ここ数日、香耶はのどの調子が悪く、頻繁に咳をしていた。彼女自身はのど飴でもなめてればそのうち治るだろうと気楽に考えていたが、周囲の人間はそれを許さなかった。
この日の朝、香耶の部屋を訪れたのは真田幸村だった。

「香耶、私が付き添いますので病院へ行きましょう」

「やだなー幸村ったら、大げさな。だいたい、君は深夜に仕事してるんだから今は寝る時間でしょう? 自分の身の心配をしなさいよ」

「私は健康ですから一日二日寝なくとも支障はありません。……それに、香耶になにかあったらと考えただけで、心配で眠れないのです」

どうか医者に診てもらってこの幸村を安心させてください、と頭を下げられて、香耶はとうとう折れた。
小さなカバンに財布や携帯、保険証、行きつけの病院の診察券などを準備し、普段はしないマスクをつけて部屋を出る。待っていた幸村にエスコートされてエレベーターを降りると、カウンターにいた君菊が目を見開き、ついで安堵したように表情を緩めた。

「やっと病院へ行かれるのですね。真田さん、どうか香耶さんをお願いします」

「はい」

二人の間で香耶を病院に行かせるよう話し合われていたらしい。そう察して香耶は肩を落とした。
幸村が車を回してくると言って先に外へ出ていくと、君菊は香耶にロビーの椅子に座るようすすめる。だが咳が出るだけでさほど不調を感じていない香耶は、どうせ短い時間だし平気だとカウンターに寄りかかった。

「私がいつも行く病院は人が多くて待ち時間が長い。予約もしてないのに行くのは気が進まないな」

「一時の手間を惜しんでお身体を壊されては元も子もありませんよ。皆が貴女を心配しているのですから」

「わかってるよ、君菊さん。心配してくれるひとがいることはとても尊いことだ」

スマホの画面に指を滑らせると、千姫や小太郎からも再三寝てろだの薬を飲めだのとメッセージが入っているのが確認できる。それぞれに今から病院に行く旨を返信すると、すぐに「診断結果はすぐに知らせろ」と返ってきて香耶は苦笑した。



病院はやはり多くの患者であふれていた。一人だったら引き返していたかもしれない。香耶がそうしなかったのは、幸村が付き添いで来ているためであった。

「受付は済ませたよ。そう言えば呼吸器科にかかるのは初めてだな……。どのくらい時間がかかるかわからないし、幸村は車で仮眠でもとってきたら?」

「いえ。香耶がよろしければ私にお供させてください」

「……まぁ、君ならそう言うと思ったよ」

あいかわらずこうと決めたらてこでも曲がらない男だと彼女は肩をすくめる。
指定された待合いスペースへと歩を進めるさなか、二人は多くのひととすれ違ったが、一人の男が横を通った瞬間、香耶ははっとして振り返った。

「!……、」

「香耶?」

後ろを振り返った香耶に反応したのは幸村だけで、彼女の視線がとらえた男はこちらを気にすることなく去っていく。
香耶の唇が音もなく「はじめくん」と動くのを認めて、幸村はとっさに彼女の視線を目で追った。
さほど背の高くない白衣の男。この病院の医師であろう。男が廊下の角を曲がるときちらりと見えた横顔は、長い前髪ではっきりとはわからなかったがかなり若い年齢に思えた。幸村の記憶にはない男だ。

「……もしや、あの者の前世に、」

「いいよ、幸村。記憶がないのなら無理に掘り起こす必要はない」

香耶が幸村の言葉を遮った。

「……ちょっとびっくりしたけどね。いつもは呼吸器のほうには来ないから、彼がここで医者をやってるなんて知らなかった。私の診察に当たらないことを祈ろう」

「しかし……お辛くはないのですか」

前の世界の仲間が生まれ変わってこの世界にいる。だが再会したとしても、その者にとって前世の記憶がなければ香耶はただの他人だ。

「そうだなぁ。ぜんぜん悲しくないと言ったら嘘になるけど。でも生きてる姿を見られたから、充分だよ」

男が消えた廊下の先を見やる彼女は、まるで子供の成長を喜ぶ母親のような顔でほほえんでいた。



ドラマのようなことは現実にはなかなか起こらないもので、香耶の診察をしたのは年かさの初めて会う医師だった。大病だなどと疑われることもなく、のどの炎症を抑える薬で様子を見ましょう、と言われてロビーに戻り、またそれなりの待ち時間を経て料金を精算し、処方箋を受け取って病院から解放される頃には正午を一時間ほど過ぎていた。

「あーあ、やっぱりお昼過ぎちゃったね。どうする、幸村。帰って寝る?」

「私のことはお気遣いに及びません。少し遅れましたが昼食にいたしましょう」

「そうだね。おなかすいた。すぐそこにうどん屋があるんだけどどう? 徒歩で行けるから病院に車止めとけばいいし」

「はい」

香耶の提案に幸村は微笑んでうなずいた。彼女に再会して少し経ったが、彼女と二人きりで会って出かけるのは再会した日以来だったから内心で浮き立っていた。
こんな夢のような時間が、いつまでも続けばいいのに……、と幸村は思ってしまう。
それはきっと、記憶のないかつての彼女の仲間たちに対する、独りよがりな優越感でもあった。
(2015/02/22)

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