70
月神香耶side
ワープホールをくぐり抜けると、その先の場所も確かめずに倒れ込んだ。いろいろと限界だった。
「香耶!!!」
と、いつになく焦った様子の佐助君の声が聞こえたので、内心で自分の幸運をたたえる。
移動先は間違えなかったようだ。用意しておいた宿屋。ここは敬助君はもとより、千景君へも足跡が辿られることの無いよう細心の注意を払って借りている。
「嘘だろぉ、こんな大けがしてくるとか俺様聞いてないっての!」
「つ、……」
私は裂かれた腹を手で押さえてうずくまった。傷のほうは問題ない。確かに想定してたより深いけど、この程度ならばすぐにふさがる。
ただ問題はもっと別のところにあった。
「ハァッ、ハ……ッ」
肩で荒く息を継ぐ私の様子に、佐助君も異常だと気づいてしまったようだ。身を丸める私を抱き起こして、仰向けにさせて、彼は息を飲んだ。
「おいおいまさか、羅刹から元に戻れないって言わないよな」
「平、気。放っておけば、いつか戻るよ」
私は吸血衝動を身の内に抑え込んで、ぎこちなく笑う。
そんな私たちに近づく気配がもうひとりいた。
「……猿飛君。彼女に血を飲ませるべきです。そのままではいずれ自我を失ってしまいますよ」
敬助君だ。彼は、佐助君が羅刹の姿に変化して新選組に潜入し、羅刹を壊滅させるのを黙認した。前の世ではあれほど変若水に執着していたのに。今の敬助君の真意が読めない。
ただ敬助君の助言に、私は眉根を寄せる。
ここで私が万が一にも完全に自我を失えば、あとは殺されるのを待つだけだろう。元の世界でならばともかく、今この世界で狂うわけにはいかない。私は皆を連れてBASARAの世界に帰らなければならないのだから。
「佐助くん、」
「まったく、世話の焼けるこって。……後で苦情は聞かないぜ」
かつては私を化け物だと詰ったその口で、「忍の血がほしいなんて物好きだね」なんて呆れたように笑いとばす。籠手をゆるめて手首に苦無の刃を当てる彼の手つきに迷いはない。
刃で浅く肌を切って、私を背中から抱き込むように抱えると、佐助君は自分の傷から滴る血を私に舐めさせた。
血を失って体温が下がったせいだろうか。佐助君の私を抱く手も、身体も、その血潮も。とても熱くて、甘く感じた。
今回も過信がなかったとは言えないが、結果的に前回ほど重症ではなかった。以前、伊達軍との戦の折りに羅刹になった際、小太郎に血をもらったにも関わらず貧血や疲労が残って数日寝込むはめになっていたけど、今回はそんなことにはなっていない。
仮眠程度にひと眠りすると、傷は完全にふさがり痛みも感じないほどに治癒していた。血を多めに失ったせいで何となく本調子じゃないけれど、ぺしんと自分の頬を叩いて気合いを入れ直し、布団を畳んで部屋から出た。
「おや、香耶君。もう身体はよろしいのですか?」
宿の廊下を出ると、隣の男部屋から敬助君が出てきて首を傾げた。そう言えばこのひとにはさっきの一部始終を見られたんだったと思いだし、気まずげに苦笑いを返す。人の血を舐める姿なんて、見られてうれしいもんじゃない。
「あー、先ほどはとんだお見苦しいところを……。総司君はもう合流してる?」
「いいえ、まだです。あれからまだ二刻と経っていませんから」
「そっか」
それじゃあまだ動きようがないな。
会話が途切れて沈黙が降りる。
「……なにか聞きたいことがありそうだね」
「それは君も、ではありませんか?」
彼と暫時ひたと見つめあい、私は観念したように軽く息をついた。そして今出た部屋を再びあけて、敬助君を招き入れる。
「茶と菓子でも頼むかい?」
「お気遣いには及びません。女性の部屋に長居するつもりはありませんから」
「さいですか」
それならと上座に座布団を勧めて、私は向かい合わせに座る。
「君は、」
と、先に口を開いたのは私の方だった。
「一度も口を挟まなかったね」
「なにを今更。私の意思を問うことなく事を進めたのは君たちですよ?」
「異を唱える隙はいくらでもあったはずだ。私たちは君に作戦をいっさい隠さなかった」
人手不足で時間も惜しかった、という理由もあるけれど。本当のところ、彼には見てほしかったのだ。
私たちの信念を。そして変若水がもたらすものの正体を。
「……そうですね。私は君に未来を見たのかもしれません。新選組の闇から連れ出されたあのときに」
敬助君は、新選組で刀を振るうことを生きる道としていた。だからこそ、隻腕となって変若水の可能性に縋った。
「未来に生きた君ですら、羅刹として苦痛を背負い、道理にもとる代償を払っている。……聞かせていただけませんか。未来で変若水はどうなっているのか」
私は少しだけ視線を落とす。今でもはっきりと思い出せる。戊辰戦争の陰で、変若水の犠牲となった者たちの慟哭を。墓標も、遺骸を残すことも許されず、形崩れるまで戦った兵たち。
「羅刹も変若水も、記録すら残っていない。私たちの世界のそれらを処分したのは、私たちの世界の山南敬助だ」
彼は戦争の陰で生み出されたもののすべてに引導を渡し、そして私に尽くすことを贖罪の道として選んだ。
敬助君に後悔はなかった。……でも。
「──やはり、」
そうですか。と、敬助君は嘆息と共に言葉を吐き出した。
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