沖田総司side



香耶さんの部屋に立ちつくす僕は、ゆっくりと彼女の書き置きから目線を上げた。
クシャリ、と手紙の端に少しだけしわが寄る。彼女が選びそうな、無漂白風で飾り気のない封筒には、この手紙のほかに香耶さんが持っていたはずの合鍵が一緒に入れられていた。

今朝までは、部屋の東側の壁に彼女の服やスーツが掛けられていた。ベッドの上には生成り色のシーツの布団とやたら肌触りのいい毛足の長い毛布が二枚あった。他にも、タンスの上に積んであった茶色で統一したっていうタオルとか、どこで売ってるのかわからないような渋い陶芸品とか、ひとに勧められて買ったけど途中で読むのをやめた推理小説とか、僕に取られないように机の引き出しに隠してたチョコレートとか……。

そこかしこにあったはずの香耶さんの気配が、夕方僕が帰ってくる頃には、部屋からすっかり消えていた。残されていたベッドや、タンスや、カーテンは、ぜんぶみつ姉さんのものだ。

手紙の内容と今の状況をやっとの思いで飲みくだして、僕は部屋から弾かれるように駆け出した。祈るような思いで確認した靴箱にも、洗面台にも、食器棚にも。香耶さんのものは何もなくて。流し台の乾燥棚に、置き去りにされた歪な形のカップを見つけて、すがりつくようにそれを手の中に納めた。

「香耶さん、……香耶、」

僕の声は、情けないくらい震えていた。

どうして。
香耶さんはどうしてこんな思い違いをしてるの。



あれはまだ、僕が社会人になる前。ずっと憧れていた香耶さんと暮らすことを望んだのは僕だった。香耶さんは仲の良かった僕の姉と数年間ルームシェアしていて、姉さんがお嫁に行くと決まったことで、僕にチャンスが巡ってきた。
香耶さんと暮らして、ゆくゆくは彼女と一緒になりたいのだと、必死で姉さんを説得した。姉さんは最初渋っていた。香耶さんにとって僕は赤の他人の、しかも異性。だから、協力を得るにあたって姉から僕に出された条件は厳しいものだった。

「香耶が不快に思うことは絶対にしないこと。総司がどんなに香耶を好きでも、想いが通じ合わないうちから不用意に触れたりしないで」

僕の軽はずみな行動一つで、香耶さんが安心して帰れる場所を無くしてしまう。そう言われてしまえば僕はうなずかざるを得ない。きっと男と暮らすってことはそれだけで彼女にとってストレスになる。
だから、一緒に住み始めた当初、僕は香耶さんとの距離感を測りかねて、ずっとぎこちない態度しか取れなかった。それに憧れの彼女を前に緊張もしていた。
彼女はそんな僕の態度を、警戒していると解釈したみたいだけどね。手紙を読んで初めて知った。ちょっとショックだ。

けれどもっとショックだったのは、香耶さんがなぜか僕の想い人を別人と誤認してるってこと。
だって僕が好きなのは、結婚したい相手は、香耶さんなのに。



香耶さんの携帯に何度電話をかけても彼女は出ない。着信拒否はされてないみたいだけど、無視されてるんだろうか……。自分の想像で胸が痛くなる。思いつく限りの通信手段で彼女にメッセージを残した。
それから、姉に助けを求めようかと一瞬考えたけれど、やめた。姉さんにはいろんな意味で怒られそうだ。それに香耶さんのことだから気を使って、姉さんにはなにも言ってない可能性のほうが高い。少し考えて電話帳の画面を指で送り、僕が電話をかけた先は。

「……何か用か」

「土方さん今ヒマですよね。ちょっと香耶さんのことで聞きたいことがあるんですけど」

「暇ですよねって決めつけんのか……。まあいい。あいつのことで聞きてえことってなんだ」

昔、同じ道場で剣を学んでいた土方歳三。現在は香耶さんと同じ職場に勤めてる。世間って狭いよね。

「香耶さんに何か吹き込んでません? たとえば僕が後輩の女の子と付き合ってるだとかありもしないことを」

「はぁ? てめえが香耶以外の女と付き合えるのかよ」

この反応はシロか……。

「あいつと喧嘩でもしたのか」

「喧嘩だったらまだよかったんですけど」

もし僕と千鶴ちゃんの仲を誤解した香耶さんが、嫉妬して、怒って出て行ったのなら望みはある。でも手紙を見る限り香耶さんは完全に善意だ。僕と他人の婚約を祝福してくれている。つまり彼女にとって僕は眼中になかったってこと。
気は進まなかったけど土方さんに詳しく状況を説明すると、土方さんは電話の向こうでため息をついて、「だからあいつあんなことを……」と呟いた。

「香耶さんが今どこにいるか知ってるんですか!?」

「いやそれは知らねえよ。ただ引っ越し先を探してるって相談は受けた。総司に結婚するって言われた、ってな」

土方さんはそれを聞いて香耶さんと僕が結婚するのだと思ったらしい。

『僕さ、そろそろ結婚を考えてるんだよね』
『そっかー。それにしても急だね。今までそんなそぶり見せなかったのに』

僕と香耶さんの何日か前の会話。香耶さんの反応を見たくてわざとあんな言い方をした。嬉しそうにしたり、ぼんやりしたりしてたから脈ありだって期待したのに……いや、きっとこれは僕の自業自得。臆病になって、ずっと想いを曖昧にぼかしたままでいたからこんなことになったんだ。

やるせなくて、僕は髪を掻きむしって壁に背を預けて座り込んだ。

「だいたい、なんで他の女と出かけてんだよ」

「……香耶さんに贈るものを探しに行ったんですよ。でもひとりじゃ勝手がよくわからなくて、それで女友達に頼んで」

軽率だった。こんなことになるなら、クリスマスと言わず今日香耶さんを連れてって、強引にでもなし崩しにでも婚約させちゃえばよかった。

「ったく、世話の焼ける。俺が言うのもなんだが、香耶はちゃんとてめえに気があったはずだ」

「そう、かな……」

「じゃなきゃ手紙だけ残していきなり消えるなんておかしいだろ。身を引いたんだよ、あいつは」

「……」

そうなんだろうか。僕にまだ希望はあるんだろうか。

「どうせ明日仕事場で会えるだろうから住所は聞いといてやる。だから泣くんじゃねえ」

「泣いてませんよ」

と言いながら、僕は袖口で目元を擦った。このひとにお見通しだなんてムカつく。
数分前よりは幾分か落ち着いた心持ちで土方さんとの通話を終わらせ、香耶さんのカップを片手にいじりながら彼女に電話をかけ続ける。彼女は相変わらず電話に出なかったけど、引っ越し直後なんだから忙しくて気付かないのかもしれないな、と前向きに考える余裕はできた。

そうしているうちに携帯の電池が心もとなくなってきたから居間のこたつの脇にある充電器を手にとって、そこではたと気付く。

「これ、香耶さんのだよね」

これがここにあるってことは、香耶さんはどうやって充電するつもりなのかな。



悶々と眠れない夜を明かした翌日は、月曜日だから普通に仕事があった。
働かない頭でどうにか仕事をこなし、仲間にも協力してもらって無理やり定時に上がるとちょうど土方さんから一報が入る。

「香耶は役所に行くとかでもう店にはいねえ。だがそのあとはまっすぐ帰るっつってたから夜は家に居るだろ」

「そうですか。……ところでまだ香耶さんに電話つながらないんですけど」

「面倒だから家に置いてきたってよ。帰りに覚えてたら充電器買うらしい」

「こっちの気も知らないで……のんびりしすぎでしょ、あのひと。で、肝心の住所はちゃんと聞き出しました?」

「あたりまえだ」

こうして香耶さんの引っ越し先の住所を手に入れた僕は、逸る気持ちを抑えきれないまま駅のホームへと駆け込むのだった。

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