血染めに狂い咲く/ドストエフスキー

男が目を覚ました。まだ薄暗い曙の刻である。
何処かで鶯が下手くそに鳴いている。其の声に突き動かされるようにゆったりとした動作で起き上がると、心臓が動いていることを確認するかの如く薄い胸元へと右手を置いた。左の手は目元に掛かった前髪を掻き上げ、僅かに開かれた口許は悩ましげであった。

「ーーーーーーー」

小さく何事かを呟くと、男は其の口許を歪めて妖しい笑みを浮かべた。彼の瞳に宿るのは、愛憎を超えた執着の色であった。



「夢を見ました」

男は云う。偶然相席となった彼は、見た目の割に社交的らしい。
麗らかな午後。私は行きつけの喫茶店で遅めの昼食を摂ろうとしていた。今日の講義はもうないし、このまま此処で時間を潰して夕食も食べていこうと思いつつ、ランチメニューを頼む。外はサクサク、中はふんわりな卵サンドが此の店の看板メニューで、私のイチオシでもある。本当に美味しいから、大学で出来た友人たちにもお薦めしていたりする。
この時間は穴場で、意外と空いている筈なのだが、今日に限ってはそうではなかった。待ち時間こそさほどなかったが、こうして見知らぬ男性と相席することとなっている。まあ相席くらい構わないしーー提案してきた店員さんがあまりにも申し訳なさそうで逆に申し訳なくなったくらいだーーこういう日があっても悪くはない、そう思っていた。けれど。
彼は、更にこう続けた。

「ぼくは一本の木の下に立っていました」


とても大きな木です。樹齢何百、いえ、もしかしたら何千かもしれません。それほどに幹は太く、ぼくと貴女が腕を回しても手が届かないほどで、枝もまた立派なものでした。其の上に小屋を作れてしまうくらい。ただ、其の木は葉が一枚もないのです。冬、だったのでしょうか。それにしては寒さというものを感じなかったのですが。
……其の格好ならある程度の寒さは耐えられるだろう、そう云いたげですね。顔に書いてあります。分かり易い人は嫌いではありませんよ。ですが、残念ながら夢の中のぼくはもっと薄着だったんです。コートは当然羽織っておらず、本当に薄手のシャツとジーンズだけ。そんな格好でしたら、冬なら震えが止まらなくなるほど寒いでしょう?しかしそれはなかった。かと云って茹だるような暑さもありませんでしたから、きっと季節は春だったのでしょうね。秋かもしれませんが、それはぼくのお話を最後まで聞いて下されば分かりますよ。
さて、ぼくはそこで人を待っていました。誰だと思います?……そうです、恋人です。問題にするには些か簡単過ぎましたね。そういう意味ではベタな夢だと云えるかもしれません。
更にベタな展開で申し訳ないのですが、ぼくは彼女と駆け落ちしようとしていたのです。彼女は貴族のような、それはもう裕福な家の一人娘でね、ぼくもまた同じような家柄の一人息子だったのですが、まるでロミオとジュリエット、ぼくたちの家は代々敵対関係にあったのです。政治の場では常に相手の粗を探し、子はより優秀に、街で擦れ違おうものなら一触即発。そんな感じですから、当然結婚など認められる筈もありません。しかしぼくたちは愛し合ってしまったのです。
許されない恋でした。そんなことは始めから分かっていたけれど、それでも湧き上がる熱情は抑えようもなく、ぼくたちは密かな逢瀬を繰り返していました。堂々とデートは出来ませんでしたが、それもまたぼくたちを燃え上がらせる興奮材料となっていました。
そして情熱が最高潮に達したとき、どちらからともなく駆け落ちを約束したのです。明朝、町外れの大木の下で。ですからぼくは、木の下で彼女を待っていた。
暫くして彼女が現れました。身を隠す為でしょう、普段より地味な格好で、しかしそれでも美しさ愛らしさは一段と増しているような気がしました。家と云う名のベールを剥いだ、素のままの彼女。歓喜が胸を満たしていったのです。これからはぼくだけの彼女だと。
だからぼくは、其の喜びと膨れ上がって行き場のなくなった愛しさとを彼女に伝える為に、共有したいが為に、歩み寄ってきた彼女を抱き竦めました。腕の中にすっぽりと収まってしまう、そんな彼女がいとおしい。けれど、瞬間、僕の体に走ったのは恋の電撃などではなく、異物が皮膚を突き破って侵入してきたことによる激痛でした。
ゆっくりとぼくの腕の中から離れた彼女。其の手に握られていたのは、掌にすっぽりと収まる小さなナイフでした。隠し持っていたのです。小さいとは云え鋭利な刃物で腹部を刺されたのですから、無事ではすみません。しかも其の日そこへ行くことは誰にも伝えていませんでした。当然です、誰かの耳に入れてしまえば、駆け落ちの意味がなくなってしまいますから。ですから、救援などとても望めない。唯一それが可能なのは彼女だけですが、刺した張本人がどうして助けを呼んだりするでしょう。
咄嗟に傷口を押さえ、なんとか止血を施そうとしました。が、そんなぼくに彼女は云うのです。「無駄よ。此のナイフには毒が塗ってあるから。血が止まらなくなっちゃう毒よ」ぼくは絶望しました。死がすぐ間近に迫っていたことに、ではありません。彼女が、確実にぼくを殺そうとしていることに、です。ぼくたちは愛し合っていた、確かに愛し合っていた、其の筈だったのに。
愚かなぼくを彼女は笑いました。「私はずっと、貴方を殺す機会を窺っていたの。貴方が私に惚れていると知った時、すぐに父様と母様に伝えたわ。そうしたら、今回の計画を命ぜられたの。貴方を殺せばそちらの後継はいなくなり、長年の確執に終止符が打たれるわ。ねえ、素晴らしいことでしょう」泣きたくなりました。腹部も心も痛くて堪らない。彼女から受けた優しさは、脳裏に焼き付いた微笑みは、育んできた愛は、全てが紛い物だったのです。
「私結婚するのよ」彼女は云いました。見たことのない指輪を嵌めた左薬指をちらつかせながら。「さようなら、馬鹿なフョードル」
血を流し過ぎたせいで目が眩み、大木を背にずるずるとしゃがみこんだぼくを放って、彼女は颯爽と去っていきました。一度も振り返ることなく、迷いのない足取りで。そんな姿さえもぼくにとっては美しく、いとおしく、嗚呼本当に、夢の中のぼくは愚かでした。
しかし怒りの感情もまた芽生えていました。裏切り、いえ、騙されていたことへの、そして生を奪われようとしていることへの、強い怒り。許せない、そう思いました。
地面には血溜まりが出来上がっており、刻一刻と広がっていました。もう歩くことなどできない。唯誰かが偶然にも通り掛かってはくれないだろうかと一縷の望みを掛けて、通りの方へと目を凝らし続けていました。ぼくを生かしていたのは怒りです。憎悪です。陳腐な復讐を誓っていたのです。しかし待てども人っ子一人現れません。まだ薄暗い曙でしたし、元々人の往来が少ない場所だったのです。落ち合い場所にそこを選んだのは彼女でした。
そうしているうちに、何時の間にか其の木が鮮やかに色付いていたのです。薄紅の花が一斉に咲き誇り、それはもう圧巻の光景でした。ぼくの体から流れ出た命の雫が、此の大木を蘇らせたのだ。そう思うと、消えゆく灯火に未練などなくなりました。ぼくを裏切った彼女のことも、其の瞬間に赦せてしまえた。だから最期の言葉は、「神よ彼女をお赦し下さい」でした。
ぼくは、彼女を、彼女の全てを、赦したのです。


「どうです?面白かったでしょう?」

笑う男の目は仄暗く、罪を忘れるなと訴え掛けるかのようであった。全て許したなどと嘯きながら、それはきっと油断させる為の甘い嘘なのだ。……なんて、私は彼の夢の住人ではないのに。其の、筈なのに。
桜の樹の下には死体が埋まっている。ふと其の言葉を思い出しぞっとする。
窓の外、街路樹は華やかな薄桃に染まっていた。


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