まだもう少し短い夢に溺れていたい

彼は、実に様々な場所へ連れて行ってくれた。美しい場所、ちょっと怖い場所、市民の憩いの場のような場所……一人でいたらきっと足を運ばなかっただろうと思うような所もあって、彼には感謝しかない。其の反面、これ以上彼に近付いてはいけないという思いもあった。どこか危険な香りのする人だったから。

「そういえば……仕事とかはいいの?」
「ええ、まあ……」

言葉を濁し曖昧に笑う彼の、明らかに怪しい素性を、問い質そうという気は全く起きず、結局あやふやな状態のまま一ヶ月、二ヶ月と時は経ち、とうとう今日で三ヶ月だ。武装探偵社の社員としては、此の怪しさ満点の人物を放っておく事はいけないのだろうが、依頼があるわけでもなく、日本のヨコハマにいるわけでもない、今は休暇中なのだからと、私は其の点に関して目を瞑った。
お互い言葉にする事は全くと云っていいほどなかったが、好意には気付いていた。認めざるを得ない。私は彼に一目惚れをしたし、彼もまた、信じ難い事に、私に一目惚れをしたのだ。そうでなければ、あのカクテルを贈る事も、こんなに親身になってくれる事も、ないだろう。
恋に落ちたのはいったい何時ぶりだろうと考えて、愕然とする。未だかつて、こんなにも身を焦がすような想いを抱いた事があっただろうか?答えは否、だった。恋をした事は何度もある。初恋はよくあるクラスの男子、初めて付き合った人もクラスの男子、自慢じゃないが告白された事もある、けれども、それらはどこか甘酸っぱさの残る淡いものだった。それがどうだろう、今の恋は。毎夜の熱情は。子供っぽい甘酸っぱさなど欠片もない、ひたすらに濃く、胸を焼き焦がすもの。そうして私は、これが恋ではなく、愛であるのだと知った。
今日の宿泊地は、夜景が綺麗なホテルだった。彼の手配するホテルは何処も一流で、相当お金が掛かっているのだろうという事は想像に難くないが、彼は頑として私にお金を払わせようとはしなかった。奢りますから、が、奢らせてください、に変わったのは、何時からだったか。まるで令嬢にでもなった気分だった。勿論、溺れてしまわないように、毎日同僚達の写真を眺めては、自分が探偵社の社員であるという自覚を持つようにしていたのだけど。

「ねえ、日和さん」

窓から見える夜景の素晴らしさに、言葉もなく見惚れていた私の耳元で、彼が私の名を呼んだ。

「月が、綺麗ですね」
「えっ……?」

思わず振り向いて彼の顔を見れば、優しい微笑みを浮かべて、私をまっすぐに見つめていた。勘違いではない、自惚れではないのだと、悟るにはそれは充分すぎた。

「私……死んでもいいわ」

目一杯に涙を溜めた私の返答に、満足げに笑って私を抱き締めた彼は、もう一度、噛み締めるように、月が綺麗です、と囁いた。以前から日本語が達者な人だとは思っていた。けれども、まさかこんな事まで知っているなんて。驚きも然る事ながら、嬉しい、という感情が私の全身を支配し、心臓を高鳴らせた。これが私たちの、二度目の、愛の言葉だった。
それから、何度か軽い接吻を交わして、寝台へと雪崩込む。シーツの海に沈みながら、唇を割って滑り込んでくる熱い舌に自らのそれを絡ませれば、自分のものとは思えないほど甘ったるい声が漏れた。閉じていた瞼を上げれば、近すぎて焦点の合わない、熱情を宿した紫水晶が私をしかと捉えて離さず、逸らす事を許さなかった。服を捲られ、手が直接肌に触れる。彼の指先の冷たさにふるりと身体を震わせながらも、なぞられるままに熱い吐息と嬌声を漏らした。





いつも、先に目覚めるのは私だった。どうやら彼は朝に弱いらしい。気付いたのは随分前で、初めこそさっさとシャワーを浴びていたものだけれど、最近では、彼が目覚めるまでシーツに包まって待っている。普段通りベッドを抜け出そうとした時、私の体に腕を回しながら寝言で、行かないでください、と彼が云ったからだった。覚えてはいないらしいが、しかし、起きるとすぐに私を抱き寄せて、額に瞼に頬に唇に、沢山の接吻を贈ってくる彼だから、これでいいのだと思う。
今日も彼はまだ起きない。昼間はウシャンカに隠れている、少し長めの艶やかな黒髪を梳けば、さらりとしたそれらは指の間から簡単に零れ落ちてしまった。次に、色白の頬を静かに触る。肌理細かな肌はすべすべで、なんだか羨ましいような、狡いような、複雑な気持ちになった。それから、目の下の隈をそっとなぞった。どれだけ寝ても消えないこれは、体質だから仕方ないのだと云っていた。そして、ふっくらとした唇に指を持っていこうとした、瞬間。がしりと手首を掴まれて、目を見張った。

「朝から積極的ですね」

色気をふんだんに含んだ掠れ声を発した彼は、片目を開いて、徐ろに私の指先に接吻を落とした。全てが心臓に悪すぎる。

「おはようございます」
「お、おはよ……」

いったい何時から起きていたのだろう。いきなりの事に心臓をバクバクさせながら、首を傾げる。あんなに触れられていたら目も覚めますよ。彼はそう云うけれど、私だったら意識が浮上する事はないと思う。きっと彼は、気配だとか、そういったものに敏感な人なのだ。
一緒にシャワーを浴びてさっぱりした私たちは、付属のレストランで朝食を摂る。気付けばこれが、毎朝の日課になっていた。初めは戸惑った露西亜料理にも慣れ、日本に帰ったら作ってみようかなと思っていたりする。勿論、味付けだったり材料だったりは多少変わるかもしれないのだけど。是非とも社の皆に振る舞いたい。其の事を告げれば、彼は、私の家に行きましょう、と私を自身の家に誘った。私の手料理を食べてみたいらしい。
初めて訪れる彼の家は物が少なく、綺麗なのだが、生活感が抜け落ちていた。ある意味彼にぴったりかもしれないと思いつつ、先導する彼の背に続く。リビングに荷物を置かせてもらい、キッチンへ。冷蔵庫を覗くと、そこには予想通りと云うべきか、全く食料が入っていなかった。物の見事に空っぽだ。

「これじゃあ作ろうにも作れないわ」
「では買い物に行きましょうか」
「……なんだか、」

私は、そこで言葉を切らずにはいられなかった。彼の冷えた人差し指が、私の唇に重ねられたから。幼児に、静かにするよう云い聞かせるかの如く。
なんだか結婚したみたいね。云いかけた言葉の続きを、彼は、察したのだろうか。そして、聞きたくないと、思ったのだろうか。だとするなら、何故。不意に、私と彼は互いの想いを知っていて、体の関係もあって、けれども、決して付き合っているわけではないのだという事実に気が付いた。彼は、私と結婚だとか、そういう関係に至る事を望んでいないのだ、という現実にも。彼は露西亜人で、私は日本人で、国際結婚ともなれば親や親族の反対もあるだろう。しかし、私には、どうもそれだけが理由ではないような気がしてならなかった。もっと言えば、彼の"職業"に関係があるのではないか、と……。けれども、矢張り私は、真実を見ないように目を閉じるのだ。まだ、もう少し、あと三ヶ月だけ。

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