ねじがゆるんだ幸福論のよる

迷子の鉄則といえば其の場から動かない事だろうが、それは複数人で来た場合のみであって、一人旅では寧ろ避けなければならない、と思う。何故なら、頼れる人は自分以外にいないのだから。
二十代にもなってまさか迷子になるとは思ってもいなかった。まあ此処が初めて訪れた異国の地であるという事は、云い訳くらいにはなるだろう。乱歩さん辺りにでも知られたら、笑われる事間違いなしではあるけれども。云わなければバレない筈……否、乱歩さんには見抜かれそうな気もする。反異能者である太宰くんが入社した事で、乱歩さんは異能力者ではないという事実が乱歩さん以外の社員に知れ渡ったわけだが、だからこそ、乱歩さんの凄さを再確認する事となった。異能力者でもないのにあの推理力……まさに探偵になる為生まれてきた様な人だ。
暫く歩いているうちに、辺りが少しばかり暗くなってきていた。腕に嵌めた安物の時計を確認すると、二十時半を指そうとしていた。その事にぎょっとする。そういえば夏の露西亜は日本に比べて日没が遅いんだっけ。旅立つ前に太宰くんに云われた事を思い出した。これは早く宿を取らなければと、慌てて端末を取り出す。初めから地図アプリを使えば迷子にもならなかったんじゃ……そんな事を思うが、過ぎた事は気にしない。現在地の確認と、近場の宿を探せば、あった。徒歩十分ほどの距離に、それなりのホテルが。とりあえず今日はそこに泊まる事にする。
そんなこんなで部屋を取る事が出来た私は、其のホテルのバーに来ていた。ジャズが流れる優雅な雰囲気のそこは、私と同年代であろう女性に是非とオススメされたのだった。日本でもこういう場所には数える程しか行った事がない私は、見知らぬ土地という事もあって、かなり緊張していた。きょろきょろと店内を見回す姿は、さぞ不審だっただろう。客の姿はちらほらあるが、カウンター席は空いていた。一番端に座れば、すかさずマスターが何になさいますかと問うてきた。おすすめで、と云いかけた私を遮ったのは、全く知らない男性の声だった。

「スクリュードライバーを、彼女に」

畏まりましたと云って作り始めるマスターを横目に、勝手に頼んだ男性へと目を向けーー息を呑んだ。雪よりも白い肌に、私を見つめる吸い込まれてしまいそうな紫の瞳、軽く弧を描く口許。隈が目立つが、それさえ薄幸さを醸し出す材料となっている。ロシアン帽ーー確かウシャンカと云ったーーの下からは、少々長めの前髪が覗いていた。私は彼から、目が、離せなくなった。
何時間にも感じられた見つめ合いは、マスターが出来上がったカクテルを置いた事で終了を迎えた。私は目の前のカクテルを注視し、彼は、そんな私の隣に腰掛けた。
彼が私にと頼んだカクテルーースクリュードライバーは、ウォッカとオレンジジュースを材料としたもの。そしてーー

「マスター、彼に……エンジェルズ・キッスを」

なかなかに云うのが恥ずかしかったけれど、私の今の気持ちを伝えるには、恐らく最も相応しい。すぐに意図を察したらしい彼が、くすりと笑う。

「貴方に見惚れて……ですか。自惚れてしまいそうです」
「貴方こそ……貴女に心を奪われた、だなんて」

ことりと、マスターが彼の前にエンジェルズ・キッスを置く。

「まずは乾杯といきましょうか」

カチン、と互いのグラスを軽くぶつけ、小さく音を鳴らす。そして、同時にカクテルを口に運んだ。甘い。それ以上、私は何も云わなかったし、彼も何も云わなかった。無言の空間にジャズだけが流れる。ともすれば此処には私と彼の二人しかいないと、勘違いしてしまいそうになる。
スクリュードライバーには、女殺しという異名がある。アルコール度数が高いにも関わらず、其の口当たりの良さから、女性が何時の間にやら酔ってしまう為に名付けられたものだ。まだ意識ははっきりしているけれども、これ以上飲み続ければ確実に酔う。部屋に戻ろうと思って、立ち上がろうとした。が、ふらり、と揺らめく視界。あ、やばい。そう思った時には、隣の彼に凭れ掛かっていた。

「大丈夫ですか?」

ふるふると首を横に振れば、失礼、と声を掛け、彼が立ち上がった。そして、私の腰に手を回す。部屋は、と訊かれ、正直に部屋番号を伝えた。会ったばかりの見知らぬ男性、意識はしっかりしていても足取りの覚束無い酔った自分。状況としてはあまりに危険だという事は分かっていたのに、私は、彼の華奢な体に身を預ける様にして廊下を進んだ。そうやって漸く辿り着いた部屋で、彼の注いでくれた冷たい水を飲み干した。
コップを机に置くと、待ってましたとばかりに、彼の指が私の、赤くなっているだろう頬をなぞった。ぼうっと彼の紫水晶を見つめれば、熱を帯びた瞳に射抜かれる。近付く唇を、拒む理由は何処にもなかった。





朝。目覚めると、隣には昨夜の彼が眠っていて、よく聞く様な泥棒の類いではなかったらしいと、そっと胸を撫で下ろした。次いで、何も身に付けていない自分に気付く。途端に彼との行為を思い出し、ぶわりと顔に熱が集まった。あまりにも情熱的な一夜だった。冷ややかささえ感じる彼からは、想像もつかないほどに。
彼を起こさない様細心の注意を払って寝台から抜け出すと、散乱する自分の衣類を掻き集め、そそくさとシャワールームへ閉じ篭った。シャワーを浴びつつ、鏡に映った体を見れば、至る所に赤い痕ーー所謂キスマークが。彼の、熱を孕んだ眼差しと吐息が脳裏を掠め、追い払う様に慌てて首を振った。生娘だったわけでもあるまいし、何故こんなにも意識してしまうのか。火照った体を冷ます様に、冷水を浴びた。
服を身に付け、シャワールームを出れば、目覚めたらしい彼と出会した。

「おはようございます」
「ええ、おはよう」

次いでシャワールームへ入っていった彼の、寝起きだからか掠れた声音に、どくりと心臓が音を立てたのは、きっと気のせいではない。
水を飲みながらソファに座って端末を触っていると、出てきた彼がレストランに行きましょうと私を誘った。此のホテルの地下一階に、とても美味しいレストランがあるのだと云う。断る理由は全くなくて、鞄を手に取り立ち上がると、自然な動作で鞄を取られ、机に戻された。

「私が奢りますから」

そう云う彼の声には有無を云わせぬものがあって、こくりと頷く他なかった。





部屋に戻ると、彼は、街の案内を申し出てきた。

「貴女は観光客なのでしょう?」
「ええ。でも……」

そこで、漸く私は、彼の名前を知らない事に気が付いた。一夜限りの相手であれば問題ないが、案内してくれると云うのなら、それでは困る。

「名前を教えて欲しいわ」
「……私はフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーです。貴女は?」
「笠山日和よ」

矢張り日本の方だったのですねと笑う彼ーードストエフスキーは、取り出した地図を机上に広げた。名前を告げる時、一瞬、躊躇する様に口篭ったのを、私は見て見ぬふりをした。
何処に行きたいですかと問われ、貴方のおすすめの場所に、と答えたのは、日本人にありがちな優柔不断故ではなくて、初めから行き当たりばったりな旅をするつもりだったからだ。だからこそ、初日から迷子になるという醜態を晒したわけだけれど。それもまた、旅の醍醐味だと思っている。私の言葉に暫し黙考した彼は、では此処に行きましょうと、地図のある場所を指し示した。

「とても綺麗な所ですよ」

彼が私の耳元で囁くものだから、危うく勘違いを起こしてしまいそうで、振り払う様にそこの名称を声に出して読んだ

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