを、どこか遠い世界のことのように見ていた。彼が私と二人きりのときには腹話術を用いなくなったのは、一体いつからだったろう。
原作の記憶など随分と朧だが、確か今夜アイスバーグさんが暗殺未遂に遭い、明日の夜には、彼は仮面を剥いで帰ってしまう。そう思ったら、自然と言葉が零れ落ちていた。

「行かないでなんて言わないよ」

彼のネコ科を思わせる目が少しずつ見開かれていく。

「連れて行ってとも言わない」
「お前……」

驚いたようだった。私が彼の正体を知り、何をしようとしているのかまで見抜いているのだ、ということが分かったらしい。かつては命惜しさに距離を置いていたというのに、口封じに殺されるかもしれないと理解していて仄めかしたのだから、私も随分と愚かになった。これも惚れた弱みだろうか。何も知らないフリをして生き続けるよりも、全てを受け入れてそれでもなお愛しているのだと伝えて殺された方がいいと、一瞬でも思ってしまった。

「愛してる人のことくらい、分かるわ」

だからちょっとだけ、かっこつけさせてほしい。本当は、出会う前から知っていたけれど。
彼が手を伸ばす。その先には私がいて、数多の人を屠ってきたその美しい指先に貫かれるのだろうと、全て受け入れるために目を閉じた。けれど次の瞬間、私の体は温もりに包み込まれた。抱き締められたのだ、気付くのにそう時間は掛からなかった。

「ルッチ……?」

私が彼を呼び捨てにするようになったのも、いつからだったろう。てっきり口封じのために殺されるのだとばかり思っていたから、戸惑いを隠し切れない。そんな私の耳元で、彼が囁いた。待っていてくれ、と。

「必ず迎えに来る」
「……うん」
「必ず」

そっと唇を重ねる。その仕草が、その瞳が、あまりにも切なげで、愛おしいと全身で叫んでいて、どうしようもなく居た堪れない気持ちになる。ぎゅっと背にしがみつけば、回された手が私の体を更に力強く抱き締める。愛してしまった、愛されてしまった。こうなることくらい、初めから分かっていたのに。
その約束が果たされないであろうことを、私は、私だけは、知っていたのだ。


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