夜が駆け出すよりも早く

私が料理本片手に作った露西亜料理を、彼は美味しいと云ってあっさり完食した。結構な量を作ってしまったのに、少食に見える見た目からは、そして実際少食な普段の彼からは想像もできないほど、あっさりと。食べ終わった後、少し食べ過ぎてしまいましたと苦笑いを浮かべて自身の腹を摩っていた。其の姿がなんだか子どもっぽく見えてしまって、思わず頭を撫でた私は悪くないと思う。実際には、恐らく彼の方が年上だろうけれど。所謂ギャップ萌え、というやつだ。
それから数日を、彼の家で過ごした。何処かへ観光に行くでもなく、お出掛けと云えばスーパーで買い物を済ませるくらいで、料理本片手に露西亜料理に挑戦し、彼に振る舞う日々。なんの為に異例とも云える半年もの休暇を頂いたのか、忘れてしまいそうだった。勿論、休暇を何に使おうが私の勝手なのだけども、親身になって露西亜語を教えてくれた太宰くんや荷物を纏めるのを手伝ってくれた国木田くんや与謝野女医、此の休暇を下さった社長、それに、半年も休むというのに快く送り出してくれた社の皆の事を思うと、こんな風にだらだらと過ごしていて良いものか、と思ってしまう。もっと時間を有効に使うべきなのでは、と。とは云え、名所と呼ばれる場所には粗方訪れたし、行く場所がないというのもまた事実で。結局、こうして彼と共にのんびりとした毎日を送っている。
そんな折、彼から、日本語や日本文化を教えて下さいと頼まれた。文化は兎も角として、日本語に関しては完璧じゃないかと云えば、現地の人に教えてもらったわけではないから不安が残るのだ、と。今まで露西亜について色々と教えてもらっていたし、私に出来る範囲なら、と、彼専属の日本語教師になった。教師と云えば、国木田くんは探偵社に入る前、たしか数学教師をしていたのだったかな。教え方について指導してもらえば良かったと思ったが、国木田くんは明らかにスパルタそうなので、脳内で即座に却下された。私にスパルタは合わない。し、生徒である彼にも合わない。

「日和さん、これは?」
「嗚呼、それは、……」
「なるほど。ありがとうございます」

元々日本語の教養があり、知識を持っていたというのもあるのだろうが、それにしても彼は吸収が早い。乾いたスポンジがあっという間に水を吸い取るように、一度の説明で全てを理解し、次に問うた時にはすらすらと淀みなく答えが出てくる。前々から思っていた事だけれど、彼の頭の良さは桁違いだ。あまりにも聡明過ぎて、私なんかが教師をしてもいいのかと、気後れしてしまいそうなくらいに。其の時ふと、脳裏に読めない笑みを浮かべた太宰くんが過ぎった。何故だろう。首を傾げた一瞬の間に、消え去ってしまったけれど。

「日和さん」

また呼ばれ、手元を覗き込めば、そこに書かれた拙い漢字に息を呑んだ。動揺を悟られないよう、ゆっくり息を吸い込んで、吐き出した。

「なんと、読むのでしょう」
「……あい、です。露西亜語では、любовь(リュボーフィ)、ね」

顔を上げた彼が、悪戯っぽく笑むものだから、初めから読みも意味も分かりきっていたのだろう事を察した。全く、時折こういった事をしてくるから心臓に悪い。赤くなった頬を隠すように私は俯いて、ゆっくりとではあるが確実に読む事が出来ている、露西亜語の小説に集中するふりをした。
そうして、また、数日が経った。これで半月近くも彼の家でだらだらと過ごしていた事になる。国木田くんに知られたら雷が落ちそうだ。否、流石の彼でも休暇中の過ごし方くらいは大目に見てくれるだろうか?微妙な所だ。

「日和さん、オーロラを見に行きましょう」

オーロラ?と私は首を傾げた。彼が私の持ち物である日本の小説を、私が彼の持ち物である露西亜の小説を、背中合わせになって、互いの体を背凭れにしながら読んでいた時の事だった。まだ十月の下旬、時期的には早いのではないかと訊けば、稀に九月や十月にも観測されるとの事。

「もし見れなくても、見れるまで滞在すればいいだけの話です」

彼の言葉になるほどと思った私は、即決速攻ーーとはいかず、ゆっくりと荷物を纏めると、翌日、彼と共に家を出た。彼もまた急ぐ気は全くないようで、道中寄り道してばかり。一日目は結局隣町にさえ行く事なく、ホテルで一夜を明かした。二日目になって漸く列車に乗って、けれども、途中下車を繰り返したせいで矢張りオーロラの名所だという町には辿り着けないまま。オーロラは逃げませんから。笑って彼は云っていたけれど、そもそもオーロラという現象自体が希少なものなのだから、逃げる逃げないの前に見れる可能性を増やすべきでは?と思わなくもなかった。まあ別に、見れなくても構わない、見れれば幸運、社の皆に自慢出来る、程度の心持ちだったので、特に気にはしなかった。きっと彼も、そんな私の心情を見抜いていたのだろう。
そんなこんなで訪れた、オーロラの名所の町。此処まで来るのに半月も掛かってしまった。流石に寄り道ーーと云うより遠回りと云った方が適切かもしれないーーをし過ぎたと反省している。彼は全くしていないようだけれども。相変わらずの涼しい顔をしている。これで、彼の家に滞在した期間を含めると、一ヶ月も無意味に時間を過ごしていたわけだ。いや、彼との時間自体はとんでもなく有意義なものではあるのだけど。
彼曰く、此の町は、夏は数週間にわたり日没がない白夜が、冬は昼の時間が極端に短く夜が長い状態が続くのだとか。つまり、これからの季節は夜が長いという事。日本も夏は昼が、冬は夜が長いとは云え、日没がなかったりとまではいかない。本当に、日本とは、ヨコハマとは、まるで違う。
宿を取り、部屋のソファに体を沈める。疲れは然程なかったが、やる事がなかった。

「日和さん、渡したい物があるのですが」

隣に腰掛けた彼が徐ろに取り出した袋は、見た目からして高級店の物のようだ。

「いいの?」
「ええ。貴女の為に買いましたから」

手渡された袋から、中身を取り出す。それは、服。そしてーー真白いウシャンカ。

「これ……もしかして」
「はい。私と、お揃いです」

ペアルックは嫌いですか?と訊ねられ、とんでもないと首を振った。ふわふわとした手触りのそれが気持ち良くて、ずっと触っていたくなるけれど、帽子なのだから被らなければ意味がない。彼と同じというだけでなんだか照れてしまって、頬が赤くなった気がした。被って彼を見れば、これ以上ない程穏やかな微笑みを浮かべ、私を見ていた。

「似合う……?」
「とっても」

彼の白く細い腕が伸びてきて、するりと髪を掬われる。そのまま接吻を贈られてどぎまぎしていれば、耳元に近付いた唇が、更に言葉を紡ぐ。

「かわいらしい方です……とても」
「っ!フェージャっ!」

咄嗟に名前を呼べば、彼は嬉しそうに笑って、そのまま私の唇を奪った。触れるだけの、軽やかな接吻。それから、冷たい指先で頬を撫でる。夜にはもっと凄い事をしているというのに、こんな触れ合いで、どうしてこうも熱を帯びてしまうのだろう。

「真っ赤ですね」

指摘され、更に赤味を増す私の頬は、彼の氷のような指先さえ熱くしてしまいそうだった。

「そういえば、男性が女性に服を贈る行為には「脱がせたい」という意味があるんですよ」
「ぬ、脱がせたい……」
「ええ。……ねえ、日和さん」

まだ日没前だという私の訴えは、深く重なり合った彼の唇に飲み込まれた。

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