ヴィオラは春をうたわない/L

いつからかはもう忘れてしまったが、昔からーー少なくともワイミーズハウスに入った時には既にーー何かを失うことが怖かった。だから失くしてしまわないように、自分の物には必ず名前を書いた。奥に仕舞い込んでしまうのは気付かぬうちに消えてしまいそうで不安だったから、いつも目につく場所へ置いた。そのためか、孤児院ということもあっただろうが、案外と私物は少なかったように思う。室内の物の大半は同室の子の持ち物だった。
けれども、一度だけ、たった一度だけ、大切にしていた物が姿を消してしまったことがある。ちゃんと目の届く場所に置いていたのに、たった数分目を離した間に忽然と消え失せてしまった。あの日は悲しくて悲しくて、泣き喚いて先生たちを困らせたものだった。
あれは確かーーそう、まだ肌寒さの残る春の、何度目かの誕生日から暫く経った日の事だった。
私は入浴を済ませて部屋に戻り、順番が来たルームメイトを見送りつつヴィオラの表面を撫でていた。無機物であるはずなのに、そうしているといつも母の温もりを感じられた。東洋のある国では、大事に大事に扱っている物には魂が宿るという考えがあると聞いたことがある。このヴィオラもそうなのかも、とその度に思った。まだ弾くことはできないけれど、手入れは毎日欠かさずしていたし、いろいろな事を話して聞かせた。ちょうど幼子が、ぬいぐるみや人形にするように。だからその日もまた、昼間にあったことを話してあげていた。難しい問題が解けたこと、誰々がやんちゃして怒られていたこと、泣いていた年下の子を泣き止ませてあげたこと。返事は当然ないけれど、相槌を打ってくれているような気がしていた。訂正、私にとってその行為は、ぬいぐるみや人形に対するものではなくて、どちらかといえば母に話し掛けている心地だった。だってこのヴィオラは、いつも母の傍らにあったのだから。
そのうちにトイレに行きたくなって、私は部屋から出た。鍵は、閉めなかった、と思う。
数分後、戻った私は扉を閉めた状態で暫し放心していた。ない。どこにもない。母の形見のヴィオラが。一番目立つ場所に置いていたのに。
必死に探した。部屋の隅々、ベッドの下も机の下も使ったことのないタンスの奥まで、部屋中を引っ掻き回した。それでも、見つからない。混乱と恐怖と悲しみ。ごちゃ混ぜになった感情は私の目から涙を零させるには充分すぎた。わんわんと泣き喚いて、私は部屋の中心で蹲った。
入浴を終えて戻ってきたルームメイトが、慌てて先生を呼んできた。普段比較的大人しく、特に問題を起こしたこともない私の奇行に、ルームメイトは勿論、先生たちも只事ではないと思ったらしかった。

「おかあさんの、おかあさんの、ヴィオラ、どっか、いっちゃった、どこにもないの、」

泣きじゃくりながら、言葉につかえながらなんとか状況を説明した私は、先生の胸元でまた泣き喚いた。
母がそれなりに有名なヴィオラ奏者であったことは院の誰もが知っていることだった。そんな母を私がとても尊敬していることも、大好きなことも、憧れていることも、将来は母に負けないくらいのヴィオリストになりたいと思っていることも。だから、先生たちも必死で探してくれた。院の皆も探してくれた。室内の隅々、庭の隅々まで。けれどーー捜索の甲斐虚しく、見つかることはなかった。
もう夜も遅いから今日は寝なさい。そう言って先生たちは戻っていった。また明日皆で探しましょうと。けれど私は大人しく眠る気は更々なかった。それでなくとも、ベッドに潜り込んでも到底眠れそうにはなかったのだ。だからルームメイトが寝入ったのを確認したあと、こっそり部屋を抜け出した。まだ探していない場所があることを、私は知っていたから。
その場所は、この院一の天才が籠る小さな居城。出入りしているのは院長のワイミーさんのみと言う。そこだけは、誰もーー先生たちでさえーー知らべようとはしなかった。理由はわかる。誰も偏屈な天才と関わり合いにはなりたくないだろうし、それで面倒を起こすなんて以ての外だからだ。私だって気持ちは同じだ。機嫌を損ねたりしたら何をされるか分からない。そんな印象を抱いてしまうくらいには、その部屋の主の噂は強烈なのだった。
けれど、そんなことが二の次になってしまうほど、私にとってあのヴィオラは大切だった。
部屋の前で何度か行ったり来たりを繰り返したあと、意を決してドアをノックした。ゆっくりと、一回、二回、三回……返事がない。こんな時間だし寝ているのかも、とさすがに眠りについた人を起こしてまで部屋に這入る図々しさは持ち合わせていなかったため、諦めて帰ろうとした、その時。
急に目の前のドアが、開いた。

「あ、」

目が合う。黒々とした瞳と、至近距離で。
驚いて言葉が上手く出てこない。言おうと思っていたことも、夜の挨拶さえも。ただ見つめあって、そのうち彼の光を宿さない瞳に、何を考えているのか分からないその瞳に気圧されて、半歩下がった。そんな私の反応に何も言わず、しかし彼もまたその身を退けて背を向けた。

「どうぞ」

ただ一言。入室を許可されて、おどおどとしながら彼の背に続いた。
噂の彼の部屋は、何台ものコンピュータが設置されており、どの画面にも複雑なグラフや数式が写されていた。私にも理解出来たのは唯一、株価の推移らしきものだけ。その他は全く分からない。やはり彼は天才なのだ。そう思った。
画面が放つ光の眩しさと、親しくもないーーそれも良いとは言えない噂が流れるーー人物と二人きりであるということ、傍にヴィオラがないことの不安で、次第に視界が滲んでいき、知らず知らずのうちに涙が溢れていた。鼻を啜っていると、彼が不意に振り向いた。勝手に押し掛けてきて勝手に一人で泣き始めた私にもまた何も言わず、驚きもせず、ただ後ろに回していた手を前方へと戻した。
その瞬間、私はあっと声を上げていた。私は涙で濡れた目元をごしごしと擦り、年上の彼を見つめる。変人なことで有名な彼を。

「それ、わたしの、」
「……知ってます」

ぶっきらぼうな口調だったけれど、その瞳に心配そうな色が写っていたのはーーきっと見間違いなんかじゃない。不思議と彼が盗んだとは思わなかった。

「……貴女の部屋の隣のメガネを掛けている方、彼が犯人ですよ。他の人が探し回っている中、こそこそ隠そうとしている所を見付けたので取り返しておきました」

その彼はよくからかってくる男の子だった。ヴィオラなんて、といつも馬鹿にしてくるので苦手だった。今思うと、あの孤児院の中で一つでも親から譲り受けた宝物を持っている人は少なかったから、羨ましさと妬ましさが彼にそんな言動をさせたのだろう。

「本当はワイミーさんから渡してもらおうと思っていたんですが。まさか貴女がそこまで行動力のある方とは思いもしませんでした」

褒められているのか呆れられているのか、複雑になりながら彼の手から母の形見を受け取る。当時の私にはまだ大きすぎて、いつも抱えるようにして持ち運んでいた。

「あ、ありがとう……」
「よく弾いてますよね、ヴァイオリン。ここまで聴こえてくるんです。……お上手だと思います」
「え……」
「将来、楽しみにしてます」

来たその日に年上の男の子たちを蹴散らし、一室に引き篭って毎日をコンピュータの前で過ごしていると噂の彼が。私を、褒めた。驚きで大切なヴィオラを取り落としそうになった私に、彼は、ほんの少し微笑んだ。少なくとも、私には微笑んだように見えた。

「たとえ失くしてしまっても、こうやってまた見つけてあげますよ」

その瞬間、私の心に巣食っていた恐怖心がほろりほろりと瓦解していった。命よりも大切なヴィオラをぎゅっと抱き締める。悲しみは消えたはずなのに涙が止まらない私の頭を、雪より白い彼の手がゆっくりと撫でた。冷たい手。その動作は恐る恐るといった風に不器用で、けれど何より優しかった。
その日以来、極度の失うことへの恐怖は薄れていった。ちゃんとタンスや引き出しの中に物を入れていられるようになったし、なんでもかんでも名前を書く癖はなくなっていった。全て彼のおかげだ。たとえ失くしてしまっても、彼がまた見つけてくれると、そう言ってくれたから。
もうかつてのようにお喋りなんてできない。会うことも、いや姿を見ることさえ叶わなくなってしまった。遠い存在だ。私も音楽業界の第一線で活躍しているけれど、彼には遠く及ばない。なんと言っても彼は最後の切り札なのだから。
それでも、ふとした瞬間に思い出す。私にヴィオラを差し出した彼を、心配そうに見つめてきた漆黒の瞳を、柔らかな微笑みを、頭を撫でてくれた真白い手の温もりを。そして、呪縛を解いてくれた言葉を。
ーーどうか私が死に絶えるその日まで、彼が喪われませんように。
そんな願いを胸に、今日も私はヴィオラを掻き鳴らす。彼がテレビ越しに見ていてくれたらいいな、なんて。


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