刃にちぬる
「痛っ……」

ちりりと指先に痛みが走る。


包丁で指を切った。香耶はゆっくりと指先を伝う血を見て思わず苦笑する。
料理をするなら多少とも怪我は付き物だが、香耶が刃物で怪我をするのは珍しいことだった。もちろんそれは彼女がこれまで細心の注意を払ってきた結果だ。
はぁ、とため息をついて、包丁を持ったまま水場に移動しようとしたところで、香耶は誰かに腕を捕まれた。

「……!」

驚いて顔を上げると、自分に忠誠を誓う伝説の忍が彼女のすぐ傍に立っていた。
小太郎は香耶の手の指を伝い落ちていく赤い血をじっと見つめて、それを己の口元へと近づける。
彼がなにをしようとしているのか気付いた香耶は目を見開いた。

「待った。小太郎」

あわてた香耶は思わず逆の手に持っていた包丁を、自分の忍びに突きつける。小太郎が鼻先で止まった切っ先から瞬時に身を引いたのは、忍として長年培った防衛本能ゆえだった。

「……私の血を口にするのはやめた方がいい」

香耶は真面目な顔でそう言って、次いで自嘲の笑みを浮かべた。



彼女の血はすなわち羅刹の血である。

単純に普通の人間が羅刹の血を摂取するとその人も羅刹になる、というわけではないことは分かっていた。もしそうだとしたら戦場が羅刹の死骸であふれていたあの幕末の時代、死骸を食べた動物へ、そしてその動物から人間へと羅刹が広がり、日ノ本は未曾有のバイオハザード(生物災害)に見舞われたことだろう。

たしかにこの血を用いれば、あの時代に作られた変若水に限りなく近いものを作ることは可能だろうが、それには専門の知識と複雑で精密な製剤技術が要るようだ。香耶はこれ以上の変若水の詳しい製造法を知らない。

しかし、人間にとって羅刹の血が毒であることには違いなかった。



「この血を含んで君が死なないとも限らないからね」

「……」

「それに傷はもう治っている」

小太郎がシュンとうなだれたように香耶には見えた。気を使わせてしまったと落ち込んでいるのであろうか。
香耶は洗おうと思って手にしていた包丁を台に置き、可愛い自分の忍に手を伸ばす。今度は彼にそれを避けるそぶりはいっさい無かった。

「でも、心配してくれてありがとう」

彼女にするりと頬を撫でられ、小太郎は少し逡巡したあと小さくうなずいた。



できることなら、主も口にしたのであろうその毒薬を含んで、彼女と同じものになりたかったのだと。そんな忠忍の狂信的なまでの願望は、香耶に届くことなく胸中に秘められた。

(2015/02/04)

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