女心と秋空の戯れ/黒死牟

気付けば虫の鳴き声が変わっていた。つい先日まで命を燃やしていた彼らは鳴りを潜め、寒蝉の最後の叫びと台頭してきた涼しげな鈴の音が不協和音を生み出している。
ぴたり、と止まった筆。思うように進まない。浮かんでは消え、形を為しては靄と化す。結末は疾うに決めていたというのに、そこへ行き着くまでの道が見えなくなる。行き詰まってしまった。こんなことは久方振りだった。ふうと一息。諦めて筆を置く。こういうときに無理して書こうとすると、それはもう見るも無惨な結果となることは経験済みだった。まあいい、締め切りまでは日がある。たまにはそんな時もあるだろう。作家として致命的な不調に陥ってしまったというのに、存外私はあっけらかんとしていた。一千年という時の中で、自分の内に秘めた想像ーー創造が、突然なんの前触れもなく尽きてしまうことはままある事象だった。これで私が見た目とほぼほぼ同じだけの年齢しか重ねていないようなら、焦りを覚えて更なる悪循環にはまっていたかもしれない。亀の甲より年の功、は少し違うが、何にせよ、中身は武士の台頭より僅か以前の生まれであるが故、少々のことでは動じない余裕も生まれるというものだ。
息抜きでもと立ち上がり、何の気なしに見上げた空には見事な上弦の月。重なるように一人の男を思い出す。異相でありながら損なわれることのない端正な容貌、高く結われた闇色の長髪、育ちの良さを窺わせるしゃんと伸びた背筋。そういえば数年余り会っていない。元気でいるだろうか、など愚問が過ぎる。彼に大事あったのなら流石の私もあの方に呼び出されぬ筈がない。それがない以上、まあ、元気にやっているのだろう。
しかし、だ。数年会っていないということはつまり、その間に完成した小説は読ませていないということになる。彼が雑誌類を買うような男であれば別だが、どうにも繋がらない。あれには小説だけではない、世間の俗な噂なども載っているのだ。俗世に触れている姿など想像もつかない。たまには人に擬態して街を歩くこともあるだろうが、そもそも私の書いたものがそういった所に載っていることさえ知らぬやもしれぬ。上手いこと時代の流れに乗ってきたあの方や私とは違い、侍であることにある種の矜持を持っている所のある男なのだ。流行なんかには些か疎い。
これは由々しき事態だ。私としたことが、一度交した約束を違えるなど。維新以来、読まれる機会が増えたためだろうか。その前は年に一度ほどの頻度で会いに行っていたというのに。
そうとなれば即行動がこの私だ。鳴女、と無限城の管理者を呼ぶ。優秀かつ有能な彼女は、ほんの囁きひとつさえ聞き漏らすことなく。遠く琵琶の音が響いたと思った次の瞬間、私の体はふわり宙へ浮いた、のではなく、突如として床に現れた襖が開かれ落下していったのであった。
この感覚も久しいなと思いつつ静かに着地する。相も変わらず目眩のしそうな内部構造だ。くるりくるりと身を翻し辺りを見回してみたが、どうやらあの方は不在らしい。ほっと胸を撫で下ろす。顔を合わせるのは少々面倒だったからだ。それに、と廊下をひとつ挟んだ場所に佇む男の元へ跳ぶ。

「ご無沙汰しておりますわ」
「やはり……そなたであったか……」

他の上弦が見当たらないことから察していたらしい。この男もそうだが、真に褒めるべきは鳴女であろう。私があの方の呼び出し以外でここへ来るとき、それは大抵がこの男との逢瀬のためなのである。時折違う者ーー例えば堕姫ちゃんだとかーーとの逢い引きが目的なこともあるが、稀である。と言うより、その場合はあちらから接触を図ってくることがほとんどで、私から行動を起こすことはまあないと言って良い。あの子たちもかわいいには違いないのだが、そこは"お気に入り"との差。仕方のないことである。
原稿は我が家に仕舞われている。それに今宵は上弦の月が大層美しかった。どうせなら月見酒でもしようかと、私は鳴女を呼んだ。この城には、庭は疎か縁側や窓さえない。月見など出来ようはずもなかった。誰も彼も陽に当たれない身であることを思えば、仕方ないと言わざるを得ないが。
名を呼ぶだけで意図を察する彼女は、本当に、あの方には勿体ないくらいの優秀さだ。……流石に不敬だろうか。否、思うだけならばーー目の前にして思わなければ、罪にはなるまい。
再びの浮遊感。数瞬の後軽やかに降り立ったのは、先程までひとり空を見上げていた縁側だった。

「今原稿と酒をお持ち致しましょう」

掛けるよう促せば静かに腰を下ろす。時に饒舌となることは知っていたが、基本的には寡黙な所が私の目には好意的に写った。月夜の如く物静かな男。すぐ感情を顕にするような男はひとりで充分である。

「ーー黒死牟殿は、秋が似合いにございますね」

ここ数年で完成させていた小説の原稿を読む彼に、ふと思ったことを告げる。ゆるりと面を上げた彼は、その六つ目をたおやかに細めた。

「月の呼吸……拝見したのは一度きりではありますけれども、あの美しさ、中秋の名月も見劣らんばかりであったと記憶しております」
「よせ……世辞は好かぬ……」
「そのようなこと。何時如何なる時にもこの私、本心以外を申したことなどございませんわ」

にっこり笑えばそれ以上何も言わず、彼は再び紙面へ目を落とす。
ああ美しい。今や人の身にあらずとも、その美しさに翳りひとつなく、否、寧ろ人の身を超越したが故のなまめかしさがある。正直あの方のことは好きでも嫌いでもないが、この男を鬼としたことには好感しかない。尤も、私とあの方とでは選択の仕方が全く違うのであろうから、意味なきことである。
先日知り合った稀血の少女。彼女から拝借した甘美な血を一滴垂らす。無色透明であった酒に赤の濁りが広がる。鬼も酒には酔うが、そこに稀なる血を混ぜれば、それはもう格別であろう。血肉全て揃っていれば言うことないが、それではあまりに風情というものがない。あくまで"月見酒"、私もこの男も、花より団子の質ではなかった。
幾つか読み終えた彼に酒器を手渡し、先程の稀血酒を注ぐ。芳しい香りが漂う。多くを喰らってきたが、ここまでまろやかに匂い立つ稀血もそうはない。それは男にとっても同じらしく、香りを楽しむように六つ目を閉じた。
千年の夜を生きてきた私にはーーあの方はそうではないらしいがーーもはや太陽などいらぬとさえ思う。そう思えるのは、ひとえに闇夜を照らす月があるからだ。この美しき男がいるならば、泉は枯れぬであろう。創作もーー生命も。私の気に入り、地上の月。くすりと笑んで、天上の月を見上げた。



黒死牟はちらりと女を見遣る。掴み所のない笑みを浮かべ月を見上げるその姿は己より歳下のようで、しかし中身は己より遥かに上であると知っている。恐らく己を含めた全ての配下の中でも古参ーー否、最古参であろう鬼。その強さは推して知るべし。が、十二鬼月に選ばれるでもなく、青い彼岸花の捜索も産屋敷の拠点捜しも命ぜられず、ほぼ自由を許されている。あの方とどのような関係にあったのか、それを知ることは今後もないだろうが、黒死牟はなんとなく察しが付いていた。二人が匂わすことはないものの、情を交わした者同士というのは見る者が見れば分かるものなのだ。黒死牟はかつて妻子を儲けた身である。気付くのにそう時間は掛からなかった。既に過去の関係であるのか、今なお続いているのか、そこまでは流石に分かり得なかったが。
さて他に勘付いている者が幾人いることか。そも、彼女の存在を知る者自体少ないのであった。黒死牟が把握している限りでは上弦、下弦の二人ばかり、それから同じ文筆家仲間だという元下弦の陸。意図的にか無意識にか、あの方は彼女の姿を晒したがらない節がある。肉体関係がどうであれ、あの方に関しては今も心を傾けているようであった。
そこまで考えて、何故かちりりと痛む心の臓に首を傾ぐ。あの方が彼女にどのような想いを抱いていようと、彼女があの方をどう思っていようと、己には関係のないことである筈だ。その筈だ。だのに、これではまるでーー黒死牟の脳裏にあの方の言葉が蘇る。

「やけに慕っているようだな。身の程を弁えろよ、黒死牟」

慕っている。そうかもしれない。彼女の傍は心地が良い、息がしやすい、全てを委ねてしまいたい衝動にさえ駆られてしまう。しかしそれは、幼子が母や姉に懐くようなものであって、彼が勘繰るようなことは全くない。ーーそう、思っていた。
黒死牟は白魚の如き手に武骨な手を重ねる。自分から触れるのは初めてのことだった。酔いのせいにしてしまえばいい。黒死牟らしくもない思考であった。仄かな温もりを宿すそれは小さく柔い。簡単に握り潰せてしまえそうである。実力はどうであれ、彼女はこんなにも儚く弱々しさを感じさせるものであったかと、黒死牟は目を見張った。
先程読んだ彼女の小説にあった一節。"愛しているなどと、お前様、軽々しく口にするものではありませんわ。そうですね、どうしても溢れてしまいそうになった時、抑えが効かなくなってしまう時、そのような時には、こう言うが良いでしょう"

「月が……綺麗だな……」
「死んでもいいわ」

間髪入れず返された言葉。思わず横顔を凝視する。月から目を離し、嫋やかな微笑みのままに此方を向いた彼女は、


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